11月3日 (月)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第308弾! 2008.11.3(日)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第308弾! 2008.11.3(日)   たかやん

バレーボール大会
今日は何と朝からバレーボール大会に出場した。そう選手として大会に出たのである。これは54年の人生で初めてのこと・・・。男女混合のチームで僕らは戦った。

おもろい・・・
相手は9人ともバレーボールの経験者ばかりというチームで、そのサーブやレシーブ力の差にビックリ!だって弾丸サーブを打ったり、フライイングレシーブをするんだから・・・それでも僕らは何とかくらいついていこうと必死で頑張った。2試合ともストレート負けしたけれど、「最後のセットは惜しかったですね。もうちょっとでしたね。」「だんだん上手になっていくのが分かりましたよ」と相手チームに誉められたのだった。そうバレーボールは面白い。母さんはママさんバレーの全国大会に最年長で出て新聞に載ったことがあったっけ・・・。僕はまだその年になってないのだから、これから上手くなるかも・・・

五中
教育週間の中学校の最後は五中に行った。孫の楓の様子を見に行ったのだ。例によって参観は僕一人。僕を見て「あ!」と驚く楓。隣の子に「誰?」と聞かれ、「家のおじいちゃん!」と答えていた。「嘘・・」「ほんと」ま、嘘じゃないわな。他のところでは「どこのお父さん」「誰のお父さん?」と聞かれていたのに・・・ま、いっか。五中全体を見たのだが、午後だというのに寝ている子も殆どなく、整然と授業を受けていたという感じだった。僕らの頃の五中よりももしかしたら綺麗だったかも知れない。廊下の掲示物などは明らかに今の方がいい。昔のほうが教師も生徒も規格外が多かったかも・・・いいんだか、悪いんだかは分からないけど・・・


金曜日に五中を見たせいか、今朝の夢は五中の3年1組の夢。それも4期生の1組の夢だった。祐二が一人で教室掃除をしているのを見て、サボっているほかの子達に担任が怒る!というシーンだった。今からもう28年前のクラスなのだが、それがそのまま全員出てきてビックリ!混ざらないで夢に登場するのは珍しいのだ。後半は宏美と二人で高校へ行くというシーン。昔、宏美が不登校になったときに、毎朝二人で五中まで通った記憶がどこかに残っていたのかも知れない。

公園
石神小学校の子ども達が溢れる公園で、三人で遊んだ。サッカーをやったり、テニスをしたり、鉄棒をやったり・・・それにしても小学生は元気だ。そして笑顔が可愛い。男の子も女の子も目いっぱい遊んでいた。そして我が家の三人もしっかり遊んだのだった。

六中物語1
古都という名前に僕は惹かれた。どんな子かは全く分からないが、兎に角「古都」という女の子がいるクラスを選んだのである。それが六中のスタートであり、僕の人生を大きく変えるきっかけになった。古都は名前とはかけ離れた子だった。お父さんのない子で、僕のことをまるで本当のお父さんのように思っていたらしい。当時の六中は先輩・後輩の関係が厳しく、ソフト部などは3年生が登校するとき、下級生は1列に並んで「おはようございまーす!」と連呼。3年生は無言で通り過ぎる。そんな学校だった。そんな六中で1年2組はベストを脱いだ。「暑いから脱げよ」という担任の一言で女の子全員がベストを脱いだのだ。それに怒った3年生が2組の教室に怒鳴り込んできた。「生意気なんだよ!」と2組で一番大きかったよしえにビンタをした。するとよしえは思い切り蹴飛ばした。そこで担任が割って入って、3年生の野田さんを連れて理準(理科準備室)へ。紅茶を飲みながら「俺のクラスの子に手を出すなよなあ。俺は自分のクラスの子は絶対に守る担任なんだよ。君たちが他の学校にやられそうになったら俺が必ず助けるから」と野田さんを説得した。それから3年生の女の子達が時々理準に遊びに来るようになった。
テニス部の113名は顧問の命令でテニスシューズを履いて登校した。学校指定の靴は「足に合わないから痛い」という子ども達にこたえたのだ。学校指定の靴を履いてこなかった3年生のツッパリ集団もビックリ!普通の子ども達が100名以上で違反をしたのだから大変だった。あっという間に指定靴を履いてくる子はいなくなり、「たかむらが六中を壊した」と言われた。学年会でも「非常識だ!」と学年主任を中心に攻撃されるが、「子ども達の足に靴を合わせるのであって、靴に子ども達の足を合わせようなんていうのは時代遅れだですよ」と一歩も引かなかった。
僕はこの学年が好きだった。考え方は違ったけれど、子ども達に熱い仲間達が多かったのだ。その中でも1組の一郎とはよく喧嘩もしたし、よく遊びもした。1年2組とは合宿もやった。本多の児童センターでキャンプをやったのだ。夜中に「暑いからプールに入ろうよ!」という子ども達に負けて、みんなで六中のプールで泳いでいたら、いつの間にかパトカーに包囲されていたのもこのクラス。近所の人に通報されたらしい。それでも校長には怒られた記憶がない。警察が言わないでいてくれたのか、校長が黙っていてくれたのかは未だに分からない。僕達1年2組にはいい思い出になった。今やったら、新聞に載るかも知れないなあ・・・・。僕はこのクラスで突然国語の先生になった。副坦のゆかりちゃんが切迫流産でお休みしたのだ。僕は「詩の授業」をやった。すると子ども達が泣いたのだ。理科の授業で泣く子はいない。蛇を机の上に乗せたら失神した子はいたけれど、理科の授業で泣く子はいなかった。ところが2組の子達は僕の国語の授業で泣いたのだ。これには本当に感動した。その時だ、僕が心のどこかで(俺はもしかしたら理科系じゃなくて文科系なんじゃないのか)そう思ったのは。毎日が余りにも楽しくて、僕は学級通信を毎日書き続けた。41度の熱があっても、祖母ちゃんが亡くなって、富山へ行っても・・・それでも毎日「一生懸命」を書き続けた。それができたのは2組の子ども達のお陰なのだ。そして、その時の習慣が、今でもこうして続いているのだ。1年2組と六中のテニス部。この二つが僕の人生を完全に支配するようになっていった・・・。
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