4月20日 (月)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第109弾! 2009.4.20(月)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第109弾! 2009.4.20(月)   たかやん

舞ちゃん
6年生になった舞ちゃんに久しぶりにあった。久しぶりなので、僕らの会話は超猛スピード。「たかやん、最小公倍数が分からないの」「そっかあ・・・例えばだよ。8と12だったらいくつかな・・・・」車を運転しながら、二人で算数の勉強をしたり、羞恥心のメンバーのCDの話をしたり・・・・本当に楽しいひと時だった。

痛っ!
石神小に着き、舞ちゃんを下ろそうとしたときのことだ。舞ちゃんもいつの間にか6年生・・・「おいおい・・重くなってないだろうなあ・・」と僕。「えへへへへ」と舞。「首に手を回してね」「あい」「よいしょ!」と持ち上げたのだが、少し滑って・・・舞ちゃんを持ち直そうとしたとき・・・車のとがった部分に激突した。「ガオー!」激痛が走るが、まさか舞ちゃんを落とすことはできない。必死に堪えて・・・・舞ちゃんを車椅子に乗せる。体を鍛えないといけないな・・・そう思ったのだった。

家庭学習ノート
新座の学校では家庭学習ノートなるものが流行している。ノートに問題を書き、答えを書いて机に向かっていれば安心する。それじゃあ、まるでアホな母親の心理である。新座の中学校が県のトップの学力を誇っていたとき、「家庭学習ノート」は存在しなかった。そんなものに時間を使って、本気で自分の頭を使わないようになっているから、子どもたちの学力は下がってきているのである。勉強のできなかった先生達が、自分達のやり方を子ども達に押しつける。子どもたちは成績が下がってはいけないと、懸命に時間を使って家庭学習ノートなるものを提出することが勉強だと思い込む。そうして全体の学力は下がっていくのだ。「家庭学習ノートをやるな!」と、言っているのではない。やるとしたら、頭をつかってうまくやろうよ。と、言っているのだ。同じ字をノートに何十回も書いて覚える・・・そんな頭の悪い勉強法を信じてはいけない。脳みそに定着しない勉強法は時間ばかり食う「嘘勉強法」である。授業中からノートは写してはいけないのである。板書から一度は目を離して、頭に記憶させてから書く。それが脳みそを使うということだ。黒板に書いてないことも、重要だと思った説明はどんどん書き込んでいく・・・。余白を残して書くのは勿論だが、後で見たくなるようなノートにしなくてはいけないのだ。(塾日記から)


第十八歩 「懐かしい学級通信1」
1995.6.30 『一生懸命』幻の学級通信第62弾! 2年1組から
一日に12回
「人は誰でも1日に12回抱きしめられるべきです。生きていくためには最低4回。健全な心のために8回。元気でいるためには12回。ドラッグ(麻薬)よりもハグ(抱きしめ)を。」
天声人語にね、こういうのが載ってたよ。と吉沢先生。『わかるなあ、それ。』「1日12回だよ。」『うーん、抱きしめられたい!』「言葉でもいいんだって…・。」『そうだよね。優しい言葉って、そうだよね。』「絶対必要だよね。」『子供達の事も抱きしめなきゃ。自分も抱きしめられたいけど。』「うん。」最近吉沢先生とやさしい言葉について語ることが多い。この間なんか夜電話で30分も話してしまった。朝「おはよう!」『ジャンボ!』と笑顔でしてくれる子供達の挨拶も、僕にとっては「抱きしめ」なのかも知れない。もっともっと、笑顔でいよう。もっともっと、子ども達と語ろう。もっともっと、抱きしめてあげよう…。うーん。1日12回。
これは今から7年前のお話。吉沢先生は本当に優しい先生で、この時の話はよく覚えている。1日に12回、僕らは子供達を抱きしめているだろうか……。いやいや自分の子供でさえなかなか抱きしめてはいないのだ。子供と一緒にいないとなかなか子どもが見えない。一緒にいても見えないと、誉められないし、抱きしめられない…。

テニスの世界では一人のコーチが見ることのできる生徒の数は16人と言われているが、今の学校は1クラス当たりの生徒数がまだまだ多いのである。確かにそうなのだ。その人の能力にもよるだろうが、1クラスに40人の子ども達はやはり多いと思う。修学旅行や体育祭や合唱祭のような行事では多い方が面白い。しかし、一人一人に目がいくかと聞かれると、やっぱりNOなのである。

「学校とテニスを一緒にするな!」という人もいるだろうが、子どもの可能性を引き出すということに関しては同じである。Educationを教育ではなく、「開智」と訳すのが本当だという人がいたが、その通りだと思う。自分の考え(自分の考えが無い場合は学校の考え)を子ども達に押し付け、育てようというのでは困るのである。1日に12回。半分は親に頼むとしても、6回くらいは学校で抱きしめてあげたいものである。教師は子供達が傷つく言葉を僕らは知らず知らずのうちに、あるいは意識的に使っている。そのエネルギーを「抱きしめ」の言葉を話すことに使おうではないか。勿論本当に抱きしめてあげてもいい。言葉で抱きしめてもいい。表情で抱きしめてもいい。歌で抱きしめてもいい。子供たちは一日に12回、抱きしめられる権利を持っているのだから・・・。

そんなことをしたらセクハラになるのでは・・・そう思う人もいるだろう。大丈夫だ。卒業式の日に担任と抱き合って泣く子供たち。それを見て「セクハラだ。」という人はいない。要はその時の雰囲気なのだ。子供たちと自分の信頼関係なのだ。信頼関係がないのに抱きついたらいけない。それこそセクハラである。心配な人は言葉で抱きしめればいい。
*抱きしめ・・・ハグ。日本には余りない習慣だが、欧米では当たり前のこと。カナダに行ったときのことだ。ニューヨークへ飛ぶときに、空港まで送ってくれたカナダ人の女の友達が、僕のことを抱きしめてくれた。そう、まるで母親のように・・・・。僕はその1回のハグで安心してニューヨークへ行けたのだ、「抱きしめ」の力はもの凄い。学校にこそ、そういう力が蔓延してほしいものである。僕は「駅立ち」で毎回誰かとハグしているが、それは学校時代にそうしてきたからなのだ。男も女も関係ない。抱きしめは大事である。