7月28日 (金)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第209弾! 2017年7月28日(金)たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第209弾! 2017年7月28日(金)たかやん

川遊びのお知らせ
来月は8月6日(日)に「第19回わいわい川遊び」があります。多くの方の参加をお待ちしています。詳しくは後ほど・・・
連絡先 たかやん 090-6497-5737

夏休み8日目
久しぶりに黒板にチョークで授業をした。いつもはホワイトボードなので、チョークの匂いが本当に懐かしい。夏休みの補習ということで、3年生の子どもたちの目は真剣である。「勝利のVサイン」「早稲田は危ない」「醤油がしみた法則」「女心の法則」等々を伝授した・・・・子どもたちの「分かった」「できた!」という声が嬉しい。「さあ、次は電気分解の実験やるぞ!」「え?補習なのに実験?」「そりゃあそうだろ、俺は昔から実験命なんだから!」「そうなの?」「でも、実験室、夏休み中は使えないよ」『えーっ!』そこで目が覚めた。俺は理科の教師だったんだった・・・。

0キロ
今日も午前中からマンションの管理組合の仕事、「川遊び」の準備、夏期講習の準備と忙しく・・・走りに行く暇はなく・・・母さんに会いに行く時間もなかった。マジで忙しいぜ!!

夏期講習5日目
子どもに聞こう    師岡カリーマ(東京新聞 本音のコラムから・・)
ラッシュアワーを過ぎた電車のホームは、それでもまだ帰宅客で混雑している。その中に、二人の少年がいた。一緒にスマホのゲームに没頭している。小学6年か中学1年ぐらいだろうか。そこにアジア系の女性が近づいて、自分のスマホ画面を指し、「この駅に行くには、このホームでいいのか」と手振りで尋ねた。なぜ、よりによって、一見頼りなさそうな子どもに聞いたのだろう。少年たちは「はい」と頷き、彼女は「サンキュー」と言ってその場を離れた。
 が、直ぐに二人は、次の急行が例の駅には止まらないことに気づく。「ヤバいじゃん!」慌てて彼女を追いかけるが、さて追いついても言葉が通じない。身振り手振りで懸命に伝えようとする姿が愛おしく、つい私は通訳を申し出てしまった。自力でやり遂げるのを見届けあげるべきだったと今は思う。
 結局は彼女もあまり英語ができず、乗るべき電車の色だけ教えて私は立ち去った。少年たちは、ぴょこんとお辞儀をして、私のお節介に礼を言い、ゲームを再開した。
 仮想空間の外には無関心に見えた少年たちは、助けを求められると、予想外の騎士道精神を発揮し、また直ぐにバーチャル世界へと帰って行った。「頼りなさそうな子ども」を選び、一瞬でも人対人の領域に連れ出してくれた女性に感謝。私もこれからは子どもに聞こう。
*今日の夏期講習はこの文章と助詞の覚え方プリント、化学式と世界一周のトレーニング、英作文トレーニングで4時間の内の1時間くらいを使った・・・あっという間の4時間だった。何をやっても楽しいと思える僕は幸せである。

