7月9日 (月)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第190弾! 2018年7月9日(月)  たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第190弾! 2018年7月9日(月)  たかやん

駅立ちの予定です
今日のひばりが丘北口での5時〜9時の駅立ちは無事終わりました。明日、10日(火)は、東久留米東口で5時半〜8時半で行います。11日(水)は保谷、12日(木)は新座、13日(金)は志木で行なう予定です。駅立ち仲間のみなさん、よろしくお願いします。

朝勉145
今朝は4時起き。外はもう明るくて・・・いい一日になりそうな予感。駅立ちの初日はこうでなくっちゃ・・・。天気に恵まれるのが一番な訳で・・・。こんな日に駅立ちをしないでいつやるの!そう思ったくらい、いい天気だった訳で・・・・。

5時5分前
ひばりが丘北口に到着。実に涼しい。短パン・半袖ということもあるが、風が気持ちよかった。そして、あっという間に1束無くなる・・・。いい感じである。新しい駅になって立つ場所は変わっても、来る人は同じわけで・・・・。

新規
それでも、初めて手にしてくれる人が20人以上いたことに驚いた。何なんだろう・・・この感じは・・・・営業はやったことがないけれど、ご新規さんを開拓したような気持ちになった。

高校生
ひばりが丘の楽しいところは、多くの高校生たちが「一生懸命」を手にしてくれることである。塾生でない子も笑顔で持って行ってくれるので、本当に幸せな気持ちになる訳で・・・

短パン・半袖
全国を探しても、短パン・半袖で駅立ちをしている人はいないかも知れない。僕の「一生懸命」を持って行ってくれる人は、僕の格好ではなく、僕自身を見てくれているのだ。教え子たちは、僕のスーツ姿は殆ど見たことがないので「たかやんはその格好じゃなきゃ!」そう言ってくれる。メールでこの格好を指摘されて、一度だけネクタイをして立ったことがあるが、やはり教え子達からは「たかやんらしくない」と速攻で駄目だしされた。大事なことは暑くても寒くても駅に立ち続けることで・・・無理のない格好で立つことが大事なのである。

4時間
前半の2時間は実に涼しかった。ところが、後半の2時間は太陽が直接当たって・・・・・暑い、暑い・・・月曜日に4時間やることが良い訳で・・・火曜日からの3時間が短く感じられるのである。清瀬の2時間なんて、あっという間に感じる訳で・・・駅立ちは、一番最初に長ーくやるのがいいねえ。

市役所
駅立ちの後は市役所へ。「第20回わいわい川遊び」の後援申請をしに、秘書広聴課、緑と公園化、教育委員会に書類を提出したのだった。

母さん
「一生懸命」を母さんに届けに行った。母さんはあっちゃんが写った「一生懸命」を見て、凄く喜んでいた。ちゃんと覚えていたのだ。眼鏡なしで「一生懸命」を読む母さんに感動した息子であった。

神宮司チョップ2
昨日の神さんの話の中ででた神宮司チョップは実は僕も喰らったことがある。あれは五中7期生が1年生の時だったか・・・僕が教卓に座って、子ども達と話をしていると・・・突然チョップが飛んできて・・・「そこは座るところじゃない!!」と、神さんに怒られたのである。確かに机・・・しかも教卓だから、座るところじゃあない訳で・・・僕は神さんの前では二度と教卓に座るまい・・・と決めたのであった。教師が教師を殴るのは宮田先生だけではなかったのである。


