4月28日 (火)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第117弾! 2009.4.28(火)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第117弾! 2009.4.28(火)   たかやん

定額給付金
申請書が我が家に届いた。早速書いて提出した。定額給付金ほど馬鹿馬鹿しいものはない・・・。国民から集めたお金を、選挙前にみんなにばら撒いたのだから・・・。経済対策が聞いて呆れる。金持ちは使うだろうし、ちょっと貧乏人は貯めるだろう。そして本当に貧しい人たちは借金の返済や生活費に消えてなくなるのかも知れない。本はと言えば、俺達の税金。貰うのか、貰わないのか・・・使うのか、使わないのか・・・どうしようが大きなお世話。

ツケ睫毛
郵便局へ行く途中のお話。僕が歩いていると、向こうのほうから自転車に乗った若いおかあさんが僕にニコっと笑う。(え?知らない人だなあ・・・ちょっと可愛いけど・・・まいっか、挨拶はしておこう・・)と笑い返した。すると、彼女は僕の方によってくるではないか・・・(おいおい、どうした・・あれ?)知らないと思っていた彼女は、なんとうちのママだった!!「気がついてなかったでしょう?」「ああ、全然誰だか分からなかった・・・・」「ひどい・・・」「そんなツケ睫毛してるから分からないんだよ」「ちょっとショック」「予想外の方向から来たしね。」「全然分からなかったっていうのが、ちょっとショック・・」
郵便局からは仲良く帰ったのだが、まさかママに気づかないとは・・・とほほほほ。

平泳ぎ
遂に平泳ぎでもヘルパーなしで25m泳げるようになった空。これで背泳、クロールと合わせて3種目、自力で泳げるようになったのだから凄い。僕は、田舎の川で泳ぎを習ったので、幼稚園のときは、犬掻きぐらいしかできなかった気がする。小学校では平泳ぎと潜水が専門。それ以外の泳ぎ方は教師になってから、水泳部と一緒に練習してできるようになった。五中の水泳部は関東・全国に出場するようなチームだったので、子どもたちに教えてもらったのだ。空はこれからバタフライに挑戦する。小学校に上がる頃にはきっと泳げるようになっているだろう・・・。子どもたちの能力って本当に凄いと思う。それを引き出すコーチの能力もまた凄いと感心するのである。

九九
6歳の誕生日前に「九九」を完全制覇した空。あっという間に覚えるかと思ったが、使わないと忘れていく訳で・・・結構時間がかかった。お風呂の中ではよく遊ぶが、「九九遊び」の成果がやっと出たという感じ。亮ともお風呂の中では頭の中でよく将棋を指したが・・・・最後のほうは僕がついていけなくなっていたっけ・・・。子どもたちの頭は本当に柔らかい。

教師を目指す人へのメッセージ
第二十六歩 「副担」
僕は二十一年間、ずっと担任をしてきたので副担の仕事をしたことがない。だから副担の気持ちもよく分からない。副担といっても実に色々で、担任のサポートをしてくれる人から邪魔をしてくれる人まで本当に様々だった。一番感動したのは宮下先生が副担になったとき。僕より5年先輩の体育の先生なのだが、あっという間に新学期の事務的なことをやっておいてくれるのだ。新学期の担任は名簿を作ったり、教室の整備をしたり、学級通信を書いたり、それこそ何とかいいスタートを切ろうと必死になる。出席簿、学級保健簿、生徒指導票・・・そういったものを副担が作ってくれたら・・・これはもう万々歳である。宮下先生はそういうことを実にさりげなくやっておいてくれる先生だった。そして学期末の通知表。今はパソコンにデータを打ち込んでというパターンが多いようだが、昔は全部手書き。勿論所見は担任が書くのだが、それ以外のところは全部宮下先生がやっておいてくれるのだから嬉しかった。
僕がいないときにクラスで問題が起きても、「たかやんだったら何ていうかな?」「あたしは知らないわよ。担任はあたしじゃないんだから。」と言って、子ども達と僕との関係を大事にしてくれた。そして女の子達が僕にもいえないことがあると、宮下先生に相談に行っていたらしい。
一方で、事務的なことは何でも副担の仕事にしようとする担任もいる。もともとは担任の仕事なのだから、それはいただけない。担任と副担、お互いを思いやらないといい関係にはならないのだ。どんな人間関係も同じだと思うけど・・・・
僕は一度も副担をしなかった。僕にとってクラスというのは「生きがい」そのものだったから。僕が管理職試験を受けなかった理由は「担任」ができないから。校長になっても「担任」ができて、「授業」ができて、「部活」ができるというのなら、今頃は校長をやっていたかも知れない。僕は部活人間のように言われていたらしいけれど、それは違う。僕はクラス人間である。テニス部とクラスとどちらを取るといわれたら、間違いなくクラスを取るタイプなのだ。それは通信にも表れている。学級通信「一生懸命」は毎日発行できたが、部通信「ボール行きます!」は年間70号がいいとこだった。学校に自分の「学級」があるということは、学校に自分の「家族」がいるということだ。だから僕は教師という職業を続けられたのだ。
僕には副担という仕事はできない。そういう能力に欠けているのだ。だから担任を持たない学年主任にも教頭や校長にもなれない。そういう意味では実に幸せな教師人生だったと思う。21年間、僕には「家族」がいた。そう不思議なことがある。「家族」の名前は忘れないということ。顔も名前もみんな覚えている。何十年経っても忘れない。それが不思議だ。自分の学生時代の友達は忘れているというのに・・・・担任というのはそれほど子ども達にのめり込んでいくものなのだ。
*優秀な先生達が新座市の教壇から去っていった。博子先生、ジャイアン、ワニ、ウッシー、みち先生・・・重一郎・・・そしてもっちゃん。なんでみんな途中でやめたかなあ・・・俺が言うのもなんだけど、子どもたちのためには居て欲しかった先生たちばかりだ。