5月2日 (土)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第121弾! 2009.5.2(土)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第121弾! 2009.5.2(土)   たかやん

土曜日
ラジオ講座を聴こうと机の前に座る・・・が、流れてきたのは別の放送だった。
「そうだ!今日は土曜日だった・・・」庭に出ると風が気持ちいい・・・。布団干し日和って奴だと思った。

鰹節
毎朝、シャカシャカ鰹節を削っている。朝からいい香りが部屋中に漂うのはいいことだ。空が大きくなって、鰹節の匂いを嗅いだら・・・きっと我が家の朝を思い出すだろう。

海外
連休ということで、成田から海外へ行く人が多いらしい。「不況」とは関係のない人たちも沢山いるのだなあと思う。逆に言うと、そういう人たちがいるから不況なのかもしれない。我が家は海外どころか、どこへも行けない状態である。とほほ。

堂坂公園
「パパ、堂坂いくよ!」と空。「自転車でいくよ!」「坂だいじょうぶか?」「だいじょうぶ」空と二人で堂坂公園に向かったのは午後3時頃。空は公園の遊具で器用に遊んでいた。ちょっと前までは怖がっていた場所から平気で飛び降り、上り下りしている空を見て、ちょっとビックリしたのだった。

タバコ
そこに中学生軍団が7〜8人自転車に乗って登場した。その内の数名は六中のジャージを着ている。彼らはブランコのところでたむろして、なにやら話し込んでいた。そして、そのうちの一人が、当たり前のようにタバコを吸い始めた。「空、ちょっとそこで待ってろ。」と言い残し、中学生の方へ向かう・・・・「少年!タバコはいかんだろう・・」「・・・・」「六中の評判を落とすようなこと、するんじゃない!」「あのう・・東中なんですけど」「そっか。それでもタバコは駄目だ。中学生が公園でタバコ吸ってどうする?」「はい」「吸うなよ」「あ、はい」体は大きいが、まだ小学生のような幼い目をした子達だった。怒られた後に、「泥警」をして遊ぶ中学生。やはり子どもじゃ。昔から、六中と東中は仲がよかったっけ。そして、堂坂公園が溜まり場だったよなあ・・・。僕の教え子達も、同じように誰かに叱ってもらったのかも知れないなあ・・。そんなことを考えながら、空と堂坂を後にしたのだった。

東野圭吾
二日間で4冊読んだが、なかなか面白い。「容疑者Xの献身」「秘密」「手紙」「レイクサイド」・・・ちょっとはまりそう・・・。

教師を目指す人へのメッセージ
第三十三歩   「上を見ないで、下を見る」

大学を卒業して、教師になったばかりの頃は「教育は愛だ」という言葉を信じ、授業に燃え、子供たちの毎日の変化に喜びを感じ、学級通信を書き、先輩の授業に感心し、この職業を選んだことを誇りに思っていた・・・・そんな先生が多いのではないだろうか。

それがいつの頃からか、管理職試験に興味を持つようになり、担任を持つことよりも学年主任になることの方が大事になり、校長の顔色を伺うようになり・・・・市教委にも気に入られようと気を使い・・・管理職の道を進んでいく。下を見ないで、上を見るようになる・・・そういう先生もまた少なくはないのではないだろうか。

自分は評価されず、子どもたちへの情熱も失い、それでも生活のために教師だけは続けないと・・・そう思っている人もたくさんいるかも知れない。

優秀な管理職は下を見ることを忘れない。教職員の声や表情の変化に敏感で、悩んでいる先生には手を差し伸べ、やる気のない先生には活を入れ、そして授業を見てはよくなった点を誉めてあげる・・・・勿論、子供たちの名前は覚え、隙があれば子供たちと一緒に汗を流し、授業にも行き、そして一緒に仕事をする。それは優秀な担任だった人の特質なのだ。

トップが優秀な人間であれば、下を見るタイプの先生は自然に上に上がっていく・・・・。いや、そうでなければならない。そういう仕組みができていないところは大変だ。優秀な先生が管理職試験に落ち続け、そうでない先生が受かっていく・・・若い先生達はそれを見て、やる気をなくしていく・・・・。それでは教育現場に活気がなくなって当たり前。

本物は上を見ないで下を見るものなのだ。教師になった時の自分を忘れない。それが本物。自分の中で大事なものは子どもたちだったはずだ。自分の昇進などではない。教頭になったって、校長になったって、本物の教育者にとって一番大切なものは自分の「地位」や「名誉」ではなく「子どもたち」や「先生」であるはず。

荒れない学校には下を見る目が多い。学校全体が上を見ないで、下を見る。そんな学校の子どもたちは、安心して勉強に部活動に燃えられるものなのだ。「先生」「先生」と呼ばれて、まるで自分が偉い人間になったように錯覚する時期はあるものだが、錯覚したまま本当に学校や教育委員会でトップになっていくと下の人間達は大変である。

時々鏡で自分の顔を見ることだ。先生になったばかりの自分の笑顔と同じ目が輝いていれば本物。皴は増えても、いい人相になっていれば大丈夫。子どもたちが見て、安心するような笑顔があれば大丈夫。結局どんな人の人生もみな人相にでるのである。

子どもから愛される先生になりたい・・・大学を卒業したての頃、みんなそう思ったはずだ。子どもから愛されるのは簡単だ。子どもを愛すればいい。何があっても見放すことなく、子どもたちを愛すればいい。

この間、5中の卒業生のS君にあった。「担任は誰だったの?」と聞くと、高校生の彼はこう言った。「柳田先生です。」「ああ、柳田先生ね。俺大好きなんだ。あの先生。一緒に働いたことはないけどね。」「柳田先生は僕のことを見放さなかったんです。こんな僕でも合唱際で歌うことができました。先生のお陰です」「卒業したらどうするの?」「俺来年、親父の会社に就職します!」こういう先生がいるから、子ども達は先生を通し手大人を信じるようになる。社会を信じるようになる。そして自分の人生も信じられるようになっていくのだ。「地位」や「名誉」よりも子ども達の「記憶に残る」先生になって欲しい。「地位」や「名誉」は死んだら終わりだが・・・「愛」は子ども達のこころの中で生き続けていく。