6月23日 (木)  「たかやん議員日記」2005.第175弾!

「たかやん議員日記」2005.第175弾!  6月23日(木)

共通理解、共通行動
この言葉がセットになるとろくなことはない。一見悪くなさそうなこの言葉だが、「子ども達が何かをやらかした時に、同じように指導する。」ということに結びついていくと、学校はどんどん息が詰まってくるのだ。
ある先生がスカートの丈を厳しく注意する。ある先生は怒らない。ある先生はスカートの丈を見てもいない。そうすると厳しく注意する先生が怒り出すのだ。「みんなで同じように指導していかないと、子ども達が混乱します!」「共通理解、共通行動ができていない学校は荒れていきます!」自分が信念を持って怒っているのなら、他の人のことなどどうでもいいのに、自分だけが悪者にはなりたくない。そういう発想なのである。要するに職員室でも肩身の狭い思いをする先生達が増えていくのだ。強い?指導をする先生が偉いという雰囲気ができあがっていく。
アホくさ・・・・僕は「人は外見で判断するな!」という父親の教育がしみこんでいるから、そういう意見は馬耳東風。ひたすら子ども達の目を見ていた。ネクタイをしているか、ズボンが太いとか、ワイシャツのボタンどこまではずしているか、どんな靴下をはいているか、名札がついているか・・・そんな外見のことばかりに集中していたら、子ども達の目の輝きの変化には気がつきもしない。「学校ではいじめを認識しておりません。」という間抜けな答弁に繋がっていくのだ。
勿論、悪いことをした時は本気で怒らなくてはいけない。弱い者いじめをしたら、「ふざけるな!」と全身で怒らなくてはいけない。授業を妨害したら、「でていけ!」と言っていいのだ。子ども達には誰もが同じように持っている「権利」を教えなくてはいけない。幸せに生きていく権利、勉強する権利、・・・・・・先生達だってその権利は奪えないのだ。

どの先生にも同じことを言われたら・・・・父親と母親に同じことを言われただけで、子ども達は行き場がなくなると感じるのだ。学年全部の先生達から同じことを言われたら・・・・しかもそれでも足りなくて、親を呼び出されたら・・・・子ども達がどんな心理状態になるか、先生達は勉強しなくてはいけない。
昔僕らの先生達は一人で僕らを叱ったではないか。誰の助けも求めないで、一人だけで僕達をしかってくれたから、僕らは救われたのだ。先生一人一人がしっかりとした考えをもっていたのだと思う。

子ども達の気持ちが理解できない先生に「共通理解」された子ども達は可哀そうである。共通理解されるほど、子ども達は単純ではないのだ。子ども達の気持ちを掴むことのできる先生が減ってきた。共通理解、共通行動という立派な言葉の裏にはそういう事情があるのだ。