3月20日 (日)  「たかやん議員日記」2005.第79弾! 

「たかやん議員日記」2005.第79弾!  3月20日(日)

サッカーそしてテニス
僕は小さい頃野球をしていた。背番号は12。南海の広瀬の背番号だった。小学校の高学年になってからはバスケット。代々木のオリンピック体育館でオリンピックの日本代表に毎週バスケットを習っていた。中学に入っても勿論バスケット。オリンピックに行くのが夢だった。でも骨折で挫折して・・・根性がなかったから辞めて・・・バレー部に入って、試合に使ってくれないといじけてやめて・・・本当に恥ずかしいくらい根性がなかった。そして絶対にこれだけは“女の遊び”だからやらないと決めていたテニスを始めたのが中一の3学期。それからテニスはずっと続けている。中学時代は鉄棒にも燃えた。大振り、蹴上がり、中抜き、ともえ、そして大車輪や後車輪を校庭の高鉄棒で練習した。手の皮が何枚もむけ、血だらけになっても練習していた。サッカーは高校に入ってから・・・・当時の石神井のサッカー部はあの帝京よりも強く、インターハイに2年連続で出場していた。テニス部もそうだったのだが、サッカー部にも国体選手が何人かいた。そのサッカー部と一緒にサッカーをやっているうちに、サッカー大好き少年になっていったのだ。大学ではまったくやらなかったが、五中に「誠」というサッカー狂がいて、僕は子ども達と一緒に毎日ボールを蹴るようになっていった。教員チームやたけしのキッカズサッカーというチームで試合にも出た。得意だったのはヘディング。頭から突っ込むスリルが好きだった。

今日も子ども達とサッカーをやった。久しぶりに思ったところにヘディングができて、嬉しかった。昨日のボレーシュートに続いて、気持ちのいいこと・・・・。だからサッカーはやめられない。
車で買い物に行こうとすると空が寝たので、急遽行き先を「新豊テニスクラブ」へ変えた。空が寝ている隙にテニスをしようというのだ。五中、六中時代は日の出から日没後までやっていたが、今はそんな時間は全然無いので、クラブで1,2試合やってさっと帰るようにしている。昔怪我をしたところがまだ完治していないのだが、テニスに関しては騙し騙しやることが出来るので、少し勘が戻ってきたような気がする。クラブのコートはイレギュラーが無くていい。子ども達は居ないけど、たくさんの人と知り合えるから楽しい。今日も4人の人と知り合うことができた。

子守唄
空がぐずるので、子守唄を歌って寝かしつけた。空は誰に似たのか意地っ張りなので、「歌」で轟沈させた時は気持ちがいい。きっと僕も小さい頃、こうやって母さんに抱かれて眠っていたんだろうなあ・・・そう思うと母さんに感謝の気持ちでいっぱいになる。父さんは音痴だったから、子守唄の記憶はない。だけど僕が急性胃炎になった時に、僕をおんぶして、病院まで走ってくれた時の背中の感触だけは覚えている。大きくて、温かくて・・・・・「ともや!もう少しだ!がんばれ!」と叫びながら走ってくれた。そして新大久保の高橋医院の玄関のドアをドンドン叩いて先生を起こしてくれたのだ。あれがきっと父さん流の「子守唄」だったのだろう。僕もいつか空をおんぶして、走る日がくるのだろうか・・・・。(その日の為に毎日スクワットをしているような気がする。)出来たら病院へ、ではなくて運動会か何かがいいなあ。

陵平もきっと隆志さんや政江さんの「子守唄」を聞いて眠っていたのだろう。空が陵平の年になるまであと11年と一月。余りにも短い・・・・そう思うだけで涙が出てくる。僕があの時学校を辞めなければ、陵平に会えたのだろうか・・・辞めて後悔したことは二つだけ。サッカー部の子ども達のことと、陵平のことだ。