2月22日 (水)  「たかやん議員日記」2006.第53弾!

「たかやん議員日記」2006.第53弾!  2月22日(水)

告別式
Sさんとは議場で挨拶をするくらいしかお付き合いが無かった。議場で見るSさんはとても穏やかな方に見えた。68歳。まだまだ若いのに・・・。本当に残念だ。

告別式には市役所関係の方達がたくさん来られていた。たくさんの人の中に、僕がどうしても頭が上がらない人を見つけた。きっと怒られるなと、ちょっと恐かったが、近寄って挨拶をした。「中村先生、お久しぶりです!」と言うと、中村敞一郎先生は「おう、久しぶりだな。元気だったか?」「いいか、大事なのは人から信頼されることだ。信頼されることが大事なんだ。」と僕の手を握りながら、そう言ってくれた。僕は校長の手の温もりを感じながら、殆ど泣きそうになっていた。昔から、そういう人だった。僕のことをいつも叱りながら、いつも温かく見守ってくれている人だったのだ。僕は市民の方達から信頼される議員にならなくては・・・・・そう思った。

次長
中村先生と最初に会ったのは市役所の7階。教育委員会の一角だった。まだ大学生だった僕は、教育にかける思いを熱く語ったのだが、そのおじさんも僕に負けないくらい、熱く教育を語ってくれた。(何だかこのおっさん、妙に教育に燃えているなあ。教育委員会にも、こんなに熱い人がいるんだ・・・)そう思ったのを覚えている。
4月になって、新設校の新座五中に行って驚いた。僕を面接した教育次長が、校長として目の前にいるではないか・・・・。そして僕は校長室に呼ばれたのだ。「邑、お前3年の担任をやってくれ。」『はい?3年の担任ですか?僕、大学出たばかりですよ。高校のこと何も知らないですよ。』「大丈夫だ。周りがみんな助けてくれるから。」「お前ならできる。」『わかりました。』そうやって引き受けること自体が分かっていなかったのだが・・・・。
大学を卒業して直ぐに3年生の担任をしたのは、埼玉県では僕一人だけだった。当たり前だ、どこの学校だってそんな無謀なことはしないだろう。だけど校長はそういうことを平気でする人だった。そして僕が何とか3年4組の子供たちを卒業させたら・・・・「すまん。俺は教育委員会に戻る。」と委員会に戻ってしまった。『校長!ふざけないでくださいよ。冗談じゃあないですよ。』『あなたは、五中を見捨てて行くんですか?』『それでも校長ですか!』と僕は泣きながら言った。すると校長はこういったのだ。「俺は新座市全体を見なくちゃいかん。大丈夫だ。五中はいい教師がいっぱいいる。お前もそのうちの一人だ。後は任せたぞ。」『・・・・』「しっかりやれよ。約束だぞ。」『・・・はい。』そしてあの熱いおっさんは教育長になり、僕は1年3組の担任になった。僕は校長との約束を守り、五中で10年燃え続けた。甲神嵒の剣道、木下保則の水泳、本田誠のサッカー、そして僕のテニス・・・五中は部活も強かったけど、それ以上に勉強が出来た。県でもトップクラスだったのだ。そして五中には神宮司久子という指揮者がいた。彼女はピアノを打楽器のように弾き、そして1000人の五中生の歌声を操っていた。五中の校歌が体育祭で校庭に響き渡り、そして卒業式ではハレルヤに体育館が揺れた。みんな中村先生の熱が伝染したのだ。教育はやっぱり熱なのだ。

会派の名前
子供たちにも聞いてみた。中学生、高校生、大学生の若い子達が意外にも「語る会」がいいという。「だって、タカヤンじゃあ仲間が入りたいって言った時に、入れられないじゃない?」というのが彼らの論理だ。会派なんだから、今は一人でもその内誰かが入ってくるかも知れない。仲間を増やすには入りやすい名前がいいよ、という訳である。若い子達だから、もっとユニークな、それこそ個性溢れる名前がいいのかと思ったら・・・予想と全然違う答えが返ってきてびっくりした。「語る会」なら教育は勿論、愛も人生も、新座の未来も語れる訳で・・・明日「語る会」で会派の届け出をすることに決めたのだった。