12月31日 (金)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第360弾! 2010.12.31(金)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第360弾! 2010.12.31(金)   たかやん

大晦日
朝からポスティングに燃えた。終わったのは日没だから、かなり頑張ったことになる。今日も空が一緒に手伝ってくれた。スイミングの選手コースに入ってから、持久力がついたように思う。どんなに疲れても「帰ろう!」と言わなくなったのだ。この1年で本当に成長した空である。

2010年という年・・その2
『一生懸命』幻のたかやん日記 第206弾! 2010.7.24(土)  たかやん

16時30分
左の胸がキリキリと痛む。救急車でここに運ばれたのは13時頃か・・・。もうあれから4時間近くが経とうとしている・・・。

タイブレーク
僕らは第1シード相手にファーストを3−6で落とし、セカンドは4−0でリードしていた。ところが4−1、4−2と追い上げられ・・僕のサービス。そこがポイントなのは間違いなかった。朝、ビデオでフェデラーのサービスを見ていたので、調子はよかった。昭も前で動いてくれていたので、殆どキープしていたのだ。僕は気合を入れサーブを打った!次の瞬間、左の背中に鈍痛が走った。しまった!筋肉を傷めたか・・・・それでも、そこが分岐点、痛みを堪えてサーブを打ち続ける。痛みは増していくが、やめる訳にはいかなかったのだ。勝てば全日本が見えてくるのだから・・・・。40−30から渾身の力を込めて打ったサーブはリターンミス。僕らは5−2でチェンジコートをした。その時、背中の痛みは、胸の痛みに変化していた。「昭、ちょっと胸が痛いんだ」と伝える。熱中症だと思ったのだろう。昭は「これを取れば休憩をもらえる。頑張ろう!」と僕を励ました。そして、僕らは6−2でセカンドセットを奪ったのだ。
しかし、5分経っても胸の痛みは増すばかりだった。僕は痛みを堪えて1番コートに入った。そう、このタイブレークを取れば、第1シードを倒せるのだ。(心臓が頑張れるところまで頑張ってみよう・・・)その時、僕はそう思っていた。しかし、5ポイント目で「昭、ごめん、もう駄目だ。動けない・・・」と言った。昭は「わかった。やめよう!」そう言ってくれた。それからはもう誰の顔も見えなくなっていった。

救急車
一緒に昭が乗ってくれた。僕の携帯からひとみに連絡をしてくれた。そして時々、僕を励ましてくれた。不思議だったことは左の胸から時々、ポコポコという音がしたことだ。救急車は猛スピードで走る。「どけー!」と絶叫しながら、飛ぶように走っていく救急車。触れるたびに激痛が走る。深呼吸しても激痛が・・・救命士はこの時点で「おかしいな・・・」そう呟いていた。(このまま死ぬわけにはいかない。)子どもたちの顔とひとみの顔が交互に浮かんだ・・・。理由は分からないが、死なないような、そんな気がしていた・・・。

立川災害医療センター
救急車は災害医療センターに到着した。直ぐに服を脱がされた。シャツは分かるが、パンツまで脱がされたのには参った。(え、なんでパンツまで?お願いだから、何かかけてよ!)そう叫びたかったが、痛みの方がそれを上回っていて・・・「痛い」と唸っていた。

心臓
どうやら心臓ではないらしい、と分かったのはそれから30分も経っていただろうか・・・心電図、エコーとやっている内に、心臓は正常という結果になったのだ。そして、CTを見ていた先生が、僕の左の肺が潰れているのを発見したのだ。

今日の写真
その時のCTの画像がこれです。左の肺の下の黒いところが空気が漏れた場所です。そこに空気がたまり、肺の3割ほどが萎縮してしまったことが分かります。肋骨の間からボールペン程の太さの管を打ち込み、その空気を抜くことで肺を元の形に戻す治療法が取られることになりました。因みに真ん中の丸いのは僕の心臓です。かなりでかく、スポーツ心臓だといわれました。1分間に45回くらいしか鼓動しないのですから・・・・。この画像おかしいとは思いませんか?答えは明日ね。

* こんなこともありました。ひとみは最悪のことを考えたようです。僕も、もしかしたら・・・父さんと同じようにこの年で人生が終わるかも知れない・・・そう思った日でした。それが10日ちょっとで退院できたのですから、やっぱりいい年でした。

12月17日 (金) 『一生懸命』幻のたかやん塾日記 第347弾! 2010.12.17(金)  たかやん

『一生懸命』幻のたかやん塾日記 第347弾! 2010.12.17(金)  たかやん

2時
ドキドキしながら我が家のポストを開けた。沢山の郵便物の中から1通の封書を見つけた。その封書は「埼玉県人事委員会事務局」からのものだった。そう採用試験の2次試験の結果が入っていたのだ。封筒の中身は薄い。薄い封筒には苦い思い出がある。それは新座市の採用試験の「不合格通知」。そう亮は新座市の採用試験には落ちているのだ。余り勉強していなかったのだから、無理もなかったのだが・・・それでも落ちるということはやはりショックだった訳で・・・・。今回の封筒も薄かったので、その時の記憶が蘇ってきたのだ。しかし・・その紙には「合格通知書」が入っていた。亮は合格したのだ!来年から社会人になれるのだ。試験の直前だけだったけど、久しぶりに本気で勉強した亮を見ていてくれた人がいたのだと思う。亮のことを本気で心配してくださっていた方達。本当に応援ありがとうございました。

