4月1日 (水) 『一生懸命』幻のたかやん日記 第91弾! 2014.4.1(水) たかやん 『一生懸命』幻のたかやん日記 第91弾! 2014.4.1(水) たかやん 川掃除のお知らせ 4月の川掃除は29日(水)の休日に行います。9時に栗原1丁目公園に集合します。トング・ゴミ袋・軍手はこちらで用意します。持ち物は「黒目川を綺麗にしたい」という心だけです。夕方5時から反省会がある予定です。反省会だけの参加も大歓迎です。胴長がありますので、前もって言っていただければ川の中に入ることも可能です。小学生も参加しますので、みんなで楽しくやりましょう!天候が怪しい場合は8時に決定をします。たかやん 絶対に打ってはいけない!469 新座市内で子宮頸がんワクチンを接種した子は今年度3人。これを0にすることが最低の目標だ。全てのワクチンにはアジュバンドが入っていて・・・どれもが子どもたちの脳や神経を壊す可能性がある。アジュバンドの中には水銀やアルミニウムが含まれているのだ。子宮頸がんワクチンだけではない。ワクチンそのものに疑問を持つことが、子どもたちを守る第一歩になるのである。製薬会社は何の補償もしていない・・・・。 【ワクチンを受けないほうが健康的なデータ】 「次世代で最も健康的なのはワクチンを受けていない子供たち ―衝撃的な調査結果 http://t.co/NZLtW2Hr0y http://t.co/Lm3EDGkJuc https://twitter.com/tensenten/status/583480293035614208 4時27分 今日が最後の駅立ちだった。母さんの布団を上げて、新聞を取って・・・豆腐素麺とバナナを食べて保谷駅北口に向かった。 5時50分 駅立ちが始まった。最初は志木駅らしく・・・最初に持って行ってくれた方が中山さん。6時過ぎに小林さんが登場し、中村えいじ君が声を掛けてくれ・・・最後の最後に青木さんに「一生懸命」を渡して、保谷駅での駅立ちが終わったのだった。中山さん、小林さん、青木さんの名前を覚えた空父である。 るーちゃん 後ろから声を掛けてくれたのが五中のテニス部だったるーちゃん。勿論、ハグしてくれて・・・元気な「行ってきまーす!」を聞くことができたのだった。 28年ぶり どうやら彼との試合は28年ぶりだったらしい。当時14歳の彼との最初で最後の試合はタイブレークで僕が勝ったのだそうだ。安孝とは165試合もやったのに・・・たったの1試合しかしてやれなかったのは、彼が3年になるときに僕が六中に行ってしまったからだ。そして、今日の試合は6−3,6−1で僕が2連勝したのだった。これで対戦成績は3勝0敗。28年前と同じように教え子と試合が出来る幸せを噛みしめながら、僕はコートを走り回ったのだった。 芋 17時過ぎ。母さんに夕飯を作りながら、イモ焼酎を飲みはじめた。明日が試合だというのに・・・そして、19時に彼が登場し、気が付くと芋焼酎が空っぽになっていて・・・時間も23時をとっくに過ぎていたのだった。とほほほ。 I am not Abe.4 子どもたちに教えよう。Be動詞は強い動詞だから、後ろにnotを付ければ否定文になるのだと・・・。報道ステーションで見せた、古賀茂明さんのI am not Abe.には感動した。そしてこう続けたいものだ。I am not Abe. We are Japanese. We have a great Constitution. We have the Article 9 of the Japanese Constitution. We hate War. We love Peace. We are not Abe. と。 笑顔 4月の初日は5キロ。まあゆっくりと走るとしよう。大事なのは楽しむことだから・・・笑顔で走って、笑顔でテニスして、笑顔で勉強して、笑顔で教えて、笑顔でご飯を食べて・・・いつでも笑顔で人と接することができたらいいなあ・・・。 今日の写真1 たかやんの応援団のシールを貼ってくれる方を募集しています。玄関やポストにこのシールを貼ってもいいという方、連絡をお待ちしています。このシールを貼っても「団扇」や「ワイン」は届きません。何も届きませんが、「一生懸命」だけは届くようにしたいと思っています。日本中どこの方でもOKです。北海道でも沖縄でも送ります! *このシールを貼ってくれた全ての方たちに感謝、感謝です。 今日の写真2 今朝の保谷駅北口です。何度見ても小さな幟です。目立たないなんてものじゃあありません。僕は名前も言いませんし、ジャージで立っている訳で・・・「議会報告」を配っているようには見えない訳で・・・それでもこの小さな幟に気が付いて、僕のことを応援してくれる人がいるのですから、本当に幸せなことです。 今日の写真3 28年ぶりにシングルスを戦った正男です。五中時代に1試合やったらしいんですが、僕は覚えていませんでした。左側の一久は正男の2つ下で、六中時代に僕と150試合やりました。六中の子達は一久を筆頭に、100試合以上僕と戦った子達が10人以上います。僕が子どもたちのテニスに燃えに燃えていた時代でした。 |