12月14日 (水)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第297弾!  2011.12.14(水)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第297弾!  2011.12.14(水)   たかやん

5時
早起きは三文の得なのに・・5時に起きてしまった。理由は簡単で、夜中の0時20分に電話がかかってきたのである。「寝てた?」『ああ』「何時に起きるの?」『4時だよ』「じゃあ、6時に行くわ」『ああ、間違いなく起きてるから・・』そう言って、電話を切ったのだが・・・奴は来なかった。人を真夜中に起こしておいて、朝の6時に行くと言っておいて・・・来ないのだから、ふざけた野郎だ。

5時45分
空も起床。外は少し雨が降っていたのだが・・・6時15分頃には上がっていて・・・母さんと空と3人で黒目川に向かった。

ランニング
空の走り方が、男の子の走り方になってきた。ちょっと前までは、女の子みたいな走り方をしていたのだが、今朝の走りはいい走り方だった。途中でバテたのだが・・・かなりのスピードで走れるようになってきた。楽しみ、楽しみ。

九九
今朝はみんなで九九を言いながら登校した。2年生は九九をやっているのである。九九が終わり、10の段、11の段になって・・みんな少し苦しくなってきた。たかやん塾では19の段まで言えないと合格にはならない。インドに負けてはいられないのだ。

校庭
久しぶりに2年生が校庭に遊びに出ていた。寒くなってから、子ども達は外にでなくなっていたのだ。空も登場して・・・高鉄棒の一番高いところに座っていたのだった。

寒い
学校から帰ってくると・・手が悴んでいた。バイクでは寒いので、車で送ってもらった。体を冷やしていいことはない。最近、やっと気がついたのだ。

パッチ
大阪ではパッチというらしい。最近、パッチを履くようになってきた。それが中々いい感じなのである。困るのはトイレで・・・和式のトイレを利用することが多くなってきた、空父であった。

休憩
予想はしていたのだが・・・今日の議会は休憩が多かった。カサジと大輔の質問で執行部が詰まったのである。

カサジ
やっぱりカサジは凄い。質問のレベルが違う・・・そう思った。学校の授業では全然負ける気はしなかったけど、議会では完敗である。

大輔
カサジの次に凄いと思うのが大輔。六中時代はそれ程目立ってはいなかったのだが・・・議場では目立っている。兎に角、原稿を棒読みしないのがいい。どうやら彼の質問には僕のノートも役に立っているらしく・・・嬉しい限りである。

あと半年
たー坊は医者から「足を切断しなければあと半年の命」と言われたらしい。あの俊足のター坊が足を切らなくてはいけなかったのだ。本当に代わってやりたかった。たーのお父さん、お母さんは僕以上にそう思ったはずだ。本当は弱音を吐きたかっただろうに、「たかやん!助けてー!」って、俺に泣きつきたかっただろうに・・・我慢しやがって・・・痩せ我慢するから、会えなかったじゃないか。本当に馬鹿だよ、たー。「たかやーん!」って呼んでくれたら、直ぐに駆けつけたのに・・・たーはいつまでも。何があっても、俺のたーだったのに・・・雪も亮もそしてひとみも可愛がってくれた、たー坊。もう少し待ってくれよ。俺もそっちに行くから。空が大きくなるまで、もう少しだけ待っててくれ。


返信
ヨーロッパもあのチェルノブイリの時は、初めは同じような反応をしていたのです。それから時間が経つにつれ、内部被爆の重大さに気がついて、基準を大幅に下げ始めた経緯があります。そういったことを知らないのだと思います。原発推進国のフランスは特にそれが酷く、ほかの国で禁止されたものをフランス国民は暫く食べていたという事実があります。日本は超原発推進国ですから、当時のフランスより酷い対応をしていて当たり前といえば、当たり前なのかも知れません。国が動かないと県も動かない、県が動かないと市も動かない。民主主義とは逆の構図が今の日本を危うくしているのだと思います。チェルノブイリの影響をもろに受けたスウェーデンやトルコはチェルノブイリから1000キロ以上離れていたのです。新座は福島第一から220キロしか離れていません。内部被爆の意味を知らないと、大変なことになりますね。いずれにしても、子ども達の健康が第一です。下から上への動きを強めていきましょう。

今日の写真1
セシウム137がほうれん草の中に取り込まれると・・・水洗いではまったく落ちないという当たり前のことを示した写真です。根から栄養と間違えられて吸収された放射性物質が、表面を洗って落ちる訳がない。理科が3以上の人であれば、誰でも分かる話です。

今日の写真2
甲状腺の癌になったのは、子ども達だけではありませんでした。たくさんの大人も癌になっていたのです。

今日の写真3
一緒に講演を聞いた、二中の教え子のかずです。僕が3年を担任していた時の1年生ですから、教え子かどうかは微妙ですが、僕らの中では“教え子”ということになっています。あのまま二中に残っていたら・・・かずみたいな子達にたくさん会えたのだと思います。もしかしたら陵平にも・・・そうしたら、また別の人生があったのでしょうね。議会などは知らない、教師一筋の人生だったでしょうねえ。それもありだったのかも知れませんね。でも、僕は辞めてよかったと思っています。今の僕があるのは、当時の二中のお陰です。

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