5月9日 (火)  「たかやん議員日記」2006.第129弾! 

「たかやん議員日記」2006.第129弾!   5月9日(火)

墨田区
13時に志木駅に集合したのは平松、石島、田中、並木(平八)、星川、邑の6人。会派も委員会も関係なく墨田区の地域振興政策の視察に向った。僕や大佑は30分前には到着していたし、幸弘も珍しく10分前には到着していたので、予定よりも1本早い電車に乗ることができた。

両国駅までみんなでワイワイ話しながらいった。陽子(石島議員)とは「修学旅行以来だねえ、一緒に何処かへ行くの・・・」「本当ですね」「覚えてる?あの修学旅行で遅刻したの・・」「校長先生に怒られたでしょう?」「いや、校長は怒らなかったよ。でも大熊先生が怒ってたなあ・・・副担だったからね」「あはははは」あの時の僕は23歳。そして陽子は15歳。30年前は担任と教え子だった二人が一緒に視察をしているのだから面白い。

JR両国駅には墨田区役所の染谷さんと秋元さんが待っていてくれた。名刺を交換し、挨拶をしてから歩き始める。いつもの視察とは違って、今日の視察はひたすら歩く視察なのだ。

回向院の脇を通って、最初に向ったのは小さな博物館「袋物博物館」。そこには革製品を中心に江戸時代からの作品が飾ってあり、館長さんの説明を受けながら僕はお袋のロウケツ染めを思い出していた。館長の木戸好子さんは83歳。丁度父さんと同じ大正11年生まれ、福井からでてきたのだと言っていた。東京大空襲の時には副館長の娘さんを背負って火から逃げ回り、何とか生き延びた話もしてくれた。

次の小さな博物館は「相撲写真資料館」で工藤明さんや工藤さんのお父さんが撮影した力士達の写真で溢れていた。懐かしい、栃錦や朝潮、若乃花は勿論、双葉山、千代の山、そして大鵬、柏戸、佐田の山の少年時代の写真などもあって、一気に少年時代に戻っていく自分がいた。

吉良邸跡
吉良上野介の上屋敷跡にも行った。赤穂浪士の討ち入りによって、20名近い吉良上野の家臣達も命を落としたことや墨田区と赤穂市の間で最近「和解」をしたこと。でも吉良家では今でも許していないことなどを初めて知ったのだった。

とら焼き
吉良邸跡の近くに和菓子屋さんがあった。ドラ焼きではなくてとら焼きというのがあって、210円を出して一個買った。幸弘が欲しそうな顔をしたので、半分分けてやると、それを見ていた一恵さんが「美味しそう!ちょっと頂戴!」と言って、幸弘から半分以上奪っていった。僕は残った半分をさらに半分に分けて、陽子に「食べる?」と聞くと「うん」というので分けてあげた。

勝海舟
両国公園には勝海舟の生誕の地という碑があった。そこは昔僕が小さい頃、緑町の従兄弟達と遊んだ公園だと思われ・・・あの頃の紙芝居を思い出しながら僕は少し感傷的になっていた。

芥川龍之介
両国小学校は芥川龍之介の母校らしく、芥川の「杜子春」の一部が碑になっていた。


そして次は小さな博物館「桐の博物館」。桐は樹木ではなくて、ゴマノハグサ科の草の仲間であること(理科の教師は当然知っていたけど)や桐の生長が早く、そして材質が軽く、火にも強いのでこれからの環境問題も考えると、実に有用な植物であることなどを説明してもらった。

足袋
最後はやはり小さな博物館の足袋屋さん。宮内梅治という人は宮内庁御用達の無形文化財で、力士は勿論天皇の足袋を作っているという話だった。

それから・・・
墨田区役所の方達とさよならをして、それから僕らは喫茶店に入って一休みした。両国らしく、隣りには春日野部屋の若い力士が三人いて、僕は「栃錦のファンだったんですよ」と話しかけていた。喫茶店で僕と幸弘は90円の団子を頼んだ。他の人達は500円のみつ豆。どうも俺達は貧乏臭くていけない・・・・。

それから
帰りは新宿を通って、山手線で帰った。途中「ホラ、あそこが僕の中学校!」と説明しながら帰った。墨田区の施策は新座市ではどうも通用しなさそうだが、発想は大事にしたいと思った、たかやんであった。