12月6日 (金)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第340弾!  2019年12月6日(金)  たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第340弾!  2019年12月6日(金)  たかやん

たかやんの応援団の皆様へ
いつも応援ありがとうございます。たかやんの応援団では、来年2020年2月9日(日)告示、2月16日(日)投票の市議会議員選挙で9日(日)の朝、ポスターを張ってくれる方、9日(日)〜15日(土)の間、選挙カーを運転してくれる方、ウグイス(カラス)、電話かけなど選挙をお手伝いしてくれる方を募集しています。また、お知り合いの方を紹介して頂ける方も大歓迎です。連絡をお待ちしています。
たかやんの応援団団長、一瀬猛彦(五中1期生)090−6497−5737(たかやん)

眠い
5時半起床。昨夜の「真夜中塾」の影響か、少し眠い。でも、空が頑張っているので、気分は良好である。今朝の朝勉は基礎化学、数学A、そして英語を少し。空は英語が高校でもトップをいっているようなので、こっちも頑張らないとねえ・・・流石に英語で抜かれたくはない訳で・・・・

写真撮影
今朝も空はいつもより1本早い電車に乗って学校に行った。水泳の大会が近いし、期末テストも近いので、遅くまで練習しているし、遅くまで勉強しているし、本当に大変だなと思う。それでも元気に階段を昇っていく空の後ろ姿は空父には逞しく見えたのだった。
東久留米東口で空を見送ってから、朝ごはんを食べて直ぐに市役所に向かった。今朝は9時から議場で写真撮影があるということで、8時半には控室に到着。縄跳び、腕立て、腹筋と汗をかいてから、スーツに着替えて・・・議場に向かったのだった。

10時半
亀田さんが質問をしている。相変わらず、切れのいい質問である。傍聴人は6人。大先輩の最後の質問、それでもお休みの方もいるのだから、不思議な訳で・・・。勿体ないよ。何で聞かないかなあ・・・。
16年前、初めて亀田さんの質問を聞いた時の衝撃を今でも覚えている。1回目の質問をするのに、原稿を読んだのだが・・・読み終わったと同時にブザーが鳴ったのだ。僕のように原稿なしで話をしていて、ブザーに合わせて終わらせるのは簡単なのだが、原稿ありでブザーと同時というのは凄い訳で・・・(この人どれだけ準備をしたんだろう)そう思ったのを覚えている。そして、2回目の質問からは本当に「切れのいい」質問をする博子さん。同じ学年なのだが、議員としては大先輩で、しかも実によく勉強もしているので学ぶことばかりの16年間でした。色々学ばせて頂きました、本当にありがとうございました。
「教育長、今真っ先に大規模改修をするとしたら、どこの学校ですか」『第二中学校です』「市長、教育長はこう言ってます。せめて、基本設計だけでも来年度予算でお願いします!」「第四小は雨漏りの個所が20か所ですって」市長に向かって、何とかしなさいよ。と圧をかける。
教育長にいくら文句を言っても、財政当局が「うん」と言わなければ、予算が下りないことが分かった上での質問であった。

俊さん
僕の隣では俊さんがずっとメモを取っている。他の人の質問に対する執行部の答弁を細かくメモするのだから凄い。尊敬できる二人がこの12月議会でいなくなるかと思うと・・・ひとり感傷的になる・・・わ・た・し。そして、博子さんの質問が終わってしまった。

11時10分過ぎ
議場にいい声が響いている。伊藤信太郎さんが質問をしている。羨ましい限りの美声である。傍聴人は8人。旧西堀小学校の門柱の話は同感である。昭和44年に今の場所に移転した西堀小学校。五中の教え子にも旧西堀小に通った子はいる。いい形で残して欲しい、そう思った訳で・・・。12時過ぎ、信太朗さんの質問は終わった。

13時半
滝本さんが質問をしている。傍聴が0だからか・・・議場でお休みの方5名。給食の後の5時間目、中学生達が眠くなるのと同じなんだろうねえ。眠くならないようにするには、こうしてパソコンのキーボードを打っているのが一番。人の話もよく聞けるし・・・脳の血流は増えるし・・・・

