8月12日 (日)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第224弾! 2018年8月12日(日)  たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第224弾! 2018年8月12日(日)  たかやん

朝勉180
今朝の朝勉は2時から・・・え?そう昨夜、寝たのが早すぎて・・・2時には目が覚めてしまったのです。それから、みんなを起こさないように気をつけて・・・音を忍ばせ、なるべく明かりが漏れないようにして、気づかれないように机に向かって・・・参考書を読んだり、問題集を解いたり、パソコンにイヤホンを付けてYouTubeを使って勉強して・・・5時前、また、誰にも気づかれないように布団に潜り込んだのでした。おほほほほ。

お墓参り
空ママの実家に来ている。所沢の小中学校にはエアコンが入ってないという話が話題になった。「市長もそうだし、反対する人がいるのよ」とお母さん。この暑さに「耐えながら勉強している」所沢の子ども達と先生達が可哀そうでならない。新座の子ども達と先生達は幸せである。所沢の子達に学力で負ける訳にはいかないか・・・。

通告とナンプレ
所沢でやったことは9月議会の「通告」の準備と「ナンプレ」。ナンプレをやるのは初めてのことで、みんなが「出来ない!」という問題に少し燃えてみたのだった。

教師を目指す人へのメッセージ   第138弾!   記憶に残る先生11

川島勝治。昭和52年4月、僕が五中に行ったとき、埼玉大学出身の先輩が三人いたことは昨日書きました。甲神嵒、川島勝治、木下保則の三人です。僕ら新任はみなこの3人に憧れていたことも書きました。
川島勝治の凄いところは・・・同じ学年を経験するまで分かりませんでした。それまでは酔うと面白いことをして笑える英語の先輩・・・くらいにしか思っていなかったのです。初めて川島勝治のクラスの雰囲気を知ったのは、五中3期生の2年5組の林間学校に僕が補助で参加した時です。いいクラスでした。僕は5組の子ども達と「林間学校」を思い切り楽しみました。その学年には1組がキノッピーで2組が松江さんで・・・5組が川島勝治という若狭学年でした。五中で初めて持ち上がった学年だったのですが・・・部活が強く、学力も県でトップでした。僕の学年の4期生は部活も学力もこの3期生が目標になりました。
 その川島勝治と同じ学年になったのは五中4期生が3年生になった時でした。3期生に倣って、4期生もクラスを持ちあがりにしようということになったのですが、4組だけが担任がいなかったのです。持ち上がりだけど、担任がいない・・・そんなクラスの担任に立候補したのが、川島勝治とカサジ(笠原進)の二人でした。どちらも、「担任」に拘る先輩達で・・・話し合いでは決まらず、彼らは廊下でジャンケンをして・・・川島勝治が勝って、4組を担任することになりました。僕は3年1組の担任になり、川島勝治は3年4組の担任になりました。1組たかやん、2組宮下博子、3組小山亨、4組川島勝治、5組本多誠、6組千田修子、7組クリッタ、8組光、9組シモンズ・・・という布陣でした。
 2年生の時、我が2年1組は当時の学年の戦いにほぼ完ぺきに勝利していました。陸上競技大会、水泳大会、縄跳び大会、文化祭、体育祭、合唱コンクール、球技大会・・・殆ど負け知らずだったのです。一方、2年4組は何をやっても負け続け・・・学年で1番弱いクラスでした。その4組が川島勝治になった途端・・・変わる訳はありませんね。しかし、2学期に入ると、変わったのです。川島勝治は僕のように何でも生徒と一緒になってやる教師ではありませんでした。1年間、一緒にいましたが、川島勝治が生徒と一緒に動いているのを見た記憶がありません。僕が見たのは、帰りの「長い学活」の説教です。兎に角、長いのです。何を話していたのかは子ども達に聞かないとよく分かりませんが・・・そんなクラスに負ける訳がない・・・しかも、昨年は最下位・・・1組は4組だけには負けないだろう・・・そう思っていたのです。ところが、3年の後半戦、1組はことごとく4組に負けたのです。体育祭の前に父さんの葬式があり、担任がいなかった・・・というハンデがあったとしても、負ける訳がない・・・そう思っていました。しかし、負けたのです。その後の合唱コンクールでも負けて・・・1組は4組に負けて終わりました。
僕と川島勝治は4期生を卒業させ、1年生の担任になりました。五中の7期生では僕は1年2組、川島勝治は1年3組の担任でした。僕は1年2組の廊下に「憎き川島勝治」という詩を張り出しました。信じられますか?隣のクラスの担任の詩を廊下に張り出したのです。
その内容は「何故、川島勝治は子ども達と一緒にやらないのに、クラスの子ども達を燃えさせられるのだ」「何故、川島勝治はお話だけで、子ども達の心を奮い立たせることができるんだ」「何故、川島勝治は・・・・」9歳上の先輩を称える詩を僕は廊下に張り出したのです。そして、「絶対に負けないぞ!」と締めくくりました。そして、1年2組は「憎き川島勝治」という詩に応えて、年間で全ての競技で優勝(7戦全勝)したのです。
 その後、川島勝治は学校教育部長になり、校長になりました。どこの学校でも「最高の校長」だったと聞いて、僕はとっても嬉しくなりました。甲神嵒、木下保則、そして川島勝治。僕らが憧れた埼大の先輩達は、僕達に強烈なインパクトを残してくれました。そして、新座の教育にも・・・・。
川島勝治が凄いと思ったことがもう一つ。二人で隣の席に座っていた時のお話です。英語の先生なのに、「今、英会話の学校に行ってるんだ」と言うのです。川島勝治の英語の授業はレベルが高かったのにです。「もっと、やらないと納得できないんだ」と学校が終わった後に学校に通っていました。いくつになっても、「勉強する」先輩の姿は眩しかったのを覚えています。兎に角、嵒やキノッピーとは違った意味で「格好いい先生」でした。
*そう言えば、石神井時代にクラスで1番だった松浦君は現役で埼大に行きました。慶応の医学部や早稲田行った仲間もいましたが、「埼大」は凄い!そういうイメージがあります。僕はクラスで最下位チームにいましたので、どの大学もみんな凄く見えたのですが・・・・