第三歩 「初めての授業」旧ホームページから
初めての授業の時のことは今でもはっきりと覚えている。自分が子供達にどういうふうに見られるのか、馬鹿にされはしないか、間違ったことを言いはしないか…・そんなことばかり考えていたから、顔が赤くなり、緊張の固まりという状態だった。
僕は元々人前で話す事が苦手だったのだ。だから、授業のプレッシャーというのは相当のものだった。僕の赴任した学校は新設校で二つの中学校が合併してできた中学だった。そして僕は3年生の担任。埼玉は勿論、全国でもたった一人の新卒の3年の担任だった。子供達は二つの学校が合わさっている訳だから、なんだかおかしなムードだし、僕は新米で何が何だか分からなくて、本当に漫画みたいなクラスだったような気がする。要するにクラスを仕切るのは僕ではなくて、子どもだったのである。
最初にクラスに入った時も「席に着いて!」と言っても、子供達は席に着かない。「こら!席に着けっていってんだろ!」と怒ってみても「嫌だね。」と一番のチビのいなっちょに言われる始末。先生の権威なんか全く無かった。それでも番長格の猛彦が「座ろうぜ!」と一言いうと、みんな席に着いてくれた。そんな訳だからネクタイにスーツ姿の僕は子供達のいい標的だった。休み時間になるとネクタイを引っ張られ、首を絞められ、まったくいい遊び道具だった。口でも体力でも子供達に勝てず、本当に情けない担任だった。
二日目から僕はネクタイを外し、ジーパンにセーターで登校した。スリッパを止めて、運動靴にした。子供達と格闘して勝つにはまず格好が大切だったのだ。そんな状態で最初の授業が始まったのである。3年生を4クラスに2年生を1クラス持たされた僕は本当にアップアップの状態だった。45分の授業にわざと5分遅れて行き、5分早目に終わらせて、35分の授業にしてみたり・・・とにかく早く教室から逃げ出したいと思っていた。そして質問が恐かった。「なんで?」「どうしてそうなるんですか?」「この植物の名前は?」恥ずかしいことにその質問のほとんどに僕は答えられなかった。ただごまかす事だけはしなかった。『今、分からないから調べておくよ。』そうやって先輩の先生に聞いたり、本で調べてきたりしていた。要するに子供達に勉強させられていたのだ。 
僕は東京の新宿で育ったせいか、植物には特に弱かった。信州の山の中で育った、大学時代の友達(土田豊)に随分馬鹿にされたものだ。「おめえ、それでよく理科の教師になろうとするだな。」だから野外実習の時はもう必死で子供達と一緒に図鑑とにらめっこして、野草の名前を探した。そうして実習場所の野草の名前だけには滅法強くなったのである。そしてそのことがちょっとした自信になっていった。まるで子供達が自信を持つのと同じように。そう、「先生」とは名ばかりで実は「生徒」だったのだ。教えている積もりが、実は子供達に教わっていたのだ。このことは実は21年間ずっと僕の心の中で続いていた。教師という仕事は実は子供達から教わる事の方が多いのではないか、ということである。そしてそのことは今でも正しいと思っている。僕らは子供達からたくさんのことを学ぶのだ。そして成長するのだ。どんなに授業が上手に出来ても、そのことが分からないとプロの教師にはなれないと僕は思う。
この写真は僕の2回目の卒業生の二人。五中の3年1組の子達が我が家に大学合格の報告に来た時の写真。左は大。右は秀行。この子達は優秀だった。僕はこの子達と2年間同じクラスで生活した。いわゆる持ち上がりのクラスだったのだ。特に3年生になってからは1年間、毎朝「朝勉」をやった。他のクラスよりも1時間早く教室に来て、みんなで勉強するのだ。ところが大は1年間一度も僕に質問しなかった。理科のテストをやらせれば113点も取った。100点満点で113点というのは、僕の模範解答よりも大の解答の方がよかったからだ。秀行は3年生の最初の中間は405点くらいだったのだが、僕が数学の問題集をあげると、それを3回繰り返しあっという間に450点を越えるようになった。僕は毎回子供たちと一緒にテストを受けていたが、定期テストでは遂に大に勝つことはできなかった。大は東大へ進学し、秀行は京大へ進学した。僕はこの子達に一緒に学ぶことの大切さを学んだのだった。
*授業が上手くいかなくて悩んでいる先生達。それでいいのです。問題は上手くいってないのにそれに気がつかない教師です。子どもたちに寝られたら・・終わりですよん。
二人の辞任
稲田大臣の辞任と蓮舫さんの辞任。二人の辞任にガッカリしている自分がいる。稲田大臣には何としても踏ん張って欲しかった。最後まで踏ん張れば、安倍内閣の支持率は更に下がって、自民党に対する支持率も下がりに下がるだろうと思っていたから・・・ま、辞めても下がるだろうけれどさ。
蓮舫さんの辞任は本当にショックだった。彼女の辞任は国民がそうさせたのではない。民進党の内部でそういう力が働いたのだと思うから。女性党首だった蓮舫さんを守れないような集まりが、果たして国民を守れるだろうか・・・民進党に未来はない。。。そんな気がするのは僕だけだろうか・・・ま、自民党がこれ以上居座ったら、日本に未来はないんだけどさ。

絶対に打ってはいけない!子宮頸がんワクチン1336 
打つまでは健康そのものだった女子中高生達の苦痛の叫びが届かないようでは人間ではない!「精神的なものじゃないの?」「摂取により健康被害が生じたとは言えない」という医者や国は、「いじめがあったとは認められない」という、どこかの学校や教育委員会と同じで、被害者に寄り添う共感能力に欠けている。自民党の人相の悪い国会議員達と同じだ。副反応に悩む子達は運動もできなければ、学校にも通えないのだ。恋をして、悩むことも出来ないのだ。それは人生を奪われたのと同じ事。そういう悲劇を繰り返してはならない。戦争も原発事故も同じ。共謀罪や規制改革とやらで人生が台無しになるのは、いつも弱者なのである。国民を守るための「規制」を壊してはならない!

今日の写真1.2
我がマンションの非常ベルの上に、毎年ツバメが巣を作ります。去年も1羽、雛が巣から落ちて・・・マンションの住民の介護の甲斐無く・・・子ツバメは死んでしまいました。今年も同じ場所に親ツバメは巣を作り・・今年も雛が1羽落ちました。そして、雨に濡れて震える子ツバメを空が保護して・・・手で温めていました。そんな空を見て・・・ちょっと嬉しくなりました。その後、子ツバメは巣に戻されて・・・今は巣の中で元気でいます。その子が親ツバメや兄弟ツバメと共に無事に飛び去ってくれることを祈る毎日です。

今日の写真3
塾生たちを送って、家の前に出ると・・・「あーっ!」という大きな声を出しながら、若いお母さんが近づいてきました。六中テニス部の明日香でした。六中テニス部が存続か廃部か、「コーチを選ぶか廃部を選ぶか」と校長に迫られて泣いた世代の子です。当時の六中は僕を排除する為に、彼女達に冷たかったけれど、僕と彼女たちとの絆は何年経ってもしっかりと繋がっています。馬鹿な大人が、力で僕と子どもたちと僕を引き裂こうとしても、心までは引き裂けなかったのです。あの時の涙があるから、今の僕たちがあるのです。

*この日記を読んだ全ての人が幸せな気持ちになれますように!

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