10月16日 (木)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第289弾! 2008.10.16(木)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第289弾! 2008.10.16(木)   たかやん

84歳
今日はかあさんの誕生日。84歳になった。電話をすると「そうなのよ。早いわねえ、1年が・・・あっという間よ。」と嬉しそうに言っていた。小さい頃に両親を亡くした母さん。僕らを大きくするまでは死ねないと思っていたらしい。だから「こんなに長生きできるとは思ってなかったわ。」とよく言っている母さん。僕を生んだのは29歳のとき。僕が小さい頃はバレーボールをやって、ろうけつ染めをして、そしてコーラスもやっていたっけ。そうそうテレビで田中角栄と対談したこともあったなあ・・・。若くて綺麗な頃の写真が残っている。小学校の成績は1番。運動神経は抜群。それでも家が貧乏だったから女学校へ行けなかった母さん。僕ら兄弟3人を大学まで行かせ、これからというときに父さんを亡くした母さん。あの時母さんは55歳だったんだねえ。そして死んだ父さんのお母さん、つまり僕のお祖母ちゃんと一緒にずっと富山で二人で暮らしてくれた母さん。もう舟見にすんで30年になるということか・・・・どうかこれからも元気でいてください。もう直ぐ寒い富山に迎えに行きます。空が毎日「おばあちゃん、もう直ぐ来るよね」と言っています。

空君のパパ
ママが体調を崩したので、今日のプールは僕が当番。自転車の後ろに空を乗せ、坂道を登ってひばりが丘へ。ちょっと前まではプールの近くにくるだけで「いやだ!」と泣き出していたのに、階段を駆け上がり、友達とおおはしゃぎする空。プールの中では完全に「ポニョ」になりきっている。そして今日は進級テスト。無茶苦茶なフォームなのだが、無事合格。嬉しそうに賞状を持ってきた。プールでも五中時代の教え子と語る。「不思議だよねえ。こうして一緒にいるの・・・当時は考えられなかったよね。」「そうですよ。幼稚園でもたかやんの話で盛り上がりますよ」と智美ちゃん。最近はどこでも「空君のパパ!」と呼ばれる。「たかやん」もいいけれど、「空君のパパ」もなかなか気持ちのいい言葉なのだ。

五中物語2
中村敞一郎は校長室に僕を呼んだ。「お前、3年の担任やってくれ」「はあ?」「お前ならできる」「そんな・・・無理ですよ」「大丈夫だ」「・・・」「いいからやれ」「はい」こうして僕は3年生の担任になった。大学を卒業して半月もしていないのに、中学校3年生の担任になったのだから大変だ。新任研へ行くと、みんなにビックリされた。「嘘でしょ?」「それが本当なのよ。」当時は新任が担任をするだけでも珍しかったのだ。勿論、埼玉県で新任で3年の担任をやったのは僕一人。多分、日本中探しても僕一人だったのではないだろうか。なにせ、「校内暴力」が吹き荒れているころの話なのだから・・・・
3年4組は凄いクラスだった。初日「はい、席について!」と、僕が言っても「嫌だね」とつかないのだ。結構ないたずら坊主達といたずらガールズ達がいたのだ。「新任だってさ」「まじ?」「高校いけんのかよ・・・」「好き勝手できそうじゃん」「ハズレだね」と、色々言われていたらしい。そりゃあそうだ。今だって考えられないことだ。僕は本当に何も知らなかった。知っていた学校は「浦和」だけ。後は一部の市立と都立しか分からない・・・進路指導は滅茶苦茶だった。子ども達が「行きたい!」という高校には、どこにでもOKを出したのである。だって知らないのだから「ダメ」という理由がない。そして何も知らない担任は、子ども達と一緒に勉強することに燃えたのだ。子ども達は学校で居残り、西大泉の我が家に入り浸り・・・勉強をし、大貧民をし、そして外でも遊んで、また勉強して・・・気がつくと学年でトップになっていた。そして3月にはほぼ全員希望する高校に入ったのである。1学期には修学旅行に大遅刻し、2学期には2年生と体育館で決闘したり、進路相談で急性胃炎になり、救急車で運ばれたりもしたが・・・何とかこの大ピンチの1年を乗り切ったことで、僕は自信を深めたのだった。そしてその年の春。僕は初めて新入生と握手をすることになる。
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