7月15日 (金)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第195弾!  2011.7.15(金)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第195弾!  2011.7.15(金)   たかやん

日記
朝、八石小のあるお母さんから「大丈夫ですか?」と聞かれた。「日記に書いてあったので・・痛みますか?」「ああ、うん、痛いので多分今日検査して入院すると思います」と僕は答えた。嬉しかったのは僕の日記を読んでくれている人が少しずつだけれど増えているということ。Kさんのように毎日チェックをしている人がいることも嬉しい?が、時々でも、僕の日記を読んで、何かを感じてくれる人が増えていってくれたら本当に嬉しいのだ。

あれ?
そして、清瀬の複十字病院での検査の結果は「気胸ではありません!」「ちゃんと肺は大きなままです!」という意外なものだった。どうみても、この痛みはあの痛みなのである。先生はこう続けた。「多分、痛みの記憶があって・・・それを感じているのでしょう。」それって、去年の夏の熱い空気を僕の体が記憶していて、あの痛みを思い出させているということ?そんな馬鹿な・・・。「まあ、安静にして、様子をみといてください・・」と言われた。明日は毎日選手権のシングルス。どうする、空父!

安静
一日ずっと安静にしていた。殆ど何もしないで横になっていた。それでも入院するよりは幸せなんだろうなあ・・・。入院したらお金もかかるし・・・そのお金で今度こそ洗濯機を買おう!そんなことを考えながらソファーで眠ってしまった・・・空父であった。

ソファー
どうも気持ちよく眠れるのである。ソファーで韓流ドラマを聴きながら・・・いつの間にか眠ってしまう。病院ではできない、幸せな一こまである。

試練
高校時代から、随分先輩達には無理なことをやらされたけれど・・・五中の1年目程酷い試練はなかったかも知れない。どこの世界に大学を卒業したばかりの新米に3年生の担任をやらせ、尚且つ2年生の1クラスを教えさせる・・・そんな中学校があるのだ。新米ということは授業の準備が倍かかるということで、2学年教えるということは更に倍辛い訳で・・・初めての3年の担任は倍大変で・・・それだけで8倍ではないか・・。しかも、問題児をほかのクラスの倍以上送り込んだのだから・・・・16倍じゃあきかない大変さだった訳で・・・我ながらよく堪えたと思う。でも、いつも子ども達が僕の味方だったから・・乗り越えられたのだ・・。そして、厳しいけれど、暖かい先輩達がいたから・・・。

教師を目指す人へのメッセージ3 

初めての授業
初めての授業の時のことは今でもはっきりと覚えている。自分が子供達にどういうふうに見られるのか、馬鹿にされはしないか、間違ったことを言いはしないか…・そんなことばかり考えていたから、顔が赤くなり、緊張の固まりという状態だった。
僕は元々人前で話す事が苦手だったから、授業のプレッシャーというのは相当のものだった。僕の赴任した学校は新設校で二つの中学校が合併してできた中学だった。そして僕は3年生の担任。埼玉県でたった一人の新卒の3年の担任だった。子供達は二つの学校が合わさっている訳だから、なんだかおかしなムードだし、僕は新米で何が何だか分からなくて、本当に漫画みたいなクラスだったような気がする。要するにクラスを仕切るのは僕ではなくて、子どもだったのである。
最初にクラスに入った時も「席に着いて!」と言っても、子供達は席に着かない。「こら!席に着けっていってんだろ!」と怒ってみても「嫌だね。」と一番のチビのIに言われる始末。先生の権威なんか全く無かった。それでも番長格のTが「座ろうぜ!」と一言いうと、みんな席に着いてくれた。そんな訳だからネクタイにスーツ姿の僕は子供達のいい標的だった。休み時間になるとネクタイを引っ張られ、首を絞められ、まったくいい遊び道具だった。口でも体力でも子供達に勝てず、本
当に情けない担任だった。
二日目から僕はネクタイを外し、ジーパンにセーターで登校した。スリッパを止めて、運動靴にした。子供達と格闘して勝つにはまず格好が大切だったのだ。そんな状態で最初の授業が始まったのである。3年生を4クラスに2年生を1クラス持たされた僕は本当にアップアップの状態だった。45分の授業にわざと5分遅れて行き、5分早目に終わらせて、35分の授業にしてみたり、とにかく早く教室から逃げ出したいと思っていた。そして質問が恐かった。「なんで?」「どうしてそうなるんですか?」「この植物の名前は?」恥ずかしいことにその質問のほとんどに僕は答えられなかった。ただごまかす事だけはしなかった。『今、分からないから調べておくよ。』そうやって先輩の先生に聞いたり、本で調べてきたりしていた。要するに子供達に勉強させられていたのだ。
僕は東京の新宿で育ったせいか、植物には特に弱かった。信州の山の中で育った、大学時代の友達に随分馬鹿にされたものだ。「おめえ、それでよく理科の教師になろうとするだな。」だから野外実習の時はもう必死で子供達と一緒に図鑑とにらめっこして、野草の名前を探した。そうして実習場所の野草の名前だけには滅法強くなったのである。そしてそのことがちょっとした自信になっていった。まるで子供達が自信を持つのと同じように。
そう、「先生」とは名ばかりで実は「生徒」だったのだ。教えている積もりが、実は子供達に教わっていたのだ。このことは実は21年間ずっと僕の心の中で続いていた。教師という仕事は実は子供達から教わる事の方が多いのではないか、ということである。そしてそのことは今でも正しいと思っている。僕らは子供達からたくさんのことを学ぶのだ。そして成長するのだ。どんなに授業が上手に出来ても、そのことが分からないとプロの教師にはなれないと僕は思う。

今日の写真1
僕の2回目の卒業生の二人五中の3年1組の子達が我が家に大学合格の報告に来た時の写真です。左は大。右は秀行。この子達は優秀でした。僕はこの子達と2年間同じクラスで生活しました。いわゆる持ち上がりのクラスだったのです。特に3年生になってからは1年間、毎朝「朝勉」をやりました。他のクラスよりも1時間早く教室に来て、みんなで勉強したのです。ところが大は1年間一度も僕に質問しませんでした。理科のテストをやらせれば113点。100点満点で113点というのは、僕の模範解答よりも大の解答の方がよかったからです。秀行は3年生の最初の中間は405点くらいだったのですが、僕が数学の問題集(1,2年の総復習400円程度)をあげると、それを3回繰り返しあっという間に450点を越えるようになりました。僕は毎回子供たちと一緒にテストを受けていたのですが、定期テストでは遂に大に勝つことはできませんでした。大は東大へ進学し、秀行は京大へ進学しました。僕はこの子達に一緒に学ぶことの大切さを学んだのです。


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