3月20日 (土)  高校の同窓会

高校の同窓会
石神井高校テニス部のOB会に参加してきた。ひとみと空と三人で久しぶりの先輩の家に行った。昔中学生、小学生だった女の子達が二十三四の素敵な女性になっていた。先輩立ちは52歳と51歳。二人とも余り変わってなくて、とてもいい顔をしていたので嬉しかった。そう夫婦揃って石神井のテニス部だったのだ・・・・・。
テニスコートには60過ぎの先輩から15歳の高校1年生(優希)まで、実にたくさんの人達がいた。そして今年76歳になったという僕の先生も・・・・・
僕たちは、先生や先輩達に挨拶をしてから懐かしの“西側コート”でテニスを始めた。その当時硬式テニス部のコートは2面だけで、“西側コート”が男子コート。“東側コート”が女子コートだったのだ。当然僕らの記憶にあるのは“西側コート”な訳で・・・・・そこでテニスをしていると色々なことが蘇ってくるのだった。夏の暑い日のボールボーイ。午前中4時間、午後4時間。練習中は水を飲ませてもらえなかった。僕らはトレーニングの最中に関公園の橋の下の湧き水を隠れて飲んでいた。「飲料には適しない。」という水を平気で飲んでいたのだから大したものだと思う。
僕らは“西側コート”に毎日5回ローラーをかけた。雨が降った次の朝は20回かけろという命令があり、本当に20回かけていた。冬の間は筵をかけ、霜からコートを守っていた。その筵を干すのは大変な仕事だった。コートの両脇のフェンスによじ登り、危険な思いをしながら筵を引っ張りあげていた。
“西側コート”と道路の反対側には農家の“肥溜め”があった。僕が知っているだけで3人その肥溜めに落ちた。そうボールを拾いに行って落ちるのだ。僕のダブルスのパートナーの天野もその一人だった。
僕らの時代コートの中で1年生が笑うことは許されなかった。だけど天野が落ちた時、物凄い匂いがして、3年生の先輩達が笑い転げて・・・“西側コート”のネットについていた僕も思わずクスっと笑ってしまった。2年生の先輩達は1年生の前では笑ってはいけないという決まりがあったのだが、さすがにクックッと笑っていた。
天野は首までウンコにまみれていた。何が何だか分からず・・呆然としていた。そんなことがあったのも“西側コート”だった。
学校での懇親会での後、数人で武蔵関で飲んだ。かっこよくて憧れていた先輩が52歳。可愛かった1年生(2年後輩)が48歳。そして31年ぶりにあった同級生が50歳。もう先輩も後輩もない歳なのだろうが、やっぱり先輩は先輩で兄貴のような存在だったし、後輩は後輩でなんだかかわいかった。僕らはお酒を飲みながらあの頃の自分達に戻っていた。あれだけ苦しかった練習が「宝物」のように思えるのは何故なんだろう・・・・。今の僕があるのは石神井の“自由”な校風と無関係ではないだろう。五中や六中の練習の原点が石神井の練習にあることは言うまでもない。そして今の土曜のテニスもまたそうなのだ。