4月18日 (土)   『一生懸命』幻のたかやん日記 第107弾! 2009.4.18(土)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第107弾! 2009.4.18(土)   たかやん

川越からのメール

たかやん様
たかやんのように、市民に情報を流すために駅立ちをする議員は選挙だからといってあわてて駅立ちするわけじゃないから、市民からも「ご苦労様」って言われると思うのですが、
どうも「駅立ち」を選挙のために立つものだと思っている議員もいてそのようなことをするから「選挙の時だけ笑顔だね」なんて市民に言われちゃうのです。そうなると益々、議員全員の信用が落ちてしまうわけです。熱意のない議員を選んでしまう市民にも責任がありますけどね。

川越は今日(16日)が臨時議会です。午後からですので、傍聴します。新座は24日ですか〜、予定があって傍聴できません。残念。議会報告見ました。「市長の公用車をやめれば」・・・という財源確保はいいですね。市長も市役所職員も議員も市民に対するサービス業ですし、
いろいろと支出を削って、市民サービスすることは大切です。もしも新座市役所と○○市役所が並んで有って、市民が好きな方を選べたら、サービスの良い自治体を選ぶでしょう。
今住んでいるところから、なかなか引越しができないから、住んでいる市の市役所を選ぶしかないわけです。○○スーパーと△△スーパーのどちらに買い物に行くかといえば、安くて、品物が良くて、消費者のことを考えてくれるスーパーが好きです。

* 川越で一番有名な主婦からこんなメールがきた。僕も昔は「駅立ちって選挙運動みたいで嫌だなあ」そう思っていた。だから駅に立つことなど一度もしなかったのだ。それを教え子に怒られた。「たかやんは何もやってない!」「全然駄目だよ!」「がっかりしたよ!」「よしだよしのりを見ろ!」僕は教え子の一言で目が覚めた。そう自分の考えを発信しなきゃ駄目だと・・・・。自分を応援してくれている人にちゃんと報告をしなくてはと・・・。教え子達に恥ずかしくない活動をしないと・・・。そう思ったのだ。僕の駅立ちは3年後の選挙運動などではない。1年前の選挙で応援してくれた方たちへの、5年前に僕に投票してくれた方たちへの、そして9年前に落選した僕を応援してくれた方達へのお礼なのだ。そして、議員として当たり前の仕事なのだ。

4月号
そんな訳で、4月号の作成に取り掛かっている。書きたいことは山ほどあるので、紙面は直ぐに埋まってしまう。でも、自分が言いたいこと、書きたいことばかりじゃあ読んでも詰まらないだろうから・・・いろいろと考えてしまうのである。

落合川
ママと空を連れて自転車で落合川へ遊びに行った。丁度「川塾」を友達がやっているところだった。綺麗な川に綺麗な芝・・・子どもたちが川辺で遊ぶその場所は、我が家から10分のところだ。あんなに近いところに、子どもたちの天国のような場所がある。地震が来ても、あそこの水を沸かして呑めば大丈夫。落合川の水は、それほど綺麗だった。

教師を目指す人へのメッセージ
第十六歩 「職員会議」
最初の年、僕は職員会議でほとんど発言できなかった。ただただ先輩達の議論を聞いていただけだった。唯一発言したのがソックスのこと。当時、僕の学校では「女子のソックスは三つ折りのこと。」という、訳の分からないルールがあったのだ。いくらなんでもそれはひどいと思って、勇気を出して手を上げたのだ。『どうして、ソックスを三つ折りにしなくてはいけないのですか?』すると僕の大好きな女のG先生がこう言ったのだ。「三折りの靴下のことをソックスというんです!」それで終わりである。僕は職員会議での初発言をこうして撃沈されてしまったのだ。

僕のいた埼玉の公立の中学校では未だに「少し許すと、どんどんだらしなくなる…限度が無くなる。」という考え方への信仰がある。例の「服装の乱れは心の乱れ」という標語を金科玉条のように唱えている人達はたくさん存在している。そこから僕の一番嫌いな言葉「共通理解、同一行動」という言葉が生まれてきたのだと思う。彼らは生徒に同じように接しなさいと言う。その前にルールを守らせるということに対してはみんなで共通理解しましょうね、という訳だ。前にも書いたが、これが恐いのである。この考え方が教師から人間味を奪い、生徒の心をぎゅうぎゅうに縛ってしまうのである。少し考えれば当たり前のことなのだが、不思議なことに、長年学校にいると、その考え方に疑問を感じなくなる人が多くなっていくのだ。国会中継もなかなか滑稽で面白いことがあるが、職員会議をテレビで中継したら、かなりの視聴率を稼ぐのではないかと思う。少なくても「金八」よりは面白いと思う。それほど中身のない議論がされることが多い。

一番忘れられないのは最後の二中で新しい部活動を作ろうとしたときだ。『硬式テニス部を作りたいのですが。』「8年前の職員会議で新しい部は作らないと決めたので無理です。」『今、ここにいない人達で決めたことに、何故我々が従わなくてはいけないんですか?』「原案通りでお願いします。」『コートも予算もいりません。やりたい子達がいます。やらせてください。』「原案通りでお願いします。」今でもその時のことを思い出すと腹が立つが、要するに管理職の考え一つなのだ。職員全体の考えで物事が決まっていくのではなくて、管理職の頭の中で物事が決められていく。管理職とその取り巻き連中の「飲み会」で学校のことが決められてしまうのはたまらない。そんな馬鹿な・・・でもそういう学校はたくさんあるのだ。管理職が子供達の方を向いて能力の高い場合はいいが、子供達の方など全く見ていなくて能力が無いと、こういう職員会議になってしまう。要するに結論が先に出ている訳だ。議論しても無駄だから、誰も発言しようとしないし、「原案賛成!」とゴマをする奴がかわいがられるという仕組みが出来上がっていく。反対に逆らうと、報復人事などが待っていたりするから恐ろしい。この当たりも最近の国会と同じである。逆に自由にものが言える学校はいい。先生が伸び伸びしていれば子供達だって、伸び伸びする。当たり前のことだ。最初の職員会議でその雰囲気はつかめるはずだ。学年会議も一緒。自由にものを言えないような雰囲気の時は管理職に問題があると思っていい。そう学級会議だって同じだ。力の強いボスのいいなりになるようなクラスや学年、そして学校は御免だ。
*そういう意味では新座市議会の方がギチギチの学校より、はるかに進歩的である。僕は一人会派だけれど、弱いものいじめをするようなレベルの人はいないし、僕の発言はきちんと保障されている。僕が発行する報告も自由だ。勿論、市長や教育長とも議場では対等に議論できる。それを止めることは誰にもできない。僕のボス市長でもましてや教育長でもない。会派のボスもいない・・・これも一人会派のいいとろである。先生達が教室でボスになることはあるだろう。けれども、子供たちの発言を押さえ込むような、そんなボス先生にはなって欲しくない。子どもたちを押しつぶし、力を引き出すことができなかった先生が、管理職になったら最悪である。自分のイエスマンだけを可愛がる先生が校長になったら・・・教育が終わってしまう。