4月10日 (金)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第99弾! 2009.4.10(金)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第99弾! 2009.4.10(金)   たかやん

トングの力
今朝もトングとビニール袋を持って、母さんと黒目川へ・・・。「おはようございまーす」「いつもご苦労さまでーす」「ありがとうございまーす」色んな人から声をかけてもらって、本当に幸せな気持ちになった。トングを持っているだけで、みんなが声をかけてくれる。トングの力である。

62回
生きた一票を託す会に呼ばれ、野火止公民館へ行ってきた。いつも傍聴に来られている方たちからの、辛口の批評を頂ける会である。驚いたのは、その中に星川さんがいたこと。はじめから「まな板の上の鯉」状態だったのだが、星川さんの参加で・・・猛獣に食われる寸前の「草食動物」状態になってしまった。それにしてもビックリするのは62回という会の継続性である。新人の議員よりははるかに多くの議会を知っている方達な訳で・・・その見識の高さや我々への要求レベルの高さに毎回感心してばかりである。2時間の予定が2時間半。あっという間の時間だった。そして、それは自分の勉強不足を痛感した時間でもあった。

継続
託す会の中に、黒目川で何十年も「魚類調査」をし続けている中村さんという方がおられる。彼女のやっていることは本物で、僕は密かに尊敬している女性なのだ。何が凄いって・・・何十年も毎月、川の中に入り、動植物の調査をしているのだ。そして、それを市民に公開しているのである。僕はその調査結果をいくつか見せてもらったが、本当にもの凄いレベルなのだ。そして僕は密かに、弟子にして欲しい・・・そう思っているのである。

六中
突然、塾の卒業生の勝が訪ねてきた。今年の1月にお母さんを亡くし、かなり落ち込んでいた。塾の先輩の太陽に電話をした。勝の同級生の太智や愛にも電話をした。それに佑や悠も加わって・・・結局11時過ぎまで六中テニス部とたかやん塾の合同ミニ同窓会になったのだった。みんなが自分の悩みをぶつけ、そして六中への熱い思いをぶつけた数時間であった。

教師になりたい人に贈るメッセージ
第八歩 「部活」
部活動は面白い。子供達と体も心も近づくチャンスが溢れている。僕は最初の5年間は軟式テニスをやった。校長に「硬式テニスをやらせてください。」と直訴したが「軟式をやっている子達の気持ちはどうする?」と切り返さされて何も言えなかった。軟式も中学の時にやっていたから、教えるのが下手ではなかったが、本当をいうと軟式には魅力を感じていなかったのだ。そういう訳でサッカー部の副顧問もやった。サッカーが大好きだったからだ。毎日昼休みにクラスの子供達と校庭でサッカーをやっていた。放課後テニスコートに行く前にちょっとサッカー部の練習に参加し、そのまま帰ってしまう日が続いたりした。子供達は焦ったらしい。このままでは顧問をサッカー部に取られてしまう…・彼らはある作戦を立てた。それは軟式テニス部を硬式テニス部にかえてしまおうという作戦だった。そうすれば顧問はきっと毎日来てくれるだろう、という訳だ。そしてその作戦は当たった。僕はその日から二度とサッカーのスパイクを履かなかったのだ。その当時の子供達にはそういう考える力があった。というか、そういう無謀なことを許すだけのゆとりが学校にあったのである。
僕はテニスにはまった。大学時代に遣り残した何かを子供達にぶつけた。インカレに行けなかった鬱憤を子供達で晴らそうとしたのかも知れない。僕が顧問をしたのは「男子テニス部」だった。別に軟式とか硬式とかはなかった。そこが彼らのねらいだったようだ。そして僕はその「男子テニス部」に女の子のマネージャーを8人ばっかり入部させた。自分のクラスから運動神経のいい子を選んで「テニスやらないか?」と誘ったのである。彼女たちは「硬式テニス」という響きに誘われてテニスコートに登場した。(そのコートは1面である時は80人に膨れ上がったのである。)男子の中の1年生の女の子達は恐いもの知らずだった。男子の関東大会の応援に池袋の立教中学に行った時も、西武線の中で半袖、ブルマーで騒いでいた。それで随分笑われたが、彼女たちが1年後に全国大会に出場するなど、僕以外は誰も思っていなかっただろう。僕の「テニス部」はこうしてスタートしたのだった。
テニス部の練習はきつかった。石神井高校時代のトレーニングを中学生にやらせたのだからめちゃくちゃだった。勿論僕も全て一緒にやった。不思議なもので、顧問が一緒にやると子供達は物凄いスピードでついてくるようになるのだ。彼女たちは走って走って走り回った。陸上部よりも走ったから、陸上部よりも速かった。そしてあっという間に全国大会に出てしまった。彼女たちは勝てなかったが、彼女たちの頑張りが後輩達に自信を与えた。男子が全国大会で2位になったのだ。硬式テニス部になった時に「日本一になろう!」と言った言葉が夢で無くなる日が来るような気がした。その学校ではその夢は実現しなかったが、次の学校で子供達はその夢をかなえてくれた。そう「日本一」になったのだ。それも二度も…勿論僕はテニスにますますのめり込んだ。そしてたくさんのタイトルを取るのだが、失ったものも大きかった。「家庭崩壊」である。僕は部活をやりすぎて、家族を失った。部活動は楽しい、だがほどほどにしなくてはいけない。
(写真カット)
この写真は五中の二年目のテニス部。当時は勿論軟式だった。この小さな子達に凄い知恵とエネルギーがあることを、当時はまだ知らなかった。

(写真カット)

六中で関東優勝、全国3位の時のメンバー。前から3番目が当時2年生の長男、亮。心臓の病気で運動を禁じられていたが、1年生の時はメンバーに恵まれ全国優勝、2年の時は3位になれた。3年生の時はキャプテンになったが、僕が他の学校に異動になり、県大会で敗退した。心臓に病気があるので、あと1年一緒にいさせて欲しい・・・そう希望したが、まったく相手にされなかった。この時に、新座の教育委員会の冷たさを初めて感じたのだった。

*子供たちが部活に燃えるようになると、学校が落ち着いてくる。荒れている学校は間違いなく部活動がいい加減である。部活の力はそれくらい強いのだ。子どもたちは教師のいい言葉だけで育つのではない。一緒に泣いて笑って汗をかくことで、教師の言葉を信頼するのである。特に運動部がしっかりとしている学校は授業も落ち着いている。エネルギーの出しどころを間違えると、学校そのものが崩壊することもあるのだ。部活動の力は凄い。事実だからしょうがない。

駅立ち
月曜日はひばりが丘、火曜日は東久留米、水曜日は志木、木曜日は新座の予定である。
takayanchan@jcom.home.ne.jp             たかやん