埼玉県警
4月からの亮の勤め先は埼玉県警に決まった。息子が県警にお世話になるとすると、父としては今まで以上に安全運転をしなくてはと思う。例えば、横断歩道を渡ろうとしている人がいたら、必ず止まる・・・そういう運転を心がけるということだ。警視庁には沢山の友達がいるが、埼玉県警には数名しかいない。これから亮が連れてくるであろう県警の友達と会うのが今から楽しみである。

*そう3月に手術を受けてスポーツができるようになった亮が埼玉県の採用試験に合格したのもこの12月でした。生きていてくれるだけでいい・・・そう思っていた父でしたが、やはり亮には思い切り生きて欲しい!そう思うのです。自分の人生を100%で生き抜いて欲しい・・・今はそう思っています。

クリスマス
『一生懸命』幻のたかやん塾日記 第354弾! 2010.12.25(土)  たかやん

サンタ
6時半頃、空が目を覚まし・・・あ、サンタさんからの手紙がある!と動き出した。今年のサンタは手がこんでいて・・・手紙を三通も書き、やっとウィーに到達できるという仕組みだった。ウィーを見て、大喜びの空。それを見て、幸せを感じる空ママと空父であった。

8級
ついこの間、上級の10級になり喜んでいた空だが、今日のバタフライでは8級になれる記録を出した。信じられないスピードで進化していく空。この感覚を学校でもこども達に味わって欲しいのだ。出来ないことが出来るようになる喜びは格別であり、大きな自信になるのである。その自信は一生を支えるだけの価値があるかも知れない・・・・。

ソワソワ
4時からのインターネットテレビの生放送。お昼頃から、僕はそわそわし始めた。阿久根市長の竹原さんの次が僕というのだから、緊張しない方がおかしい。何で僕なのだ・・・という思いと、僕の普段の活動を認めてくれる方達がいるという喜びと・・・不思議な感覚で午後を過ごした。

台本無し
3時過ぎに山岡俊介さんの自宅に着いた。暫くして、寺澤有さんと三宅勝久さんが登場。ビデをカメラのセットに忙しい。打ち合わせが殆どないまま、放送はスタート。台本は無し、ぶっつけ本番のインターネットテレビが始まった。

アクシデント
始まって直ぐにカメラの画像が静止するというアクシデントがあったのだが・・・それからはうまい具合に進んでいった。マイクがないので、声が聞き取り辛かったらしく、寺澤さんの携帯に視聴者からのメッセージが届く。

杉並区
後半は三宅さんの話に引きずり込まれ、カメラを意識することなく話ができた。色々な話が聞けて、本当に楽しい2時間だった。少しはお役に立てたのだろうか・・・。聞くところによると、僕の次のゲストは超有名人の政治家で・・・なんで僕だったんだろう・・と、改めて思ってしまうのだった。

* そしてクリスマスにはインターネットテレビに出演するというおまけが付いた1年だった。NHKの「おはよう広場」の“熱血先生”に出て以来のテレビ出演だったが、生放送だったので、本当にドキドキだったなあ・・・。

よいお年を!
二日がかりで2010年を振り返りましたが、本当にドラマチックな1年でした。語る会は新座市議会では「鼻くそ」です。全く相手にされてません。ベテラン議員からも、新人議員からも相手にされない。それが一人会派です。それでも頑張れてこれたのは、この日記を読んで応援してくれているみなさんのお陰です。一人会派に何ができる!と、よく言われますが、それは最大会派だって同じです。市長提出議案に100%賛成するだけなら誰だってできます。おかしいことはおかしい。いいことはいい。市民目線でその判断をすることが一人会派「語る会」の使命だと僕は思っています。僕には支援団体がありません。勿論、献金はゼロ円。お金の繋がりがないところに本当の信頼関係はできると思っています
この1年間、僕の日記にお付き合い頂いて、本当にありがとうございました。そして、来年もよろしくお願い致します。みなさん、どうかよいお年をお迎えください!たかやん

今日の写真1
六中で最後に教えた1年生の子達です。この時は僕はもう学校を辞めていましたが、完全なボランティアで毎日教えていたのです。生活は苦しかったけれど、それはそれで楽しい時代でした。この子達が六中テニス部で全国大会に出場した最後の学年になります。

今日の写真2
六中にいた時の、最後の2年生です。この時は三年生の担任でした。この子達を残して僕は二中へ異動したのです。学校を辞めてカナダにいた時に、この子達から、「早く帰ってきて、練習を見てくれないと全国に行けません!」とメールが来て、僕は帰国します。僕が戻って3週間の練習で関東大会を勝ち抜き、全国大会に出場しました。2年間、一緒に練習した信頼関係があったからこそできたのだと思います。

今日の写真3
僕の最後のクラスの写真です。当時の二中は生徒総会で「ブルマーは嫌です!ハーフパンツに替えてください!」と子ども達が訴えても、校長を中心とする体育の先生達がそれをはねつけていました。あれは何だったんでしょうねえ・・。18年間ブルマーを見慣れていた僕ですが、二中へ行ったときはショックでした。この時は、また慣れてしまっていましたけれど・・・。自分の娘には履かせたくありませんよね。体育の先生が一番真っ先にハーフパンツに換える力になってくれると思っていたのですが、ガッカリした記憶があります。体育大学で何を勉強してきたんでしょうねえ・・・。今でも不思議でなりません。

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