1月5日 (月)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第5弾!   2015.1.5(月) たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第5弾!   2015.1.5(月) たかやん

川掃除のお知らせ
今年最初の川掃除は1月25日(日)の予定です。9時に栗原1丁目公園に集合します。トング・ゴミ袋・軍手はこちらで用意します。持ち物は「黒目川を綺麗にしたい」という心だけです。夕方5時から新年会があります。新年会だけの参加も大歓迎です。川の中にはレギュラーメンバーが入りますが、胴長もありますので安心してお越しください。たかやん

絶対に打ってはいけない!388
子宮頸がんワクチンは打ってはいけません。アベノミクスと同じです。効くなんて嘘なのです。インチキなんです。だから絶対にいけません。毒物を子どもたちの血液中に入れることなどあってはいけないのです。他のワクチンにも注意が必要です。全てのワクチンには毒物(水銀やアルミニウム)が含まれています。動物の血液や臓器から作られるのでアレルギー反応が出て当たり前です。インフルエンザワクチンも例外ではありません。インフルエンザはいくらでも取り返しが効きますが、そのワクチンによるダメージは取り返しがつきません。ワクチンではなく、あいうべー体操をして自分の免疫力を高めてインフルエンザに備えましょう。

喜弘
久しぶりに二人で飲んだ。喜弘は和光南養護の先生。「うんちが手につくのも慣れました」という。『喜弘、英会話はな。conversationじゃダメなんだぜ。communicationが大切なんだ。岸部先生に教わったんだ』と俺。「そうっすね。うちの子の中には言葉が無い子がいますから、もう体でcommunicationしないと駄目ですね」と喜弘。
『養護の先生ってさ、お前もそうだけど、すっごく温かいよね。清瀬の小児病院でも思ったんだけどさ、雰囲気がさ、涙がでるくらい温かい、そう思うんだ。』「そうすか?ただあれですね。養護の人は子どもたちの目線で話そうとしますね。決してこういう腕組みをしたりしない。」『う〜ん、それ教師の得意のポーズだ。』「まーずないですね」『そうだな。よくないな、あれは・・・今の中学に一番必要なものがお前らの所にはある。俺はそう思うんだ。』「はあ」
『言葉って大事だよな、俺この頃すっごくそう思う。文章ってさ、書いてから訂正ができるじゃない。だけど言葉は取り消せない・・・今の中学には優しい言葉が少ない、そう思うんだ。』「う〜ん、そうかも知れない」『俺も含めてさ、汚い言葉が多すぎるんだよね。それが子どもたちを傷つけている・・・』
「俺、タカヤンが 先生があの卒業式の日に生徒たちに“ありがとう!”って言ったじゃないすか、あれが、もの凄く心に残ってるんですよ」『ああ、あの夜の卒業式・・・う〜ん、だってさ、俺たちって教えてるけどさ・・子どもたちから学んでることの方がたっくさんあるじゃない。だから、あれ本音なんだよね。本音でありがとう!って言ったんだよね・・・教えさせてくれて、一緒に生きてくれてありがとう・・・かな。』「なるほど・・・」
午前2時 二人の語りは止まることを知らず・・・喜弘の持ってきた剣菱は底が見えはじめ・・・
『一生懸命』幻の学級通信 第223弾!1994年3月8日3年4組から・・・
*喜弘は嵒さんの弟子。そして、僕の弟子もある。五中には熱い男も温かい男もいた訳で・・・また喜弘と語りたいねえ・・・。

0点なんかじゃない!
「4組よかったよ」「声は出てた」「みんないい顔してた」“みんないい顔してた”
その言葉を聞いて、担任は凄く嬉しかったです。音楽科の採点は0点だったらしいけど、そんなの気にしなくていい。3曲入れた歌がルール違反なら去年の“三つの汽車の歌”も0点のはずなんだから・・・。兎に角練習はしたんだし、過去10回以上優勝している担任が聴いても何か“味”があったと思うよ。4組の合唱は0点なんかじゃない!担任が保証するよ。音楽科に歌わされる歌なんか歌いたくもない。歌っていうのは自分で歌いたくて歌うものじゃないといけないんだ。だから、4組の歌は0点なんかじゃないんだ。みんなよく頑張ったよ。お疲れ様!
『一生懸命』幻の学級通信 第142弾!1993年11月12日3年4組から・・・
*忘れているんだなあ・・音楽の先生とやりあったんだろうなあ・・・そして優勝する可能性がないのに、みんなで3曲メドレーで自由曲を歌ったのだろう。“三つの汽車の歌”で優勝した経験もあったからなあ・・・それでカチンときたのかも知れない。担任としてどうだったんだろうなあ・・・まあ、優勝したってペケだって、何年も経ってしまえば「そんなことあったけか?」になるのだろうけれど・・・学級通信は恐ろしい。いいことも悪いことも全部思い出させてくれるから・・・。

今日の写真1
新堀の塾の片づけをしていたら、父さんからの手紙が出てきました。表は朋矢どの、そして裏には四月十日  父より と、書かれていました。手紙は全て候文で5枚・・・朋矢に申し聞かせ候事・・・で始まっています。北海道へ立つ日に直接渡された手紙だと思います。昭和48年のことですから、当時の僕は19歳、父さんは今の僕よりずっと若い50歳でした。

今日の写真2
片付けは怖いです。この手紙の日付は49年の11月5日。当時、札幌にいた彼女からの手紙でした。2年の後半に僕は函館に学部移行しました。水産学部は函館にあったのです。北辰寮というのは水産学部の寮で、3人相部屋で月に3000円くらいで朝晩付きでした。

今日の写真3
当時の学生証です。再発行というところが僕らしいですね。乗船実習・・・特にオホーツク海でのサケ・マス流し刺し網実習のきつさは筆舌に尽くしがたく・・・あの実習があったお蔭で、今の僕があるのだと思います。
*それではみなさん、御機嫌よう!おやすみなさい。たかやん



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