4月2日 (土)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第93弾!  2016年4月2日(土) たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第93弾!  2016年4月2日(土) たかやん

川掃除のお知らせ
4月の川掃除は24日(日)の予定です。持ち物は黒目川を綺麗にしたいという心だけです。軍手、トング、ゴミ袋はこちらで用紙します。9時に栗原1丁目公園に集合です。そこから馬喰橋に向かって遊歩道を掃除し、馬喰橋で川の中に入ります。入らないメンバーは土手を掃除しながら、栗原1丁目公園に戻り、川の中のゴミも一緒に一旦捨てます。そこから、更に神宝大橋まで掃除し、そこで休憩し、最後にリヤカーを引きながら、全員で公園まで戻ります。解散は11時ごろの予定です。途中からの参加は勿論、途中までの参加も夕方の反省会だけの参加も大歓迎です!

散歩
6時過ぎ、久しぶりに母さんと二人で散歩に行った。黒目川の桜を見に行ったのだ。「満開ね」と母さん。でも、久しぶりに行ったので「膝が痛い・・・」とちょっぴり無理をしてしまった91歳の母さん。何でもそうだけど、ゆっくりが大切だ。

幸せ
母さんを見ていたら、自分の足で歩くことがいかに幸せなことか・・・感じることができた。しかも、僕はテニスができるのだ。この年になって、大好きなテニスが出来て・・・試合にも出られるのだ。こんな幸せなことはないのである。

テニス
久しぶりに長久保先生との朝練は実に濃い〜内容だった。庭テニスのお蔭で、本物のコートで練習をしていない割には、いい感じのテニスができた。忙しい僕には、庭テニスが合っているのかも知れない。庭テニスをして、長久保先生と時々練習をして・・・時々試合に出る・・・そういうリズムが一番あっているのかも知れない。

笑顔
長久保先生と練習していて・・・亜細亜大学の堀内先生(実はお友達)の言葉を教えて貰ったら、試合で緊張することが多い自分がバカらしく見えてみた。テニスができることは最高に幸せなことなのだ。笑顔でテニスをやろう。そして、次のポイントが決まる前にちょっとだけ前のポイントのことを考えることにしよう。

一番堂
和光から真っ直ぐ亮のところに向かって、二人で吉祥寺に向かった。そう、一番堂へ行ったのだ。敦嗣先生はいなかったのだが・・・敦嗣先生の代わりに幸野先生が僕の体を診てくれた・・・適度なマッサージで370円。いやあ、幸せなひと時だった。

絶対に打ってはいけない!809      

私は、現在18歳で双子の姉妹の妹です。8か月で小さく生まれ、分娩時低酸素状態に置かれたため、脳性麻痺が残り、身体障がい者等級1級(脳性麻痺による四肢体幹機能障害)の手帳を受けました。
 でも、足が不自由なので車椅子であることと、右手が不自由なだけで、あとは通常学級で皆と同じ生活を送ることができました。
 小学校5年のとき、学校給食に出た玉蒟蒻が喉に詰まり、一時窒息状態となり、それからてんかん発作を起こすようになりましたが、HPVワクチン接種前までは1年に1度くらい、それも数分で終わる軽いものでした。
それ以外には、大きな病気はなく、健康に育ちました。 
双子の姉と同じ保育園、小学校、中学校に通い、その後は県立の普通高校を受験するつもりでした。
 中学2年のとき、市から子宮頸がんワクチンの接種の案内がきました。助成がある間は無料、その後は双子なので2人で10万円となり、大きな違いでしたので、地元の病院で3回サーバリックスの接種を受けました。
 ワクチンを打つ際、医師や看護師の口からは、ワクチンについての説明はなく、注射を受ける前に唯一医師から言われたのは、注射を打つ腕を「(左右)どっちにする?」というだけでした。
 2回目のワクチン接種のあと、頭痛がするようになりましたが、原因はわからず、そのまま3回目の接種を受け、その21日後から私の生活は激変しました。
 姉の侑奈が突然、高熱を出し、親が看病しているその横で私が急に意識を失い、てんかん発作のような状態になりました。 
数回経験していた、それまでの発作とは全く症状が違っていて、19分も続き、座薬を入れても効かず、救急車で運ばれました。
 発作の後、数日後には、めまいが起き、そのまた数日後には手足の自由が利かないように感じ、手が勝手にぴくぴくし、勝手に上がる、という現象が起きました。
 今まで経験したことが無いので、かかりつけ医である医師の元に行き、相談しました。「原因が分からないのでてんかんではないか。」と言われ、以前から飲んでいた、てんかんの薬の増量が指示されました。
 ですが、それから二か月すると、経験したことのない長い発作が30分も続き、またそれから一か月半後には、手の関節が痛くなり、その二日後には両足の膝の上が痛みだしました。
その後は、手足、頭、目玉、耳、お腹、あらゆるところがどんどん痛くなり、その痛みは大きな力でねじって引きちぎられるような痛みで、朝、目覚めたくない、生きていたくない、死んだ方がいいと思うくらいの辛さでした。
 痛み止めは毎日必ず飲んでいましたが、全く効きませんでした。
激痛以外に最も辛かったのは、自分の力では便が出なくなり1年以上苦しんだことです。この他に不随意運動、痒み、記憶障害、生理不順、パン一つも持てないくらいの異常なダルさなどが次々起こるようになり、酷さもどんどん増していきました。
 高校は普通高校をあきらめ、特別支援学校の高等部に入り、この3月に何とか卒業はできましたが、中学から目指していた心理学の大学の受験は出来ませんでした。
 高熱が出た双子の姉には、その後、ワクチン接種後に狭心症のような症状が出て、一時ニトロをポケットに入れて高校に行くようにもなり、同じ部屋で寝ているのですが、あんまり静かに寝ていると、心臓が止まっていないか不安になった時期もありました。
また去年は、姉の足の裏に浮腫ができ、痛いながらも学校に行っていました。

