4月21日 (木)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第110弾! 2011.4.21(木)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第110弾! 2011.4.21(木)   たかやん

マサ
東門に白いワゴン車が通りかかった。サングラスのおっさんがニヤっと笑ったと思ったら、マサだった。純一を「兄貴―!」と慕うマサ。車を止めて、純一と話し込んでいたのだった。「川掃除24日だからねえ」「え?そうなの?」そう、川掃除は24日なのです。

老人福祉センター
幸弘と二人で、老人福祉センターへ行った。福島県から避難してきた人たちの今後を相談する為である。僕らはそこで、素敵な人に出会った。人の縁は面白い。僕らはすっかり意気投合したのだった。

いい話
今日はある学校の校長先生にとってもいい話を聞いた。久しぶりに見る、本物の校長だなあと思った。そう、ある意味・・・僕らの時代の校長なのである。いやあ、いい話だったなあ・・・。

もう6年も経つのだなあ・・・
親友の和彦が逝ってから、もう直ぐ6年も経つのだなあ。久しぶりに昔の塾日記を見ていて、それに気づいた。毎日のように、横浜に通ったなあ・・・・俺達の残り時間を少しでも長くしようとして・・・。

『たかやん塾日記』2005.第177弾!   9月26日(月)

北大テニス部
金曜日に北大テニス部の集まりがあった。ひとみと空も一緒に行ったのだが・・・新小岩にあるそのコートは線路の直ぐ脇で、電車が引っ切り無しに通り、空はご機嫌だった。普段はなかなかテニスができないひとみも、久しぶりに汗をかくことができた。みずきや風太のお母さんの明子が「おばちゃん」役をやってくれたのだ。勿論「おじちゃん」達も空をかまってくれた。
驚いたのは65歳くらいの先輩達の体だった。太った人がいないのだ。現役で全日本で活躍している先輩などは、まるで30代の体だった。面白かったのは、本物の30代の後輩達が弱かったということ。どう見ても球のスピードは向こうの方が速いし、足も速いのだが・・・勝つのは50代のおっさんチーム。若い後輩達は首をかしげていたが、スポーツは頭とメンタルなのよねえ。
二次会で卒業以来の後輩達とも会えた。みんなあっという間に学生時代に逆戻りしてしまい、笑いが耐えなかった。こういう仲間と出会うために僕はあの大学へ行き、そしてテニス部に入ったのだと思った。

ビデオレター
日曜日にはまた横浜へ行った。和彦の病室にはビデオが置いてあった。「何するの?」と聞くと「ビデオレターを撮るんや。」という答えが返ってきた。残されていく奥さんや娘さん達の為に、元気のあるうちに映像で残そうというのだ。娘さん達はこれから色々な困難にぶつかるだろう。その時に父親の声は特別な意味を持つと思う。僕も苦しいことがたくさんあったが、その度に父さんの詩集「三本の矢に」を読んだ。その詩集を読むと父さんの声が聞こえてくるから・・・・それで何度助けられたか分らない。
きっと彼女達も和彦の姿とその声を聞いて、元気がでるはずだ。これから和彦はどんどん力が落ちていく。昨日はまだ目に力があったが、それもモルヒネでどんどんやられていくだろう。ビデオレター・・・・僕にもそういう日が来るのだろうか・・・・。

今日の写真1
懐かしい六中最後の学年の1年1組の写真です。池の前での写真ですね。キノッピーは最高の校長でした。暖かくて・・・教師も安心して仕事ができましたし、子ども達も安心して勉強できました。この子達も、もう今年30歳になります。

今日の写真2
和彦がビデオレターを作成していた時期です。この時、もう僕らに残された時間は、ほんの僅かでした。

今日の写真3
中学時代に憧れていた裕美さんです。僕は中三のとき、偏差値は75ありましたが、右隣の席の裕美さんには勝てませんでした。左隣のみはるちゃんは第二学区(新宿、渋谷、世田谷・・だったかな)で1位という恐ろしい女の子で・・・二人に挟まれた僕は、彼女達に勉強を教わっていたのです。特に二人の英語力はもの凄く・・・裕美さんが歌うPPMの歌は、本物に聴こえるくらいのレベルでした。裕美さんが好きだったのは、開成から東大へ行ったヒグ(日暮正厚)。彼は僕のテニスの弟子で・・・裕美さんの恋を応援していた記憶があります。どうしているんだろう・・・あの二人は・・・。

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