教師を目指す人へのメッセージ   第105弾!  記憶に残る先生5 

中村敞一郎
この人と初めて会ったのは、旧市役所8階の教育委員会でした。その時、敞一郎先生は教育次長という役職で、僕は彼と向かい合っての面接になったのです。その時の詳しい内容は忘れてしまいましたが、随分と教育に熱い人だと思いました。教育委員会にもそういう人がいるんだなあ・・・大学を卒業したばかりの僕はそう思った記憶があります。
 驚いたのは4月1日、準備出勤で五中の職員室に入ると、職員室の一番奥に敞一郎先生が座っていました。(あの熱い人が校長なの!!)正直、嬉しかったです。校長がよければ何かいいことが起こりそうで・・・。
 とここが、学年が発表されて、僕はまさかの3年生に。新設校で3年生になったのは、新任では僕だけでした。1年生に決まってる・・・そう思っていた僕の予想はいきなり裏切られたのでした。そして、次の日、まさか、まさかの担任になった話は昨日書きました。それを最終決定したのは敞一郎先生だったのです。後でその時のことを聞くと、「お前ならやれると思った」ですって・・・。まあ、いい加減なもんです。日本中、どこを探したって、そんな中学校絶対にないでしょうが・・・。
その敞一郎先生に一度だけお願いしたことがあります。「硬式テニスをやらせてください」と言ったのです。新設校だから、このチャンスを逃したら、まずできないだろう。そう思ったのです。校長の返事は「硬式をつくるのはいいが、軟式テニスをやってきた子ども達はどうするんだ?」というものでした。若い僕はその言葉で硬式テニス部を断念するしかありませんでした。今軟式テニスをやっている子を悲しませてはいけない。そう思ったのです。
そして、校長は子ども達のことを本当に考えている人なんだな・・・そう思いました。
最初の1年目、道徳の時間に校長室の前の校庭でサッカーをやっても、敞一郎校長は一言も怒りませんでした。小さい頃から不道徳の塊だった僕には「道徳」の授業ができなかったのかも知れません。道徳の時間は「席替え」をしたり、遊んだりしてたのです。それでも一度も怒られませんでした。
そんな校長でしたが、一度だけ僕の髪の毛について校長室でこぼしたことがあります。「これで、髪の毛を切ったら・・・お前は本当にいい男なんだがなあ・・」というのです。
普通、教員採用試験があれば、髪の毛を切るのが当時でも当たり前でした。でも、僕は切らなかったのです。金八より前に「長髪」の教師だったのです。僕は敞一郎先生に「麻雀で僕に勝ったら、切ってもいいですよ」と言いました。すると、校長は直ぐに「やるぞ!お前の家でやる」と言うのです。結果は敞一郎校長がぼろ負け。でも、わざわざ我が家に来てくれたので、僕は髪を切りました。23歳の頃の話です。その時の校長の嬉しそうな顔を今でも覚えています。
敞一郎先生の凄いところは、新任の僕らの全ての家に「家庭訪問」に来ていたことです。「飲みに行くぞ」「麻雀するぞ」「奥さんを見に行くぞ」色んな理由をつけて、気がつけば全員の家に行っていた・・・そんな校長でした。そして、どんなにべろべろに酔っても、次の日の朝はシャキっとしていた格好いい校長でした。
敞一郎校長は僕に「五中名物を作れ」と言いました。「まずは体育祭だ」というのです。僕は最初の年から、五中「体育祭」の担当になりました。そして、石神井高校の体育祭を導入して、応援団を結成したのです。しかも、最初の色は「白」でした。「たかやんは赤」というイメージがあると思いますが、僕は五中の10年間で2度「白団」の担当になったことがあります。残りの8年は全て赤団でした。今から考えると、酷い校長です。新任に3年生を担任させ、2学年を教えさせ。「テニス部で優勝しろ」と無理をいい、「五中の体育祭」まで任せたのですから・・・。そして、僕を燃やしておきながら、1年で校長を辞め、「教育長」になるというのですからふざけすぎです。「校長を辞める」と分かった日、僕は校長室に怒鳴り込みました。
「なんで約束を守らないだ」「あんたは1年で逃げるのか」「残された俺たちはどうするんだ」「ふざけるな!」そう言って、泣きながら怒ったのです。すると、敞一郎はこう言いました。「すまん、お前の言いたいことは分かる。俺だって、もう少し現場にいたい。五中に居たい。でも、どうしようもないんだ。分かってくれ。」「わからねえよ」「後はお前たちに任せた」「ふざけるな!」「お前たちなら必ず素晴らしい五中を作れる」「・・・・」「俺が夢見た学校をな・・」
そう言って、中村敞一郎は五中を去って行きました。僕は「教育長」になった敞一郎を「教育長」と呼んだことは一度もありません。いつも「校長」と呼んでいたのです。ずっと呼び捨てです。「校長」「高邑」「校長」「高邑、お前いつまでそう呼ぶ積りだ?」「ずっとですよ」
校長はそれからずっと僕のことを気にかけてくれていました。テニスで頑張ると「よくやった」何もなくても「しっかりやれよ」そして会うたびに「俺が教育長でいる間に、管理職試験を受けろ」そう言ってました。「受けませんよ。」「そんなこと言うな。」「嫌です」「受けろって・・・」「嫌だね」「お前なあ・・・」神宮司久子が母親なら、中村敞一郎は父親でした。僕をずっと愛し、そして鍛えてくれた・・・それが中村敞一郎でした。いくらなんでも鍛えすぎですけどね・・・・。
*もし、中村敞一郎が今、教育長で僕と議会で激突していたら・・・やっぱり議場でも「校長!」と呼んでいるような気がします。一般質問が始まる前に「高邑、ちょっと来い!いいか、変な質問するんじゃねえぞ」と呼びつけられるでしょう。「校長、それは無理って相談ですよ。校長は校長で筋を通してください。俺は俺の筋を通します。でも、どうしても無理な時は、目で教えてください。そうしたら、やめてあげますよ」「わかった」なんて会話をするのではないでしょうか。こんな日記を書くと、雲の上の敞一郎先生が笑っているような気がします。敞一郎の隣には誰がいるのでしょうね。神さん、嵒、茂先生、幸子先生もいたりして・・・

