7月6日 (水)  「たかやん議員日記」2005.第190弾!

「たかやん議員日記」2005.第190弾!  7月6日(水)

学区自由化
「志木市の新市長である、長沼明氏は、平成18年4月より中学校の学区を自由化すると発表しました。志木市は新座市のすぐお隣ですが、市民で決める政策、小学校25人学級の実施...進んでいます.新座市も志木市を見習い、硬直した政策や管理教育のなんでもだめだめ主義の教育を変えていただきたいと願っています。」

こんなメールが来た。やっぱり先を越されたか・・・まったく同感である。今年度、新座市内の130人の生徒達が「指定学区外」に通学している。数の上からはもう立派に自由化なのである。何でも志木市の方がいいとは思わない。だけど市の「イメージ」というものがある。イメージはお金では買えないのだ・・・・。
不思議なことがある。ある市は市長が「自由化」を発表し、ある区は教育長が「自由化」を打ち出す。6月議会では教育長に「自由化」を迫ったわけだが、市長にも聞いたほうがいいのかも知れない。25人学級はお金がかかるが、学区自由化にはお金もかからない。要はやる自信があるか、ないかということなのだろう。

間違ったら・・・ごめんなさい
ヘルメット問題。議会で取り上げても改善はされない。先生達にも「面子」があるのだ。自分達が決めたことを議会で取り上げられて、変更したのでは「立場」がないのだ。予想はしていた通りの対応である。先生という種族は「自分達は教育の専門家」だからという思いが強い。僕もそう思っていた時代があった。そこが危ないのである。
学校の常識など、社会の非常識のことが多いのだ。学校という社会しか経験していない先生達には特にそうだ。その学校でしか通用しないことを本気で信じて生徒と接していることがよくある。まあ、それはそれでいいことのこともあるのだが・・・・。それに付き合う子ども達は可哀そうである。たかがヘルメット、されどヘルメットである。
「間違ったら・・・ごめんなさい。」それがなかなか言えないのが学校(先生達)なのだ。言ってしまえばいいのに・・・・。子どもにはそう言って“指導”するのに、自分達はなかなか“ごめんなさい”と言えない。“ごめんなさい”は強制された反省文を書くことで教えるのではない。間違った時に、ごめんなさい、と気持ちよく謝ることを見せることで教えるのだ。と、僕は思うのだが・・・。みんな失敗はしなかったのかなあ。僕なんか失敗ばかりで、しょっちゅう謝ってばかり・・・そんなにみんなできがいいのかなあ・・・。

「学校の中で煙草を吸っててごめんなさい。」「ひどい言葉を言って傷つけてごめんなさい。」生徒も先生もやってはいけないことは同じである。

いいこと
もっと学校のいいことを書きたい。どこかにいい話はないかな。きっとたくさんあるんだろうな。こんな素敵な先生がいて、こんなに子ども達が頑張っているんだよ。目がキラキラしているんだよ。そんな話をたくさん書きたい。こんな面白い先生がいて、子ども達はみんな笑いっぱなしなんだ。そんな話を書きたい。

栄小の校長室の窓をドンドン叩く子ども達、「校長先生!暗誦聞いて!」。笑顔で子ども達の暗誦を聞く校長先生。「お、よくできたなあ・・・。凄い、凄い。」僕はその話を聞いただけで涙がでてきた。もし中学校でそれをやったら、校長室の窓を叩いた時点で怒られているだろうから・・・・。