11月8日 (土)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第313弾! 2008.11.8(土)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第313弾! 2008.11.8(土)   たかやん


昨日の夜、昔のことを書いたせいかもしれない。今朝の夢は父さんの夢だった。それも若い父さん、元気な父さんが目の前で笑っている夢だった。大好きな猛おじちゃんも一緒で、僕と同じくらいの50代前半で登場。三人で語りながらお酒を飲んだ。もの凄く幸せな気分で、それこそ「夢の中」状態だった。すい臓がんで死んだ父さんの最期は痛みとの戦いだった。まだ57歳。若い分だけ、辛かったはずだ。そのせいか、死んでしばらくはやつれた父さんの夢しか見なかった。若い頃の元気な頃の父さんと会いたいと思っても、なかなか会えない。だから今朝の夢は嬉しかったのだ。まさか、早く来いといっているわけじゃあないだろう。もっと、もっと元気で頑張れ!そう言ってくれているのだと思う。そして、あっと思ったのだ。今日は「父さんの誕生日だ!」って。今日は父さんの誕生日。1922年、(大正11年)富山県生まれ。あのビルマ戦線で戦い、生き残って帰ってきた。僕を育て、今でも愛し続けてくれている男は生きていれば86歳になる。

92歳
ひとみのお祖父ちゃんが入院した。お見舞いに行くと「家に帰りたい・・・」と涙を流していた。可哀そうで、可哀そうで・・・。大泉の家にはお祖母ちゃんがいる。ずっと二人で仲良く生きてきたのだ。帰りたいというおじいちゃんの気持ちはよくわかる。空を見ては「今度は一人で泊まるんだぞ」と言っていたお祖父ちゃん。空に会うのを本当に楽しみにしていれくれたお祖父ちゃん。「もう一度、館林に行きましょうね。」それだけ言って、僕は帰った。

六中物語4
3年2組になった次の日。おじょうが朝、突撃してきた。「何でたかやんのクラスじゃないの!」「あたし朝まで泣いたんだから・・・」「ごめん・・・」「たかやんの馬鹿」「・・・・」
2年間一緒のクラスだった子達と別れるのは本当に辛かった。1年2組も2年2組もいい子達で溢れていたのだ。クラスを決めるのは学年会。女の先生が最初に選び、そして学年の中心になる担任ほど後回し・・・勿論、僕は最後に残ったクラスになる訳で・・・・誰も持ちたがらないクラスが残った。それが3年2組。それでも担任としてはみんな可愛い子達な訳で・・・・初日から気合を入れたのである。テニス部の朝練は6時過ぎから。当然のように職員会議で問題になる。「朝練は7時半以降のはずです。」「硬式テニス部は早すぎます」「学校のルールを守ってください」僕はずっと耐えていたが、ある日ついにこう言ってしまった。「確かに硬式テニス部は時間を守っていません。朝は早いし、夜は遅くまで練習しています。でも必ず顧問がついて、一緒に練習をしています!」「朝練は7時半からでですが、顧問がついて練習することが原則のはずです。みなさんはその原則を守っていますか?」「時間を守らないことはいけないことかも知れないけれど、部活動をこども達だけでやることよりマシではないですか?」その日から、テニス部の練習に文句を言う先生はいなくなった。他の部活動の子たちが朝練で怪我をしたときは、僕が病院に連れて行ったりしていたことを知っている先生達も多かったのだ。そして体育館の部活動は、下校時間が過ぎても電気をつけて練習していることをみんな知っていたのだ。
僕はテニス部の子達にこう言った。「俺は頭を剃るから、お前達は坊主になれ。気合を入れて優勝を狙うぞ!」六中の硬式テニス部はこの年、関東大会で慶応普通部を倒して優勝した。そして全国大会では3位になって悔し涙を流した。僕ともっとも濃い練習をした子達だったが、それでも「日本一」という壁は越えられなかったのだ。
3年2組は順調に伸びていった。いつの間にか成績は学年でトップになった。僕は朝練よりも、「朝勉」に燃えるようになった。そして涙の卒業式の日がやってきた。
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