2時半前
今日は4人だったのだが、2時半前には終わってしまった。その後、埼玉新聞に掲載する選挙用の写真を撮って・・・空ママに迎えに来て貰って、帰宅したのだった。

初打ち
昨日、スノコを買って・・・庭コートを整備した。その新しいコートでの初打ちをしてみた。庭にモバイルワイハイを持ちだし、音楽をかけての練習はなかなか楽しかった。

ギター
そして、今日もギターの練習。指先が少しだけ硬くなってきた気がする。まだまだ昔のようには動かないけれど、歌っていると楽しい訳で・・・幸せな時間だったぞ。


夜は塾。3年生の息子と個別の塾。息子の呑み込みがよく、家でもよく勉強しているので、質問のレベルが高く、これがまた楽しい訳で・・・今日もお互いに幸せな時間を過ごせた訳で・・・
後半は各学年が揃っての塾。これがまた面白い訳で・・・。数学と英語を全学年同時にやってしまうのだ。まるで島の学校のようである。

教師を目指す人へのメッセージ  第623弾!   高校訪問

 「たかやん、行くぞ!」『はい』朝の学年の打ち合わせの後、嵒さんがこう言うと、僕は授業の自習課題を作成しに印刷室に行きました。2学期になると午後は「高校訪問」のことが多かったですね。緊急の場合は午前中から高校に行くこともありました。我々の時代、私立高校は勿論、県立高校であっても、3年の担任が高校に訪問していたのです。3学年全体が「ワンチーム」になって、全ての子ども達を何とか「志望校」に入れよう!そう努力していた時代でした。
 五中の「高校訪問」はそれぞれの担任が担当校を決めてはいましたが、ギリギリで危ないとなると、僕らの学年では嵒さんと僕の二人が行くことが多かったのです。高校側と話がつくと、「あとは任せたぞ」と嵒さん。子ども達の学力を入試までにちゃんと上げてくれ・・・嵒さんは僕にそう言ったのです。僕は学力向上担当だった訳です。子ども達は僕達のそういう姿を見ていましたから、彼らの志望高校に話をつけた僕らに「恥をかかせてはいけない」と入試まで頑張りに頑張ってくれました。彼らは、高校に入ってからも、後輩達も入って来られるようにと一生懸命勉強してくれたのです。
 そういう関係が何年も続くと、学校がかわっても、高校との信頼関係が続くようになります。教師同士の信頼関係ですからね・・・・。テニス部の子達の進路も顧問が高校の練習に連れていき、高校の顧問と話をつけるのが当たり前のことになっていました。勿論、僕らがどんなに頑張って、子ども達も頑張っても、失敗したことはあります。でも、高校入試に一緒に努力したという信頼関係は卒業してからもずっと続いたのです。
今、スポーツ関係は別として、当時の仕組みとは全く別の仕組みになっています。担任は動かず、親が高校に行き、高校と交渉するという仕組みです。担任の責任はもの凄く軽くなったように思います。一方で「志望校に合格させてやりたい」という気持ちが薄れていっているような気もするのです。若い先生達は子ども達に「高校調べ」をさせることや、3者面談で過去のデータを示すことが「進路指導」であると思っているのかも知れません。我々の時代もデータの分析は大切な情報になりました。今と違っていたのは、内申や実力が足りない時、教師と生徒が力を合わせて努力したことです。その差は普段の言葉にあらわれます。
「もう少しだ、一緒に頑張ろう」「数学の2を3にすれば基準を上回るぞ」「偏差値が3上がればいけるよ、分からないところを聞きにおいで。」「面接がポイントになるから、最低20回は練習しようね」「甲神先生が高校と話をつけてくれたからね。気を抜かないで、勉強を続けるんだよ。」初めての受験で不安な子ども達、そして保護者を安心させて、100%の力を発揮させるのも僕らの仕事でした。否定的なことは言わず、子ども達の能力を引き出す・・・それが楽しくて、僕は「教師」という仕事を続けていたのだと思います。
