6月10日 (金)  「たかやん議員日記」2005.第162弾! 

「たかやん議員日記」2005.第162弾!  6月10日(金)

叔父からのメール
5月30日は朝からの雨でしたが、千葉県の参列遺族代表28人のうちのうちの一人
に選定され厚生労働省主催による千鳥ヶ淵戦没墓苑拝礼式に参列してきました。当日
は比島から収集された遺骨がこの墓苑に納められるということで参列してきました。
故兄登の遺影を胸のポケットに…………そして、敬愛する亡兄新太郎が草を起し、
母自らの筆による兄登の墓標――
「 故陸軍軍曹 高邑 登之碑  一髪も帰らざるも魂は此処古里に眠る、哀惜の情を以て之を刻む 母 祥子」 
を無言で反芻しながら−−−−−−。

僕の叔父、邑 登はフィリピンで戦死した。まだ18歳の若さだった。父の新太郎は今の航空公園で叔父登と最後の再会をしている。今だったら高校生と大学生の兄弟が、共に軍服を着ての最後の会話は、父の詩集の中におさめられている。

祖母の祥子は学校の先生だった。富山の女学校を2番で卒業した才媛だった。叔父登は兄弟の中でも一番の運動神経で、器械体操が得意だったらしい。でも夢だった飛行気乗りになることなく、登は爆弾に腹をやられて死んでいった。

父さんは、僕らの小さい頃、登叔父さんの話をしては泣いていた。まだ十代の若さで死んでいかなければならなかった弟が可愛そうでしかたがなかったのだろう。おばあちゃんも泣いていた。軍人として立派に戦死していったと言い聞かせても、息子があの若さで殺されたのだ。悔しくないはずがない。

虜囚日記抄
二十年 八月十×日
「停戦」の正体が「無条件降伏」であることがやっと分かった。今朝、敵陣からビルマの使がきて、直ちに二十里ばかり撤退しろというから、大隊長は、「停戦だ。負けたのではない。まだ弾も十分ある。7月にやられたのを忘れたか。」と追い返したが、午後師団参謀が、通訳将校とともに敵陣に行って帰って来た話では「無条件降伏」ということだった。大隊長が、しきりに「これだけ野戦で苦労させておいて、今になって無条件降伏とは何だ。」といきまいていた。誰かが「腹を切りますか」といったら「東京で楽していた馬鹿者どものために腹が切れるか。」と答えていた。これから一体われわれの身はどうなるのか。

二十年 九月×日
対戦車壕を埋めて、自動車を通すようにせよとのことで、毎日狩りだされ疲れた。同期の他の連中は、もうすることもなくて寝てばかりいるが、私は各中隊からの使役兵を集めて道路の掃除屋だ。戦争が終わって、死ぬことが無いと思った途端に、何とも感じてなかった蚊が気になって仕方がない。もう熱を押しての戦いもないから、マラリアもそんなに恐くない。

二十年 九月二十×日
ぺグーの駅の近くで検査を受けた。奴らは何でも欲しがる。時計や万年筆は、英軍の隊長に交渉して取り上げられることは免れたが、千人針は記念にと、とられた。何でも、英国は、ヒットラーの爆撃で、東京よりもひどい物資不足だとの先方の言い訳である。今日は、将校は一人ずつ竹作りの小屋に入れられた。戦犯を探すつもりか、一坪の小屋で今夜は若干寂しい。

父さんの日記を読んでいると、軍服姿の父さんが浮かんでくる。それがきっと平均的帝国陸軍の軍人の姿なのだろう。父さんは英語が話せたから、捕虜になっても色々交渉ができて助かったと言っていた。
父さんが色々と話をしてくれたお陰で、あの戦争は僕にとって現実のものに感じる。そして父さんが残してくれた、たくさんの文章から当時の父さんの気持ちが分かってくるのだ。
陸軍少尉 邑 新太郎 彼はこの時、22歳だった。