12月21日 (火)  「たかやん議員日記」2004.第279弾! 

「たかやん議員日記」2004.第279弾!  12月21日(火)

野寺小学校の卒業アルバム

知識が増えた修学旅行           6年1組 邑 亮

僕は今年の6月2日3日に行った修学旅行が、6年間の宿泊学習の中で一番楽しみにしていた行事でした。しかし、修学旅行の日を待っている間に僕にとって凄い大変なことが起きました。それは心臓病になったことです。それを聞いたときは凄いショックでした。そんなことがありながら、修学旅行の日になってしまったけど、心臓病のことなんか気にせずに行こうと思って、忘れながら行きました。僕が一番心に残ったことは東照宮です。中でも凄かったのは陽明門、眠猫、三猿、想像の像の四つの彫刻が400年前の人が彫ったなんてとても思えませんでした。次に華厳の滝に行きました。この滝は高さが97メートルもあって、滝つぼの深さが5メートルもあると聞いて、とても驚きました。その次に足尾銅山に見学しに行きました。足尾銅山の中には当時の苦労した様子を中の蝋人形で見ることができました。他には江戸時代から昭和時代までの文明がどのくらい発達したのかが分かったので、社会の勉強になりました。ホテルに着いてから熱を出してしまいました。そのお陰で食事が食べれず先生の部屋で2時間寝てから、自分の部屋に戻ったけど、まだ熱が下がってなく暑くて全然眠れませんでした。朝起きたときは熱は完全に治っていました。苦しかった修学旅行だけど、歴史の勉強にもなったし、先生や友達の優しさが、より一層分かったので、幸せな修学旅行でした。

野寺小の卒業アルバムを何気なく見ていたら、こんな卒業文集が出てきた。小学校6年生の作文にしちゃあ、なかなかいいじゃないかと思った。最後の「幸せな修学旅行」が泣ける・・・・。

亮の心臓病がハッキリした時、僕は清瀬の小児病院の駐車場で声を上げて泣いた。初めて他の子ども達が羨ましいと思った。運動が大好きな少年が「一切運動をしてはいけません!」と言われたのだ。「テレビゲームは何時間やってもかまいません。でも運動は一切駄目です。」色々病院を回り、頼みの清瀬の小児病院でもそう言われたのだ。亮はぽかんとしてその言葉を聞いていた。サッカーとテニスが大好きな少年はあの時どう思っていたのだろう・・・・・

六中時代の同僚から日大病院を紹介されて、原田先生に会って、僕らは救われた。「体育の授業程度の運動ならやってもいいよ。」「この子から運動をとったら、死んでしまうよ。」原田先生はそう言った。亮の夢はテニスの全国大会で優勝することだった。そして父親の僕を倒すことだった。「全国大会で優勝できたら死んでもいい。」亮はよくそう言っていた。そんなことを言われても死なせるわけにはいかない。僕は六中のハードな練習を亮一人の為に全て変えてしまった。毎日の3キロのランニングをやめ、そして練習を最高でも連続3分までと決めてしまったのだ。中学生達はその意味を理解してくれた。そしてその練習で彼らは全国大会で優勝したのだ。亮も何とか1年生でそのメンバーに入ることができた。彼の夢はかなった。2年生の時は関東で優勝、全国は3位だった。そして3年生。僕はあと1年六中に残らせて欲しいと頼んだが、教育委員会は許可しなかった。僕は息子の命が一番大事だったのだ。同一校10年という規則は知っていた。しかし息子の命よりも大切なものは僕にはなかった。だからお願いしたのだ。別にテニスのことはどうでもよかった。僕がいなければ息子が無理をするのは分かっていたのだ。「死んでもいいからもう一度優勝したい。」彼はそう思っていたはずだから・・・・・。

結局、僕は二中へ行き、亮たちは県大会の決勝で負けた。関東大会すら出場できなかった。彼のテニス人生はそこで終わった。そして僕の教員生活も終わりに近づいていったのだった。

亮は22歳になった。騙し騙し体を動かしている。そんな素振りを見せたことはないが、いつも自分の命を意識して生きているはずだ。

野寺小ではいい先生に巡り会えた。六中でもいい先生達に巡り会えた。友達にも恵まれた。でも原田先生との出会いが、彼の今までの人生では一番幸せな出会いだっただろう。