21年間のうちの9年間、3年の担任をやりました。その時、子ども達と一緒に本気で努力した時間が僕の宝物になっています。どうか、みなさんも子どもと一緒に頑張って、悔いの無い教師人生を・・・。
「たかやん、行くぞ!」『はい』朝の学年の打ち合わせの後、嵒さんがこう言うと、僕は授業の自習課題を作成しに印刷室に行きました。2学期になると午後は「高校訪問」のことが多かったですね。緊急の場合は午前中から高校に行くこともありました。我々の時代、私立高校は勿論、県立高校であっても、3年の担任が高校に訪問していたのです。3学年全体が「ワンチーム」になって、全ての子ども達を何とか「志望校」に入れよう!そう努力していた時代でした。
 五中の「高校訪問」はそれぞれの担任が担当校を決めてはいましたが、ギリギリで危ないとなると、僕らの学年では嵒さんと僕の二人が行くことが多かったのです。高校側と話がつくと、「あとは任せたぞ」と嵒さん。子ども達の学力を入試までにちゃんと上げてくれ・・・嵒さんは僕にそう言ったのです。僕は学力向上担当だった訳です。子ども達は僕達のそういう姿を見ていましたから、彼らの志望高校に話をつけた僕らに「恥をかかせてはいけない」と入試まで頑張りに頑張ってくれました。彼らは、高校に入ってからも、後輩達も入って来られるようにと一生懸命勉強してくれたのです。
 そういう関係が何年も続くと、学校がかわっても、高校との信頼関係が続くようになります。教師同士の信頼関係ですからね・・・・。テニス部の子達の進路も顧問が高校の練習に連れていき、高校の顧問と話をつけるのが当たり前のことになっていました。勿論、僕らがどんなに頑張って、子ども達も頑張っても、失敗したことはあります。でも、高校入試に一緒に努力したという信頼関係は卒業してからもずっと続いたのです。
今、スポーツ関係は別として、当時の仕組みとは全く別の仕組みになっています。担任は動かず、親が高校に行き、高校と交渉するという仕組みです。担任の責任はもの凄く軽くなったように思います。一方で「志望校に合格させてやりたい」という気持ちが薄れていっているような気もするのです。若い先生達は子ども達に「高校調べ」をさせることや、3者面談で過去のデータを示すことが「進路指導」であると思っているのかも知れません。我々の時代もデータの分析は大切な情報になりました。今と違っていたのは、内申や実力が足りない時、教師と生徒が力を合わせて努力したことです。その差は普段の言葉にあらわれます。
「もう少しだ、一緒に頑張ろう」「数学の2を3にすれば基準を上回るぞ」「偏差値が3上がればいけるよ、分からないところを聞きにおいで。」「面接がポイントになるから、最低20回は練習しようね」「甲神先生が高校と話をつけてくれたからね。気を抜かないで、勉強を続けるんだよ。」初めての受験で不安な子ども達、そして保護者を安心させて、100%の力を発揮させるのも僕らの仕事でした。否定的なことは言わず、子ども達の能力を引き出す・・・それが楽しくて、僕は「教師」という仕事を続けていたのだと思います。
21年間のうちの9年間、3年の担任をやりました。その時、子ども達と一緒に本気で努力した時間が僕の宝物になっています。時代が変わっても、子ども達に対する思いは同じ筈です。どうか、みなさんも子どもと一緒に頑張って、悔いの無い教師人生を・・・。

今日の写真1
控室について直ぐ、trainingをします。軽くストレッチをしてから、腕立て、腹筋・・・そして・・・

今日の写真2
最近、縄跳びをしています。超得意だった縄跳びですが、なかなか思い通りには跳べません。

今日の写真3
Trainingの後はスーツに着替えます。学校時代は年に2回(入学式と卒業式)以外はスーツを着ることはなかったのですが・・・・議会ではどんなに暑くても、ネクタイをしています。

*この日記を読んだ全ての人が幸せな気持ちになりますように・・・・

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