6月15日 (水)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第165弾!  2011.6.15(水)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第165弾!  2011.6.15(水)   たかやん

笑顔
今日もその子は笑ってくれた。3日前までは下を向いて、無表情だったのに・・・。そう言えば駅でも同じ事があった。何年間かは無表情で、僕のチラシに全く反応しなかった人が、ある日突然チラシを貰ってくれ・・次からは笑顔で貰い続けてくれる・・・そんなことがあるのだ。これに気がつくのには、もう記憶だけが頼りな訳で・・・いつも僕のチラシを貰ってくれる人は勿論、絶対に貰ってくれてない人も記憶するようにしているのだ。そして、その笑顔の4年生の女の子のように、ある日突然笑顔になってくれると、何十倍も幸せを感じるのである。

昼食会
東門と校庭の見守りの後は、空の担任だった先生と20人で昼食会。これがもう楽しいのなんのって・・・。お父さんは僕一人だけだったのだが・・・もう語りに語って、笑いに笑って・・あっという間に2時間半が過ぎてしまったのだった。

打ち合わせ
午後からは田中幸弘との打ち合わせ。夏休みの支援活動をどうしていくか・・という相談だった。僕は再び、南相馬や相馬に行くことになりそうである。向こうの子ども達の為に自分ができることをやってこよう、と思う。

若い先生達へ3
2年目から・・・
そうこの間の敏行との会話で思い出した。僕は2年目の理科の授業から教科書を使わなかった。勿論、教科書と全く別のことをやった訳ではないのだが、子ども達には「教科書なんか持ってこなくていい。俺が教科書だ!」くらいのことは言っていた気がする。それは1年目で2年と3年の理科を教科書通りにやることしかできなかった、自分の授業に対する反省からだったのかも知れない。科学雑誌を読みまくり、教科書の隅から隅までを暗誦し、その上での授業だった。勿論、頭の中に入れておくわけだから・・・教室に入る時はチョーク1本だけしか持っていかない・・・そんな授業をしていた気がする。だからよほどのことがない限り、子ども達も理科の教科書を学校に持ってくることはなかった。それでも学力テストでは県の平均を大幅に上回り、埼玉県ではトップにいたのだから、誰も文句をいう人間はいなかった。今、考えると恐ろしいが・・24歳という若さは怖いもの知らずだったのだろう。当時、そういう僕を許してくれた先輩や校長がいたから出来たことなのだろうが・・・今のシステムでは不可能に近いかも知れない。でも、大事なことは自分流の授業を作り出していくことじゃあないのかな。教師は職人だから、当然、ある程度のレベルは要求されるが、それ以上は自分で自分の技を磨くしかない訳で・・・若いうちからそういう意識を持っているだけで、5年後、10年後には職人歳手の腕が上がると思うのだ。自分だけの授業を作り出していくことは楽しい。自分が主役で演出家で・・・舞台を作り上げていくからだ。勿論、主役が子ども達になることもある訳だが・・・その舞台をリードするのは常に演出家である。ふと、若かったころの自分を思い出したのだった。

今日の写真1
六中の最初の赤ジャージの子達の林間学校だと思います。修学旅行も林間学校も自分の部屋で寝たのは余り記憶がありません。大抵子ども達の部屋で明け方まで語っていたような気がします。普段、余り話ができない子とは特に意識して語った記憶があります。徹夜しても平気だったのだから若かったですよねえ・・・。高校時代の担任の先生が、僕らと麻雀をしてくれたことが影響しているかも知れませんね。担任の先生が一緒に遊んでくれるのですから、僕らは安心して遊んでいました。多分、先生の部屋での麻雀だったと思います。

今日の写真2
六中最後の緑ジャージの卒業遠足の時の写真です。入試が終わったのだから、思い切り滑ってこよう!そんなのりでスキーに行きました。尤も、下見に行った僕らはスノーボードで遊んでいましたけれど・・・・。みんな笑顔でしたねえ・・・。

今日の写真3
六中の青ジャージのまさおです。彼は2年生になってテニス部に入ってきたのですが、メキメキと上達し、全国大会で3位までいった選手です。高校時代は県のチャンピョンになり・・・今は、オーストラリアで凄く綺麗な金髪の女の子と暮らしているはずです。最初は僕が英語を教えていたのですが、金髪の彼女が出来てからは力が逆転しました。愛の力には勝てないんですねえ・・・。

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