 私は今日ここにいても、けっしてよくなった訳ではありません。
痛くてこの三年は学校に行くことが精一杯で、家でも学校でも、沢山の涙を流しました。沢山の症状がその時々で起き、貰った薬を飲めば全く効かないか、幻覚という副作用と新たに闘うことになったりしました。
 厚生労働省は私たちの為にこの病院に行ってくださいと決めてくれました。だけど、病院に行っても私を治す方法を知らなく、話を聞いてくれるだけです。

 HPVワクチンは私が健康だったときに、将来がんに掛らないようにと予防するために打ったのです。
 私はもとから障害がありましたが、それを乗り越えて学校に通い、行きたいところに行き、大学進学の夢もあったのです。 
それなのに、今は痛みで泣き叫び、今までできていたことでも、自分の体なのに、思う通りに動きません。行きたいところに行けません。
 このワクチンを作った製薬会社を許せません。
厚生労働省はなぜ、こんなひどい副反応があるのに承認したんですか?
保健センターもわたし宛に子宮頸がんワクチンを打ちましょうと誘うだけでなく、こんな副反応もありますとなぜチラシに書かなかったのですか?
私も母も国が費用を助成してまでしてすすめたくらいだから安全だと信じていました。
今は医者を信じることが難しいです。
知り合いがワクチンを打ったと聞くと心配になります。
私たちがワクチンを接種するまでに沢山の人がこのワクチンの販売や推進に係っています。
どうか、その人たちは、私たちの身体も私たちの夢もワクチンをすすめる立場にいる自分たちの責任にかかっているんだということを知って下さい。
これからはワクチンの良いことばかりの話だけではなく、マイナスの話もしてもらい、本当に接種した方が良いのかの考えを皆が持てるようにしてほしいと思います。
それが、私が裁判で訴えたいということです。 平成28年3月30日  平原 沙奈

https://www.youtube.com/watch?v=BGjn1ZOnRiY&feature=youtu.be


*この子達は勇気を出して、テレビカメラの前に姿を現した。子宮頸がんワクチンの接種によって狂わされた自分たちの未来を自分の言葉で語ったのだ。気が狂いそうな辛い思いを、自分の言葉で彼女達は訴えたのだ。新聞に本名が掲載され、自分の顔が出る。それでも、二度とこういう間違いが起きて欲しくない。自分にも、他の子達にも起きて欲しくない。そういう思いで国と製薬会社を訴えることにしたのだ。
僕は沙奈をよく知っている。お姉ちゃんの侑奈ちゃんもよく知っている。彼女達がどれだけ泣いてきたのか・・・どれだけの苦しみを味わってきたのか・・・僕は彼女達のお母さんから聞いて知っている。でも、それは彼女達の苦しさのほんの一部なのだ。彼女達のお母さんの明美さんの苦しみのホンの一部なのだ。彼女達の苦痛は計り知れない程だっただろう。そのことを想像しただけで、胸が張り裂けそうになる。製薬会社にも日本という国にも、彼女達の苦しみが想像できる・・・そんな人間がいて欲しい。勿論、彼女達に接種を勧めた新座市にも・・・・。

今日の写真1・2・3
今朝の黒目川です。桜が満開でした。母さんも、久しぶりの散歩と桜で嬉しそうだったのですが・・・この後、膝が痛くなり・・・ちょっと反省です。

この日記を読んだ全ての人が、明日も幸せな一日を過ごせますように・・・たかやん


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