12月19日 (月)  「たかやん議員日記」2005.第349弾! 

「たかやん議員日記」2005.第349弾!  12月19日(月)

シリコン
網膜はく離の手術にはシリコンが使われる。はく離した部分にシリコンを入れ、圧力をかけて元に戻すのだ。麻酔をしても痛みはかなりあるらしい。我が家は親父も目が半分見えなかったし、兄貴も生まれつき目が悪い。長女の雪にもそれが遺伝してしまった。雪が小さい頃、順天堂病院で目の中に色々入れられて検査された日のことを今でも覚えている。可哀そうで涙がでてしょうがなかった。義母の手術は無事終わったようだが、ちゃんと元に戻ることを祈ろう。

パークタウン
防衛医大は所沢のパークタウンの隣りにある。懐かしい昔の我が家の傍を何度も通った。「ベランダからゲロ事件」「所沢警察事件」「かにもどき事件」「目覚まし事件」「クイント事件」「ジョニ黒事件」「NHK取材事件」「喘息とハイライト事件」「大貧民で告白事件」「航空公園肝試し事件」などを懐かしく思い出していた。そして昔一早と一緒に五円玉を投げた北高へ・・・・敦子や一早達が練習し、その後愛達が練習したコートで3人の子達がテニスをしていた。ああ懐かしや江島先生。


今日は久しぶりにみんなで歌を歌った。ギターは思ったよりも上手く弾けた。声も思ったよりちゃんと出た。五中でも六中でも二中でも歌はよく歌った。理科の授業は覚えてなくても、歌を歌ったことはみんな覚えているらしい。歌は記憶を呼び戻す。歌っている時に、タイムマシンに乗っているような気がしてしまった。

教育長
僕が五中に赴任していきなり三年生の担任を持たされたとき、校長に「硬式テニス部作ってはいけませんか?」と聞いたことがある。すると校長は「邑、今軟式をやっている子達の気持ちはどうするんだ?」と僕に尋ねてきた。僕は何も言えなくなって「分りました。軟式をやります。」と答えた。子ども達の気持ちを大事にする校長だった。その校長の名前は中村敞一郎。その人がたった1年で五中を去っていった時、僕は泣きながら校長に怒った。「校長!何でいっちゃうんですか!まだたったの1年ですよ!」校長はこう言った。「すまん、俺はこれから新座市全部をみなきゃあならんのだ。邑、いつも子どもの気持ちを考えろ。しっかりやるんだぞ。」「はい。」中村敞一郎は教育長になった。僕は校長との約束を守りながら子ども達と一緒に生きた。五中に硬式テニス部ができたのはそれから5年後だった。当時の子ども達が「先生、硬式をやりたいです!」と言ってきたのだ。僕には寝耳に水だった。