4月8日 (水)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第97弾! 2009.4.8(水)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第97弾! 2009.4.8(水)   たかやん

風呂掃除
今朝の仕事は風呂掃除。お風呂で英語のトレーニングをした後に、やってみた。なかなか気持ちがよかった。

入学式
ピンクのネクタイを締めて八石小学校へ。体育館に入ると「あ、たかやんだ!」と2年生の女の子。親友の娘だった。僕の左隣は市教委の塚田先生。右隣は片山幼稚園の園長先生でちょっぴり緊張した。

校歌
2年生の子達と一緒に「八石小学校」の校歌を歌った。ひとみ(ママ)から教わっていたのだ。


祝辞を述べられる先生達が何回礼をするか数えていたら・・・平均8回。いくらなんでも多すぎやしないかい・・・などと余計なことを考えていた。

呼名
中学校の入学式では一人一人名前を呼ぶのだが、小学校ではそれがない。30分で終わるのだから、呼名をしたらいいのにと思う。子どもたちも一生に一度、親にとっても一生に一度の愛する子どもたちの入学式。そういうシーンがあってもいい。いや、あるべきだと思った。

第六中学校
午後からは六中へ。「たかやん!」笑顔で僕を呼ぶ声が・・・・六中の卒業生がお母さんになって登場。「おめでとう!こっち向け!ハイ、チーズ!」と写真を撮った。

世界一
六中の校歌は日本一だと思っていたが、今日の在校生の歌を聴いていたら、「世界一」なんじゃないだろうか・・・と思った。はじめは一緒に歌う積もりで、独り起立して歌おうと思っていたのだが・・・アカペラで楽譜通りにハモられちゃあ・・・出番なし。勿論、座ったまま歌ったけれど、いやあ綺麗な声だった。親は多分安心したと思う。あれだけの歌を歌える中学生達はそうそういないだろう。指導している片山陽子先生も凄いが、やっぱり六中生の底力は凄いと思った。いやあ本当に感動した。


テレビで懐かしい歌を聞いた。「大学2年生の時の歌だ」「あたしは4歳だった」「あ、そう」「この歌は中学校2年生くらいだ」「生まれてない・・・」「五中でオタンコ達の担任だった頃の歌だね」「うーん、知ってるこの歌。お父さんが好きだった。よく歌っていた。小学校5年生くらいかな」どうやら、生きてきた時代が少しずれていたらしい・・・。

きつねうどん
今夜の夕飯はきつねうどん。ママが油揚げを煮て、僕が汁を作り、空が包丁で菜っ葉を切った。そのうどんの美味しかったこと。「ママ、空が切ったんだよ!美味しいよ」と菜っ葉をやたら勧める空。「油揚げも食べてよね」「汁は美味しいかい?」どうやら空は料理に興味を持ったらしい。一緒に作ることで会話が広がり、そして食べ物を大事にするようになる。今日のきつねうどんはそんなことを教えてくれたのだった。

教師を目指す人へのメッセージ 

第六歩 「言葉の力」
「言葉」の持つ力を知らないで教師をしてはいけない。子供達には「いい言葉といい栄養で育つ権利」があると僕は思っている。心からでた言葉にはそれだけの力があるのだ。
朝から「おはよう!」ではなく、「何だお前そのスカートは!」「何でジャージなんだ!制服はどうした!」と叫ぶ奴がいる。彼らにはその言葉が子供達にどういう影響を与えるか考える力がない。それでいて、「挨拶」は大切だ。などというからちゃんちゃらおかしくなってくるのだ。「先生」は先を生きているのだから、何でも真っ先にやらなくては「先生」じゃあないのだ。こどもに気持ちのいい挨拶をさせるのは簡単だ。教師が自分から「おっはよーっ!」と笑顔で挨拶しつづければいい。勿論一日では駄目だ。最低2週間、子供達から挨拶が返ってこなくても笑顔つきでやり続ける。「継続は力なり」子供達は間違いなく笑顔つきの挨拶をするようになる。職員室の中には大声で挨拶しても何も返ってこない凄い奴もいる。さすがに大人だとむっとくるが、それでもし続けるとやっぱり返ってくるようになる。人間ってそういうものだのだ。学校は全ての時間が授業なのだ。廊下で会っても、校門で会っても、勿論授業中でも「言葉」には最大の敬意を払わなくてはいけないのだ。僕は教育実習を函館中部高校の定時制でやらせてもらった。僕はそこの1年生で生
物の授業をしたのだが、ひどい内容だった。何しろ自分でも何をしているのかよく分からなかったのだから。それでも生徒達はみんな真剣に聞いてくれた。眠い目をこすりながら、真剣に聞いてくれた。8割以上が看護学校の生徒だったと思う。本当にありがたかった。最後の日にそこの教頭先生から僕らはこういう言葉をもらった。
「君たちの授業は確かに下手です。ひどいものです。しかし、君たちには僕らにはないものがある。それは言葉です。彼らと共通の言葉です。その言葉をいくつになっても失わないでください。お願いします。」
その言葉のお陰で僕は教師をやってこれたのである。「彼らと共通の言葉」それは上からものをいう「言葉」ではない。もちろん子供達と対等の言葉だ。別にこどもたちのいうところの「タメ語」で話せという意味ではない。ではどういう言葉なのか。それは子供達と何でも一緒にやっているうちに分かってくる言葉である。苦しい事も楽しいことも一緒になってやる。やらせるのではなくて、一緒にやる。それが味噌である。大きな声で校歌を歌って欲しかったら、自分も一緒に大声で歌う。一生懸命勉強して欲しかったら自分も一緒に一生懸命勉強する。そうすると彼らの言葉が聞こえてくるのだ。言葉はまず耳から覚えなくてはいけない。彼らの言葉が聞こえるようになったら、自分がしゃべるのは時間の問題なのだ。大学卒業してすぐの新米教師は特にその能力が高いはずだ。何しろちょっと前までは文字どおり「学生」だったのだから…・ところが「先生」になった瞬間にその言葉を忘れてしまい、二度と話せなくなる教師がたくさんいるのも事実である。彼らは残念ながらプロの教師にはなれないのである。言葉が話せないということはコミニュケーションができないということだ。それこそ最初が肝心である。言葉の力は恐ろしいのだ。笑顔つきのいい言葉より強いものはない。大丈夫。貴方ならきっとできる。
お母さんが笑顔で、いい言葉といい栄養を赤ちゃんに与えていくことが大事。
学校だって、同じはず
* 笑顔つきの言葉。教師にとっても子どもたちから貰うとたまらないものだ。半世紀以上生きてきたって、笑顔つきの言葉ほど嬉しいものはない。6歳の子どもたちが13歳の子どもたちが、その笑顔とその言葉でどれだけ元気になるだろう・・・・この一週間で、できる限りの笑顔とできる限りの優しい言葉を子ども達へあげて欲しい。優しい顔をしているとなめられるんじゃないか・・・そう思っている貴方はもう子ども達の言葉を失っている。そういう時は思い出せばいい。6歳の頃の自分を、15歳の頃の自分を・・・・
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