1月18日 (土)  『一生懸命』 幻のたかやん日記  第18弾! 2014.1.18(土)  たかやん

『一生懸命』 幻のたかやん日記  第18弾! 2014.1.18(土)  たかやん

2014年1月の川掃除
2月の川掃除は2月11日(火)に行います。栗原1丁目公園に9時に集合で11時までやる予定です。夕方は反省会があります。軍手、トングはこちらで用意します。持ってくるものは「黒目川を綺麗にしたい!」という気持ちだけです。沢山の方の参加をお待ちしています。因みに、2月11日は僕の誕生日です。(笑)たかやん

絶対に打ってはいけない!81 (市内在住のお母さんからのメール)
新座市に住んでいる方で被害者が他にもいるのをご存じでしょうか?大学二年生の女性ですが、大学に行くために去年他県から引っ越ししていらっしゃいましたが、症状が酷くなり、今は学校も休んでいる状態です。(接種地は他県、現在も住所は新座に移してないようです)先月、初めてお会いしましたが、もう見ていられません。
激痛が一日続いています。診察のため車に乗っても振動で痛み、車椅子にも乗っていられません。他の被害者の方にも何組も一度にお会いしましたが、うちは軽いことがよくわかりました。中学生、高校生の方がほとんどでしたが、みんな不随意運動が出ていて、酷い人は話している途中から気を失っていました。自分から歩けずに子供より小さな母やお父さんがおんぶしていました。まるで化学兵器をまかれた戦場のようでした。中には「お母さんってなんだっけ」いう子もいます。簡単な足し算や漢字やカタカナも書けなくなっている子がいます。たかやん、見ていられないよ。どうしよう…

*みなさん!これが子宮頸癌ワクチンの副反応の実態です。国が奨めようが、誰が奨めようが、絶対に打ってはいけないんです!子宮頸癌を防げるかどうかも分からないものに、子ども達の人生が奪われていい訳がない!違いますか?誰かの金儲けの為に、子ども達の人生を台無しにしていい訳がないんだ!

朝練
久しぶりに朝勉がお休みということで、空の朝練に合わせて起きた。朝から3400m泳ぎ「今日は楽だったよ〜」と空。逞しくなったものだ。午後練もあるというのに・・・朝から空に元気を貰ったのだった。


午前中は塾。0時まで中学生達と勉強した。子ども達と一緒に居ると、あっという間に時間が過ぎて行く・・・

講演会
昨日の水谷修に引き続き、今日は富田富士也の講演会があった。5校合同の家庭教育学級講演会で、僕は司会をすることになっていて・・・「打ち合わせが早くからあるんじゃないの?」という情報が入り、昼ごはんも食べずに中央公民館へ行ったのだったが・・・打ち合わせには十分間に合い、講演も大成功。PTAの役員の仕事もあと少しとなり、ちょっとホッとしたのだった。それにしても二人のパワーは凄い。水谷修は僕より年下。富田富士也は僕と同じ午年。昨日、今日と二人のパワーに圧倒されたのだった。


昨日の水谷修の講演会では、教え子達のことを思いながら泣いた。胸の奥がキュンとなったのだ。そして、今日の富田富士也の講演では、自分の家族のことを思い出して、涙が出てきた。89歳の母に35歳の娘・・二人ともう少し話をしなくては・・・そう思ったのだった。

101弾!
沖縄への視察も終わり、101弾の製作に取り掛かっている。講演会から戻ったのが4時半。直ぐに空をプールに送り、買い物をして・・・パソコンに向った訳で・・・あっという間に4分の3が終わり、あと少し・・・

プラネタリウム
スイミングの帰りにツタヤへ行った。空がどうしても欲しいといったのが、プラネタリウム。大人の科学という本の付録がプラネタリウムだった訳で・・・今日の夜は久々の自由時間。そのプラネタリウム作りに二人で3時間近くかけたのだった。

19年前
僕はホームレスでした。あの阪神淡路大震災があった日、僕は六中の池ノ前に停めたパジェロの中にいました。あの日の朝は今日よりも、もっともっと寒い。マイナス五度という気温でした。僕は小学校6年生の息子と二人、車の中であの震災の揺れを感じたのです。本当の話ですよ。
ホームレスというと、絶望的な感じがするかも知れませんが、六中の教師でしたから、仕事はちゃんとありました。ただ、住む家がなかったんです。それが今から19年前の僕の姿です。人生不思議ですね。そんな僕が今、君達の前にいるのですから。
もし、学校を辞めていなかったら・・僕は君達にここで会うことはありませんでした。勿
論、新座市内の中学校で会う可能性は0ではありませんが・・・。僕はそうやって会うよりも、今みたいに会えてよかった。そう思っています。(昨日の塾日記から)

今日の写真1
辺野古の海に掲げられていたメッセージです。沖縄の人の思いと意地が見えます。このフェンスの向こうには入れません。

今日の写真2
これがひめゆりの塔です。この下に洞窟があり、そこが彼女達の働く沖縄陸軍病院第三外科があった場所でした。
「1945年3月24日、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒及び職員総計240名(教師18名・生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した。しかしその後激しい戦闘が続き、日本軍の防衛戦が前田高地附近に撤退した4月24日頃には山容が変わるほどの激しい砲撃にさらされるようになったため、5月25日には陸軍病院そのものが回復の見込みのない負傷兵・学徒を置き去りにして南部の伊原・山城周辺に撤退し、分散して地下壕に潜んだ。この際患者を収容する壕が確保できなかったために負傷兵は原隊への復帰が命じられ、病院としての機能は失われていたという。
戦局が絶望的になると、6月18日、学徒隊は解散を命じられる(看護婦採用試験合格者を除く)。しかし、既に沖縄のほぼ全域をアメリカ軍が支配しており、また周辺も既に激しい砲撃にさらされていたため、地下壕から出ることはほとんど死を意味した。
最も被害を受けたのは第三外科壕の学徒隊である。第三外科壕は19日朝、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡した。さらに壕の生存者8名のうち教師1名(玉代勢秀文)と生徒2名(仲田ヨシ、又吉キヨ)は壕脱出後に銃撃され死亡したとみられる。従って、第三外科壕にいた人々のうち沖縄戦終結まで生き残ったのはわずかに5名(ひめゆり学徒隊の生徒が4名、軍医が1名)のみである。」
*当時の優秀な女学生達が命を落とした場所なのです。6月18日の解散命令が彼女達の命を左右したのです。無能なリーダーによって殺された女学生達がたくさんいたのです。

今日の写真3
平和祈念公園から見えた景色です。南に逃げる事しかできなかった沖縄の人達はこの地に追い込まれ、そして断崖から身を投げる人もたくさんいました。旧日本軍の兵士に殺された民間人もたくさんいたのですから、堪りません。戦争は人間を狂わせるものなのです。

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