4月1日 (日)  「たかやん議員日記」2007.第91弾!  4月1日(日)

「たかやん議員日記」2007.第91弾!  4月1日(日)


今日は神さんの命日。だからという訳ではないだろうが、そこいらじゅうで桜が満開になった。神さんがいくつだったか考えてみた。僕らが会った年が、1977年の4月。それから10年して僕は六中へ・・・しかし神さんはあと数年だからという理由で、特別に五中に残ったのだ。それが2年だとすると、1977年の時に、神さんは48歳だったことになる。今、生きていれば30歳を足して78歳。でも昨年亡くなったから・・・一歳引いて77歳。そう多分、神さんは77歳で生涯を終えたのだ。

体育館
何の練習だったか忘れたが、「たかむらさん、あんたちょっと残りなさい。」と神さんに残されたことがあった。場所は体育館の舞台の上。そこで神さんはピアノを弾いた。滝廉太郎の「花」である。そして僕に命令したのだ。「歌いなさい」僕は一人で歌い始めた。「春のうららの隅田川・・・」すると神さんはこう言ったのだ。「あんたはいい声しているよ。練習すればもっと上手になる。」中三の時、謝恩会で歌って以来、人前で歌ったことなどなかった僕が、それからギターやらピアノやらを弾きながら、子ども達の前で歌えるようになったのは、実は神さんのこの一言だった。

1000人の校歌
五中の体育祭は初年度から紅白対抗だった。学校中が紅白に別れて戦う。応援団は勿論、職員室の先生達まで紅白のハチマキを締めて、授業に向ったりしていた。そしてまるで地響きかと思うような校歌を歌わせたのが神さんだった。「ひかりがあります!ゆたかです!」1000人が絶叫する校歌は後にも先にも聞いたことがない。卒業式のハレルヤも忘れられないが、やはり校庭に響き渡った校歌の印象の方が強い。そして、子ども達にあれだけの声を出させた、神宮司久子という音楽教師の力量にも脱帽するのだ。

1年1組
神さんとは10年間、ずっと同じ学年だった。最初の年こそ学年主任と担任という無茶なことをやった神さんだったが、暫くは学年主任に専念していた。ところが5年目の1年1組の担任は神さんだったのだ。53歳の神さんは子ども達と一体化していた。放課後はいつも子ども達と教室で勉強をしていたのだ。「あたしはあんたみたいに教えられないから、こうして一緒に勉強するんだ。いいだろ?」と神さんは僕に言った。神さんは1組の子ども達をまるで孫のように可愛がった。神宮司チョップは存在していたが、それはばあさんの空手チョップだった。ちっとも痛くはないのだ。それが神さんの最後のクラスだった。
                                 
神さんへ
あの1年1組の子達ももう34歳になるんですよ。この間、ひばりヶ丘で「まちこう」と会いました。元気でしたよ。みんなきっと神さんがこの世にいないことを知らないと思います。でも大丈夫。神さんは、子ども達の胸の中にずっと生きていますから。僕は元気でやっています。神さんの遺伝子を受け継いで、子ども達を愛しながら、毎日生きています。早く会いたい気もしますが、空がまだ小さいのであと50年ほど待っていてください。まだまだやることが沢山あります。ピアノも歌も練習しておきますから・・・・どうか雲の上から見守っていてください。                 たかやん