12月20日 (月)  『一生懸命』幻のたかやん塾日記 第350弾! 2010.12.20(月)  たかやん

『一生懸命』幻のたかやん塾日記 第350弾! 2010.12.20(月)  たかやん

朝霞
久しぶりに朝霞の甲神嵒の家に遊びに行った。嵒は丁度留守で、僕はいつものように勝手に二階に上がり、嵒の書斎から本を引き出しては寝っころがって読んでいた。いつの間にか夕飯になり、奥さんがお酒を持ってきてくれた。そこに登場したのが川島勝治と木下保則、3人で飲んでいると嵒も帰ってきて、4人でわいわいガヤガヤやりはじめた。そこに教育実習の女子大生が数人加わって・・・僕は記憶を失った。目が覚めると、僕はまだ甲神家で・・・(また、泊まってしまったか・・・)と頭を掻きながら下の部屋へ。そこには朝ごはんが用意されていて・・・僕は道路の向かい側の5中へ。五中の体育館には立派なエアコンが設置されていて、体育の増田先生が「どうです、いいでしょう!」と髭を触りながら僕に自慢してきたのだった。僕はこの増田先生が二中時代から大好きで・・・今朝はそんな夢を見ていたのだった。

発熱再び
風邪は悪化の一途をたどり・・・朝は声がでなくなっていた。しかも、熱が出てきて・・子ども達に風邪をうつしたら大変ということで、今朝の見守りは取りやめることに。東門は純一に1年生の見守りは順子にお願いしたのだった。

議運
9時からの議運にも、ぎりぎりの58分に到着。ボーっとしているので、何が何だからよく分からないうちに終わってしまった。本会議は9時40分から・・・議案の最初が第55号の「第4次基本構想総合振興計画」その反対討論で、僕の一日がスタートした。

議案86号はアメリカ合衆国軍隊の構成員等の所有する軽自動車に対する自動車税の賦課徴収の特例に関する条例。要するに、アメリカの軍隊の関係者は税金を半分にするよー、みたいな条例で、これには勿論反対。それにしても、なぜ合衆国なのだろう。正しくは合州国なのに・・・。

議案87号、88号と続けて賛成し、89号の新座市部設置条例の一部を改正する条例では一人で反対(討論つき)。続く、90号でも反対討論をしたのだった。

議案91号、94号、97号と賛成し、98号の北口の土地区画整理事業には一人反対。
99号、100号、101号、には賛成したのだった。

陳情10号の志木駅南口の商業振興に関する陳情は採択したかったのだが、全会派一致がよかろうという意見に負けて、趣旨採択に渋渋賛成したのだった。

陳情11号の東久留米・志木線の早期全面開通を求める陳情には、採択ではなく、趣旨採択を選んだ。そりゃあそうだ。住民が望んでいなかった都市計画道路を無理矢理作り始めて、最後まで抵抗している地権者がいると、数の力で押し切ろうとする。確かに不便だし、危険なのだが、そのやり方には無理があるだろう。だから、僕はこの道路に最初から反対しているのだ。東久留米・志木線の1440mに53億の価値があるとは思えないのである。

意見書
今回の意見書は3つ。TPP交渉の参加に反対する意見書については、「民主党はマニフェストのマの字もやらないくせに、頼んでもいないことをやろうとする。日本の政党ではなくて、アメリカの民主党なのじゃあないか。本当にろくなことをやらない。」とまあ、これに近いことを言い、民主党をこきおろした気がする。“巧遅は拙速に如かず”というが、このTPPに関しては巧遅もあり得ない。一度破壊された農業はなかなか復活はできなくなるのだ。レア・アースであれだけグラついた国なのだ。オイルショックなんていうものじゃないぞ、食料ショックは・・・あの太平洋戦争の戦死者だって、かなりの数が餓死者だったのだ。

国民健康保険
国保を広域化していこうという動きがある。要するに市の一般会計の繰入金をなくしていこうという計画で、国が国庫負担を増額しない限り、保険料が上がっていくのは間違いない。この広域化に反対という意見書に黙って反対したのが、政和会(自民)、刷新の会(民主・無所属)、公明党の市長与党。自分達の保険なのに、賛成も反対も言えないのは何故だ。市民の代表の僕らが、国保の保険料を払っている代表として、「これ以上は無理だ」と言うのが筋じゃあないのか。「もっと負担しても大丈夫だ」というのなら、それはそれでいい。何も言わずに反対というところが気に入らない。高額の国保で悩んでいる市民のみなさん!同じ国保を払っているのに、痛みが分かる議員は市長与党(政和・刷新・公明)にはゼロですよー!そう叫びたくなってくる。

疲れた・・
声が出ないということは大変なことで・・・今日は思ったことの半分も喋れなかった。本当に情けない。熱が高かった一般質問の時の方がまだましである。あの時は声はでていたから・・・。今日で12月議会が終わった。本当に疲れた・・・。明日、明後日で12月30日号を書いて、27日から駅立ちをして・・・お正月もポスティングと塾に燃えるぞ!

ありがとう!
「高邑議員、ウォッシュレットいいわー、らくちん、らくちん」とHさんに言われて嬉しかった。市役所のウォッシュレットは全て1,2階に配置するとうい案だったのを、“どの階にも平等に設置しましょうよ”と僕が提案していたのだ。市民は1,2階だけに来るわけじゃあないし、市の職員だって、色々な階で働いているのだから・・・どの階にも必ず1つはウォッシュレットがあるような職場にしましょうよ!“という僕の提案が実ったという訳だ。そのお礼をしてもらって、本当に嬉しかった。同じお金をかけるなら、みんなが幸せになる方法を考える。それが大事だと思うのだ。

今日の写真1
左から2番目の可愛い女の子が麻季子です。中学校1年生ですから、まだ13歳か14歳ですね。僕が六中にいた最後の年の六中テニス部はこんな雰囲気でした。家庭科室でみんなでうどんを作って食べているところです。よくこういうことをやっていました。

今日の写真2
六中最後の年の3年生です。左から朋子、由樹、ゆか。全員全国メンバーです。練習はハードでしたが、楽しい部活でした。男女の仲もよく、今でもみんなで集まっています。強い卒業生達がどんどんコートに戻ってきてくれて、親がどんどん協力をしてくれる。そんな幸せな時代の六中テニス部です。

今日の写真3
左が立教中学の西村先生です。僕が教師を辞めても付き合ってくれるテニス仲間です。立教大学の120周年記念教育講演会にも講師として呼んでくれた人です。右が川又浩さん。部員のお父さんですが、この時代は毎日のようにコートに来て一緒にテニスをしていました。そして、全国大会のときは引率もしてくれました。僕の方針は「誰が来ても一緒にテニスをしてもらう」というものだったので、近所のおじさん、おばさん、小学生、高校生、大学生、他の学校の先生、ヨネックスの人、ブリジストンの人、ダンロップの人・・・・兎に角、色んな人が六中のコートには来てくれました。誰が来ても、必ず楽しい練習や試合を入れていく・・・それが僕の得意技だったのです。誰も拒まない六中、それが僕の全てかも知れません。来る人は、誰も拒まない。六中テニス部はそれができた部活だったのです。地域の人たちから、応援されていたのも当たり前かも知れませんね。誰も拒まなかった男が、一番愛したコートから拒まれる・・・六中テニス部のすばらしい伝統が受け継がれることはなかったのです。人の心は悲しいですね。   たかやん

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