6月24日 (月)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第175弾  2019年6月24日(月) たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第175弾  2019年6月24日(月) たかやん

駅立ちのお知らせ
6月の駅立ちは本日24日(月)からの予定でしたが、雨の為に延期しました。明日25日(火)は東久留米東口で5時半〜8時半の予定です。変更の可能性ありです。

朝勉501
川口からの帰り道。生で「英会話」を聞いた。今日の朝勉はそれだけ。15分間だけの朝勉になったのだった。

7時
堀之内病院で母さんの状態を確認する。酸素濃度も血圧も安定していたので、安心して家に戻ったのだった。

9時半
再び堀之内病院へ。母さんの呼吸が荒い。摂取できている酸素濃度が低くなってきたので、濃度を上げて貰う。

自発呼吸
母さんの息遣いは激しくなっている。6月24日(月)午前11時15分現在、脈拍76、最高血圧78、最低血圧31・・・と下がってきた。人工心肺を外して2日目、自発呼吸に切り替え、頑張る母さんに、看護師さん達からも「生命力ですね」と驚きの声が上がっている。ずっと自慢の母さんだったけど、最後の最後までやっぱり凄い人だ。

母さんの背中
僕の一番昔の記憶は・・・猛おじちゃんに怒られて、泣いていたら、おじちゃんに「泣くな」と怒られて・・・もっと泣いて・・・そんな僕を母さんが負ぶって、「大丈夫」「大丈夫」と裏にあったプラタナスの木の下で言ってくれたこと。母さんに負ぶさりながら、僕はこの人に守られているんだ・・・そう思った記憶がある。何をやっても母さんだけは僕の味方でいてくれる・・・そう思って安心した自分いた。

末っ子の特権で、僕は最後まで母さんと一緒に寝ていたと思う。といっても、小学校の低学年だとは思うが・・・お風呂にも3年生くらいまでは一緒に入っていた。父さんと入ると、髪の毛の洗い方が雑で、母さんだと優しかったので、母さんと入る方が好きだった。

そんな母さんだったが、母さんの財布から50円を盗んで、お菓子を買って・・・それが何故かバレた時は怖かった。物差しかなんかで、思い切り叩かれた記憶がある。お母さんの財布から、お金を盗ったらいけない!そう身に染みたのだった。


夕方
院長先生が来てくれた。『どれくらい持ちますか?』と聞くと「1日・・・・」。94年以上生きてきた母さんの命があと1日で消えてしまう・・・。はやく楽になって欲しいという思いと、まだ逝かないで欲しいという気持ちが交互にあらわれて・・・・


夜は塾。母さんはきっと塾の時間は頑張ってくれるはずだと信じて、3時間、子ども達と向き合う。「ねえ、2011年に起きた地震って関東大震災だよね?」と聞く中学生。『あのねえ・・・それは東日本大震災でしょうが!!』
塾の途中で携帯が鳴った。兄貴からの電話だった。「急げ」「早く来い」という電話だったのだが、授業を続けた。子ども達を放り出して、駆けつけて欲しいとは、母さんは絶対に思ってないから・・・・子ども達も「行けば」「終わりにしていいよ」と言っていたが、『いいんだ。きっちりやるぞ!明日もちゃんとやるからな!』「・・・・・」

母の温もり
僕が母さんに会ったのは10時半をかなり回った頃だった。母さんはもう息をしていなかった。でも、母さんの顔を両手で鋏んで、オデコとおでこをがっちんこすると・・・母さんの温もりが伝わってきた。そして、僕は母さんの耳元で母さんに囁いた。『お母さん、遅くなってごめんね。』『お母さん、よく頑張ったね。』『おかあさん、ありがとうね。』『お母さん!!』長女と長男が見ていたので、小さな声で、僕は母さんにお別れをしたのだった。

打ち合わせ
東上セレモニーの車が迎えに来て、僕らは堀之内病院の方達にお礼を言って、東上セレモニーに向かった。そこで、お通夜と告別式の日程を決め、火葬場を決め・・・更に詳しい打ち合わせを明日の午前中にすることを決めて、家に戻ったのだった。