打ってはいけない!2322
どんなワクチンにもリスクがあります。製薬会社はワクチンで儲けたい。儲けたいから宣伝をします。「安全で絶対に効きます」と宣伝します。税金を使って「ただということにして」売れたら一番儲かる・・・製薬会社は国会議員に接触します。「安全」で「子宮頸がん」を防げる唯一のワクチンである・・・至れり尽くせりのロビー活動に負けた国会議員達は、国民の為ではなく、それを信じていてもいなくても、税金を使って、ワクチンを「無料」で打てる仕組みを作ります。そうやって、母親達が騙され、女子中高生達が「無料」でワクチンを接種させられたのです。
「子宮頸がんワクチンは唯一がんを予防できるワクチン」ではありません。確かに製薬会社はそう言って売り込みました。しかし、ワクチンの効用書にはそうは書いてないし、それを証明した人は誰もいないのです。一方でワクチンの副反応の被害は甚大です。痛みのある人生を生きるのは辛いものです。
打つまでは健康そのものだった女の子達の苦痛の叫びが届かないようでは人間ではありません!「精神的なものじゃないの?」「摂取により健康被害が生じたとは言えない」という医者や国は、「いじめがあったとは認められない」という、どこかの学校や教育委員会と同じで、被害者に寄り添う共感能力に欠けています。副反応に悩む子達は運動もできなければ、学校にも通えないのです。恋をして、悩むことも出来ないのです。それは人生を奪われたのと同じ事です。グローバリスト達から国民を守るための「安全第一」という「規制」を壊してはならないのです!岩盤規制が今の日本には必要です。子どもたちを守る規制がしっかりしていれば、この悲劇は起こらなかったのです・・。当時、中高生だった女の子達が二十歳を過ぎた女性になりました。一番、楽しい筈の時間が痛みの、その苦しみの時間に代わってしまったのです。その時間はもう戻りません。彼女たちに最大限の償いを・・・それが僕達大人の義務です。そして、同じ過ちを繰り返さない仕組みを作ることが僕たちの義務なのです。「規制緩和」なんか糞くらえ!です。

今日の写真1.2.3
東久留米の新井さんからお借りしたタイヤボートは子ども達に大人気でしたが、隙間時間にはこうやって大人も楽しんでいました。毎年、必ず大人も乗ります。今年は文夫でした。

*この日記を読んだ全ての人が幸せな気持ちになりますように・・・

20180812-1.jpg 20180812-2.jpg 20180812-3.jpg