6月12日 (日)  「たかやん議員日記」2005.第164弾! 

「たかやん議員日記」2005.第164弾!  6月12日(日)

市民清掃
6時半過ぎから掃除をした。畑中の住民なのに、地元の掃除じゃあなかったが、まあ掃除には違いがない。日本の国、いや地球をほんの少しだけどきれいにした朝はとっても気持ちがよかった。

テニス&サッカー
久しぶりに体を動かした。大学の後輩や六中時代の教え子たちが家族ぐるみで来てくれて、 滅茶苦茶楽しかった。2歳から51歳までが一緒に遊ぶのだから訳が分からない・・・・。僕が膝を擦りむいた以外は誰も怪我をしなかったからよかった。

核拡散防止条約再検討会議
核兵器廃絶を訴えるために、ニューヨークを訪れた原水協の日本代表団は800人を越えていたらしい。埼玉の代表も上田知事をはじめ、たくさんの市長、議長の署名をもらってニューヨークへいったのだそうだ。最終的にその署名は500万人の署名になったというから凄い。
アメリカは北朝鮮の核を恐れているようだが、本気で核拡散を防ぐ気があったら、まず自分達の核から少しずつでも放棄していかないとおかしい。俺はいいけどお前らは駄目というのは屁理屈もいいところだ。日本は今、国連安保理の常任理事国入りを目指しているようだが、常任理事国を増やすのではなくて、そんなもの無しにしていくのが筋なのではないかと思う。どの国にも同じように一票を与えてこそ、本当の国際連合ではないかと思うのだ。大国の都合で国際連合が利用されていくのはよろしくないと思うのだ。


また教え子のお父さんが亡くなった。六中テニス部の最後の教え子のお父さんのお通夜に行った。僕が行くと彼女は肩を震わせて泣き始めた。「六中のテニス部を代表してきたよ。」というと「ありがとうございます。」とまた泣いた。
とっても才能のあった学年で、最初から全国大会へ行くことが決まっていたような学年だった。僕は彼女達と毎朝サッカーをやっていた。彼女は僕の敵になると、ずっと僕をマークしてしつこく走る子だった。テニスでも同じように、最後の最後に実力でレギュラーを勝ち取り、そして全国大会に行った子だった。

帰ろうとすると、「先生!」と駆け寄ってきた子がいた。彼女は僕が六中のコートを去った時の2年生。廃部とコーチを天秤にかけられて、泣きながら僕と別れた子達の一人だ。「大きくなったね。何年生になったの?」と聞くと「2年生です。」という返事。あれからもう丸々3年が経ったのだ。僕はコーチを辞めたお陰で今の自分がいる。そういう意味ではあの時、六中のテニス部を潰しにかかった大人たちに感謝しなくてはいけないのかも知れない。あのままいっていたら、僕には自分の自由になる時間など、ほとんどなかっただろうし、今の仕事もしてなかっただろうから・・・・。
だけど、その代わりに彼らの夢は終わってしまった。キラキラした瞳が再び輝くことはなかった。今の僕は彼らの犠牲の上にいるのだということを忘れてはいけない。僕らは最後にハイタッチして別れた。昔、六中のテニスコートでしていたように・・・・。