真夜中の会話
空は寝てしまったが、空ママと二人で母さんの話をした。「畑中の家で、パリパリ蕎麦の作り方教えて貰ったんだ」と空ママ。我が家に来た当時、母さんはよく料理を作っていた。

ストレッチ12日目
母さんがいない世界での初めてのストレッチになった。こんな時でも習慣になっていると、出来る訳で・・・・


教師を目指す人へのメッセージ   第461弾!   母の教え

母さんから友達のことで怒られたことはありません。どの家の子と遊んでも大丈夫。近くの朝鮮人部落の子と仲良くなって、遊びに行っても、その子が遊びに来ても、全然平気でした。朝鮮人の「バタ屋」のおじさんから「甘食」を貰った時も、「ありがとうございます」って言って、食べさせてくれました。そういう背中を見て育ったから、僕には国籍による偏見が全くありません。どの国にもいい人と悪い人がいる・・・そう教わったのです。

僕は百人町では名の知れた悪だったので、母さんはとても苦労していたと思います。ただ、高い木に登って、遊んでいたときに・・・PTAのおばちゃんたちが「あんな高い所に登ったら危険です。」「辞めさせてください」と我が家に抗議した時、「子どもは木から落ちません」そう言って、僕の木登りを笑って見ていてくれたのです。きっと、自分自身もお転婆で、木登りが大好きだったからでしょう。それで、高い所に滅法強い子が出来上がったのだと思います。

母さんには絵の才能がありました。小学校の時の通知表が「全甲」なのだから、字も上手、絵も上手、音楽も出来て、体育は最高だったのでしょう。僕が残念に思うのは、母さんのその「才能」を受け継いでないということです。僕が母さんから受け継いだのは「運脳能力」と「音楽のセンス」だけで、あとは全くの不器用な少年でした。母さんのDNAをもう少し受け継いでいたら・・・もう少しまともな大人になっていたかも知れません。

ただ、「弱い者苛めをしない」「小さくても、生き物を殺さない」という心は、モロに受け継ぎました。理科の教師でしたから、解剖で多くの蛙達を殺しましたが、解剖の後は「頂きます」と食べることにしていたのも、母さんの影響だと思います。勿論、「弱い者苛め」だけはしたことがありません。小さい頃から、誰かを「虐め」たり「ハブる」ことはしたことがないのです。仮に自分が「ハブられ」ても・・・・僕をハブった子が「遊ぼ」「入れて」と言ってくれば、断ったことがないのです。それが僕の子どもの頃からの生き方でした。

母さんは、西戸山小学校のママさんバレ―チームに入り、活躍していました。全国大会にも出たことがあり、「最高齢の選手」として、新聞に載ったこともあります。同時にPTAでも子ども達の為に、ピアノの先生を呼んで「オルガン教室」を作ったり、講師を読んで、お母さん達の勉強会(婦人学級)を開催したりしていました。そして、テレビ局に呼ばれ、田中角栄と対談をしたのです。田中角栄幹事長と一緒にブラウン管に写る母さんを見て、誇らしかったのを覚えています。

母が亡くなって・・・母の教えをいくつか思い出してみました。
〇生き物を殺さない。
〇ごみを捨てない。
〇弱い者苛めをしない。
〇人を家柄や学歴で見ない。
〇人を外見(服装)で見ない。
〇人を国籍で見ない。
〇学べることは幸せなことだと意識する。
〇自分の人生は自分で決める
〇食べ物を大切にする。
〇絶対に戦争はしない。
〇職業に貴賤は無いことを意識せよ。
〇どうせやらなきゃならないことは、自分から進んでやる。

今日の写真1.2.3
すべて、2年前の母さんとの写真です。92歳ということです。今日、気がついたことがあります。近所で歩いているおばあちゃんを見つけると、温かい気持ちになる自分がいるのです。自分の足で歩いているおばあちゃん。カートを押しているおばあちゃん。みんな可愛く見えて、抱きしめたくなります。お母さんが居ない世界の第1日目が終わりました。

*この日記を読んだ全ての人が幸せな気持ちになりますように・・・

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