西日本豪雨
酷い・・・安倍晋三と同じにならないように、自分ができることをしよう。行くことはできないから、やれることは限られているが・・・・。

打ってはいけない!2288
どんなワクチンにもリスクがあります。製薬会社はワクチンで儲けたい。儲けたいから宣伝をします。「安全で絶対に効きます」と宣伝します。税金を使って「ただということにして」売れたら一番儲かる・・・製薬会社は国会議員に接触します。「安全」で「子宮頸がん」を防げる唯一のワクチンである・・・国会議員達は、それを信じていてもいなくても、ワクチンを「無料」で打てる仕組みを作ります。そうやって、女子中高生が「無料」でワクチンを接種させられたのです。
「子宮頸がんワクチンは唯一がんを予防できるワクチン」ではありません。確かに製薬会社はそう言って売り込みました。しかし、ワクチンの効用書にはそうは書いてないし、それを証明した人は誰もいないのです。一方でワクチンの副反応の被害は甚大です。痛みのある人生を生きるのは辛いものです。
打つまでは健康そのものだった女の子達の苦痛の叫びが届かないようでは人間ではありません!「精神的なものじゃないの?」「摂取により健康被害が生じたとは言えない」という医者や国は、「いじめがあったとは認められない」という、どこかの学校や教育委員会と同じで、被害者に寄り添う共感能力に欠けています。副反応に悩む子達は運動もできなければ、学校にも通えないのです。恋をして、悩むことも出来ないのです。それは人生を奪われたのと同じ事です。グローバリスト達から国民を守るための「安全第一」という「規制」を壊してはならないのです!岩盤規制が今の日本には必要です。子どもたちを守る規制がしっかりしていれば、この悲劇は起こらなかったのです・・。当時、中高生だった女の子達が二十歳を過ぎた女性になりました。一番、楽しい筈の時間が痛みの、その苦しみの時間に代わってしまったのです。その時間はもう戻りません。彼女たちに最大限の償いを・・・それが僕達大人の義務です。そして、同じ過ちを繰り返さない仕組みを作ることが僕たちの義務なのです。「規制緩和」なんか糞くらえ!です。

今日の写真1
僕の駅立ちの師匠、吉田よしのりです。師匠なのに呼び捨てにするのは、それだけ凄い人だからです。長嶋茂雄にさんを付けないのと同じです。僕はよしのりの駅立ちを見て、駅おし立ちのなんたるかを教えて貰いました。今でも尊敬する師匠です。

今日の写真2
五中4期生の泰光です。剣道部のレギュラーですから、嵒の弟子です。3年3組でしたから、体育の授業のサッカーでは常に敵味方で戦ってました。3組はサッカー部が多く、しかも泰光のような運動神経のいい子が多く、1組は担任が入ってもなかなか勝てませんでした。いつも、この笑顔で僕を応援してくれています。幸せです。

今日の写真3
五中4期生の英子です。2年3年は8組だったので、理科を教えらなかったのですが、1年生の時に教えたのでしっかり覚えています。4期生は初めて3年間持ち上がった子達だったので、知らない子は1人もいません。英子も最高の笑顔でいつも僕を元気にしてくれます。僕は本当に幸せです。

*この日記を読んだ全ての人が幸せな気持ちになりますように・・・




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