1月16日 (木)  『一生懸命』 幻のたかやん日記  第16弾! 2014.1.16(木)  たかやん

『一生懸命』 幻のたかやん日記  第16弾! 2014.1.16(木)  たかやん

2014年1月の川掃除
2月の川掃除は2月11日(火)に行います。栗原1丁目公園に9時に集合で11時までやる予定です。夕方は反省会があります。軍手、トングはこちらで用意します。持ってくるものは「黒目川を綺麗にしたい!」という気持ちだけです。沢山の方の参加をお待ちしています。因みに、2月11日は僕の誕生日です。(笑)たかやん

絶対に打ってはいけない!79 (市内在住のお母さんからのメール)
新座市に住んでいる方で被害者が他にもいるのをご存じでしょうか?大学二年生の女性ですが、大学に行くために去年他県から引っ越ししていらっしゃいましたが、症状が酷くなり、今は学校も休んでいる状態です。(接種地は他県、現在も住所は新座に移してないようです)先月、初めてお会いしましたが、もう見ていられません。
激痛が一日続いています。診察のため車に乗っても振動で痛み、車椅子にも乗っていられません。他の被害者の方にも何組も一度にお会いしましたが、うちは軽いことがよくわかりました。中学生、高校生の方がほとんどでしたが、みんな不随意運動が出ていて、酷い人は話している途中から気を失っていました。自分から歩けずに子供より小さな母やお父さんがおんぶしていました。まるで化学兵器をまかれた戦場のようでした。中には「お母さんってなんだっけ」いう子もいます。簡単な足し算や漢字やカタカナも書けなくなっている子がいます。たかやん、見ていられないよ。どうしよう…
みなさん!これが子宮頸癌ワクチンの実態です。国が奨めようが、誰が奨めようが、絶対に打ってはいけないんです!

5時55分
いつものように4時27分に目を覚まし、軽くシャワーを浴びてからランニングに行った。玄関を
出ると、土浦工業高校の子達が朝練のランニングに行くところで・・・僕は一緒に坂を降りはじめた。僕が目指したのは地元でパヤオ漁港と呼ばれている港で・・・真っ暗な中、看板だけを頼りに走ったのだが、沖縄の朝は暖かく・・・直ぐに汗ビッショリになり・・・約1時間で坂を登り、901号室に帰って来たのだった。

銀天商店街
今日の視察のテーマは中心市街地活性化基本計画で、沖縄市役所で10時の待ち合わせになっていた。僕らは8時過ぎにはホテルを出て、沖縄市の中心街の一つである、銀天商店街に行き、そこの人と会話をして、銀天商店街がどのように変化してきたのかを少しばかり掴んでから、沖縄市役所に向ったのだった。


初日の伊波先生、昨日のNPOの宮城さん、そして沖縄市の比嘉さん、仲宗根さんと僕らが出会う人は素敵は人ばかりで、本当に運がいいとしか言いようが無い。沖縄市の「中心市街地活性化計画」には、音楽と食と教育と高齢者・障害者福祉がベースにあって、とっても温かい計画なのである。

嘉手納
3時間近くに及んだ視察が終わり、僕らが向った場所は嘉手納基地だった。飛行場としては成田よりも長い滑走路を2本も持ち、弾薬庫や兵器庫には核兵器もあるであろうと言われている基地には戦闘機があちこちに配置されていた。

オスプレイ
嘉手納基地から、読谷村に僕らは向った。あの「チビチリガマ」をどうしても自分の目で見たかったからである。沖縄戦のビデオは何度も見たし、チビチリガマのビデオも何度も見ている筈なのだが・・・実際に読谷の海を見て、あのガマを見ると・・・そして、ガマの中に入ってみると、背筋が凍るような感じがした。集団自決した84人の内、半数が12歳以下の子ども達だったのだ。しかも自決をしたのが4月2日。米軍が沖縄に上陸したのは4月1日。読谷の海を埋め尽くした米軍艦と艦砲射撃の恐怖がガマの中をパニックにしたのだ。そしてたくさんの人々が判断を間違えて亡くなっていったのである。僕らは読谷村から普天間へ向った。その途中、僕らの目の前をオスプレイが飛行していった。

普天間
やっと宜野湾市に来た。そして、普天間基地を見ることが出来た。10年前の視察は病気で僕だけが取り残され、行けなかったのだ。普天間は住宅街の中にあった。沖縄のどの基地よりも住宅街にあるのだと思う。滑走路の先に住宅街があるのだから困ったものだ。沖縄に来て、実際に沖縄の基地を見て、実際に子ども達や地元の人と会って・・・僕は沖縄の基地問題を自分の問題として、感じることができるようになった。3日間、沢山の方達にお世話になりました。ありがとうございました!

23時23分
東久留米に着いた時間である。今はもう0時を越えている。明日の朝は5時55分から朝勉。頑張るしかないのだ。そして午前中には特別委員会、午後には議員講習会、そして議運、夜は塾と明日も忙しいのである。がんばるぞー!

今日の写真1
那覇市の中心市街地にある「ヒストリート1」です。那覇市の歴史、例えばコザ暴動などの背景やその実態などが分かる訳です。当時の米軍は人種差別が酷く、白人ストリートと黒人ストリートがハッキリと分かっていたそうです。あのコザの暴動では沢山の車が焼かれましたが、黒人の車は一台も燃やされなかった事、白人が乗っていた場合は引き出してから燃やしたのだそうです。1人の死人も出してない・・・そんな暴動だったのです。

今日の写真2
ここは読谷飛行場の滑走路跡です。この滑走路を米軍は奪いに来たのです。地元の人に聞かなければ、唯の道路にしか見えません。この滑走路の先の海から米軍はやってきました。

今日の写真3
これがチビチリガマの中です。ストロボで明るいですが、実際は真っ暗でよく見えません。この中に100人以上の人が隠れていたのです。どんな気持ちで隠れていたのか・・・想像するだけで涙が出てきます。

20140116-1.jpg 20140116-2.jpg 20140116-3.jpg