11月8日 (水)  「たかやん議員日記」2006.第312弾!  11月8日(水)

「たかやん議員日記」2006.第312弾!  11月8日(水)

父さんの誕生日
大正11年の今日父さんは生まれた。新太郎という名前には悲しい事実がある。父さんには一夫という兄がいたのだ。一夫伯父さんはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんにとって、初めての男の子だった。ところが、お祖父ちゃんは二男で、長男の“本家”には子どもがいなかった・・・・。
一夫伯父さんは“本家”の跡取りとして、お祖母ちゃんの家と直ぐ近くの”本家“へ養子に行くことになった。お祖母ちゃんは、可愛い息子を手放さなくてはいけなくなった。お祖父ちゃんだって一緒だ。お祖母ちゃんはきっと泣いただろう・・・・。

だから父さんが生まれた時に、「新しい長男」だから新太郎と付けられた。旧民法の時代だから、父さんは“長男”という意識を常に持ちながら生きてきた。いつでも邑家全体のことを考えて生きてきたのだ。だから我が家でも三兄弟の長男の和矢だけは“長男”の教育がされた。朝ごはんの時、達矢と朋矢は正座だったが、和矢だけは胡坐をかくことが許された。田舎に行って、泊まるときも・・・座敷に寝ることを許されるのは和矢だけ。達矢と朋矢は2階で寝るのだ。座敷は暗くて怖いから、僕はそれでよかったのだが・・・・

うちの父さんは飲兵衛だった。毎晩のように午前様・・・玄関で鼻を垂らして寝ている父さんを何度運んだことだろう。それでいて、真夜中に起きて原稿を書くのだから凄い人だった。素面の時はえらく怖かったので、小さい頃はあまり父さんが好きではなかった。特に授業参観とかには来て欲しくなくて、いつも「お母さん来てね!」と言っていた。父さんは頭が剥げていたし、あまり格好よくなかったのだ。
それが職場の父さんを見た時に一変した。もの凄く格好よかったのだ。小学校高学年になった僕は、父さんに憧れるようになった。

労働省の中央労働委員会で文書課長になり、富山の労働基準局長、茨城の労働基準局長などにもなった。死んだあとに勲章を貰っているから、国家公務員としてはかなりの地位になったのだと思う。兎に角仕事のできる人だった。

僕にとっての父さんは、僕を心から愛してくれた人。それに尽きる。僕はもう直ぐ父さんの死んだ時の年齢になるが、今僕が生きていけるのは、父さんに愛されていたからだと思う。僕が何をやったとしても、どんな生き方をしたとしても、父さんと母さんだけは僕の味方でいてくれる。そう思えるから、今まで一人になることがあっても生きてこれたのだ。

僕は死ぬまでに、それだけは真似ておきたい。雪、亮、空の三人の子供たちが、何があっても生きていけるように、どんな生き方をしても「愛している」というメッセージを三人の子供たちに送り続けたい。新太郎の命が、僕の中で生きているように、僕もまた三人の子ども達の中で生き続けていきたい。今日は父さんの誕生日。父さんは僕の中でも、孫達の中でもしっかりと生きている。          たかやん