7月27日 (土)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第208弾!  2019年7月27日(土) たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第208弾!  2019年7月27日(土) たかやん

川遊びのお知らせ
来月8月4日(日)に毎年恒例の「わいわい川遊び」を行います。9時半受付開始。10時スタートです。栗原一丁目を中心に、川掃除をした後、魚とり教室、お魚教室、ボート、カヌー遊び、スイカ割などで午後3時くらいまで、半日楽しみます。お昼には石神集会所で“子ども食堂”やります。「冷や麦」「ソーメン」などが無料で食べられます。(50名まで先着順)参加希望者は090−6497−737 たかやんまで。

朝勉534
目が覚めたのは4時。静かに起きて、トイレに行き・・・・静か―に、英語と経済のお勉強をしたのだった。

メダカ
友達にメダカの赤ちゃんを貰ってきた。小さな子達が水槽で元気に泳ぐ姿は見ていて楽しい。我が家のメダカ達も元気なのだが、どうも卵をいつ産んだのか、まだ産んでないのかよく分からないので・・・赤ちゃんを貰ってきたという訳で・・・・

本屋
午前中、少し時間があったので久しぶりにイトーヨーカドーへ。そこの本屋に行ったのだが・・・空の数学の参考書を2冊、塾の問題集を6冊、英検1級の単語集を1冊、脳科学の本を1冊、そして前から読みたかった「新聞記者」を買って戻ってきたのだった。本屋に行くと、お金を使ってしまう・・あ・た・し。

500㎖
そして、西友へ行ってスーパードライの500㎖缶を12缶買って・・・一人、ニヤニヤしていると・・・。「呑兵衛のおじさんみたい」と言われた。ノンアルコールなんだけど、確かに見た目は「ビールそのもの」な訳で・・・・

罪悪感
そのビールを昼間から飲む罪悪感が堪らない。みんなが暑いのに頑張っている中、冷たいビールを飲みながら、何かをやっている自分が凄く「悪い奴」に感じてしまうのだ。それが堪らなくいい訳で・・・

日本酒
それで思い出したのが、受験生の頃の勉強法。高校時代、学年で最下位に近かったくらい勉強が出来なかったのは、授業を殆ど受けていなかったからだ。高1の頃はほぼ寝ていたし、高2の頃は早稲田のグランドで昼寝してたし、高3の数学の時間は校庭でソフトやったりして・・・兎に角、不真面目な高校生だったのだ。それが「大学への数学」というテキストに出会い、数学に対する気持ちが一変する。「三角関数」と「複素数とベクトル」が大の苦手だったのだが・・・そのテキストをやったら、早稲田、慶応、東大、東工大・・・どこの入試問題も出来るようになってしまったのだ。調子に乗った僕は「1問解いたら、一杯」というご褒美を自分にやることにした。父さんの日本酒の一升瓶から、小さなおちょこで一杯、また一杯と数学の問題を解くたびに、日本酒を盗んでは飲んでいたのだ。それに気づいた母さんが「アル中になったらどうしよう・・」と心配したらしいが、別に怒りもしなかったところが凄い。普通、受験生の親だったら怒るだろうに・・・そんなことでは怒らないところが母さんらしい。小さい頃から、超悪がきだったからか、他人に迷惑はかけてないからか・・・結果として、数学は8割以上取れたし、アル中にもならなかったのだから、母さんの判断は正解だったことになる。・・・もっとも、5問連続で正解したりすると、結構酔ってしまって、次の教科に行けなかった記憶もある。最後は「俺の酒を飲むんじゃない!」という父さんの一言で、その奇妙な習慣は終わったような気がする。

望月衣塑子
映画を見に行く時間がないので、「新聞記者」を読むことにした。東京新聞は姉のヒロミから勧められて読み始めた新聞である。我が家はずっと「朝日」だった。叔父が「毎日新聞」の記者だったこともあって、「毎日」を読んでいたこともあったが・・・この十数年は「東京新聞」を読んでいると思う。どうしても読めないのは「読売」で、大嫌いな自民党政権べったりの読売新聞が嫌いだから、ジャイアンツも嫌いである。望月衣塑子は東京新聞の記者である。こういう記者が居てくれるから、僕らは「真実」を知ることができるのだ。映画も見に行けたら行きたいものである。


教師を目指す人へのメッセージ   第493弾!     精神疾患

 去年の9月27日の神奈川新聞に「横浜の教員、精神疾患で休職121人。中学教員4割。残業80時間超」という記事が載りました。
 これは笑えない話です。1つの市で121人というのは余りにも多すぎます。その内の4割が中学校の教員ということは、横浜市の中学校だけで50人近くの教員が精神疾患で休職していることになります。
 残業が月に80時間というのは、どれくらいの時間なのか・・・・自分と比べて見ると、それ程の量でもない気はします。僕自身は月に軽く200時間以上は「残業」していました。部活だけで200時間を超えていましたから、本業での残業をいれると酷いものでした。
 それでも心が元気だったのは、ただただ「楽しい」時間だったからだと思います。
僕は「学校」が大好きだったのです。そこには毎日「飯の種」の子どもたちがいました。一緒に笑って、一緒に悩んでくれる仲間達もいました。僕はその生活を五中で10年、六中で10年、計20年続けました。丸2年間、年休を1日も取らなかったこともあります。それでも心は元気そのものでした。
 さて、最後の二中での1年間、僕は6月で学校を辞めると子ども達と約束し、部活も出なくなりました。サッカー部の朝練は勿論、午後練も試合も行かなくなったのです。行ってしまえば、子ども達が可愛くなって、学校を辞められないことが分かっていたからです。その1年間、僕の「残業時間」はほぼ「ゼロ」でした。21年間で時間的には一番「楽」だった筈です。でも、心はズタズタになりそうでした。クラスの子ども達には恵まれましたが、職員室にはいられませんでした。この僕がです。授業もクラスも最高でしたが、管理職の言動によるストレスは大変なものだったのです。そして、僕は「心を病む」ことよりも「学校を辞める」という選択をしたのです。
 20年間、学校大好きだった人間が、最後の1年で学校が大嫌いになる・・・それがもし、五・六・二の学校の順番が逆だったら・・・出会った人たちの順番が逆だったら・・・そう考えると恐ろしいものがあります。最初に僕を選んでくれた五中の初代校長、中村敞一郎に感謝の気持ちで一杯になるのです。そして、神さんや嵒達にも感謝の気持ちで一杯になるのです。因みに今の二中には僕が信頼している素敵な校長先生がいます。僕が辞めた頃とは全く別の学校になっていることでしょう。きっと、教師にとっても生徒にとっても温かい学校になっていると思います。可愛い後輩達も二中で頑張っています。そこにはいい出会いがあるでしょう。みなさんにもいい先輩達との出会いが最初にありますように・・・・。
 
今日の写真1
ある日の登校風景です。雨の日も雪の日も、駅立ちの日以外は黒目川の遊歩道を子ども達と一緒に4年間歩き続けました。歩き続けたから、こういう写真が撮れたのです。楽しい、楽しい4年間でした。

今日の写真2
空が幸せだったのは、1年生の時に「好子先生」に会えたことです。好子先生の周りは、いつも子ども達の「笑顔」が溢れていました。この子たちも今は高校生です。この教室で育った子たちを見ると、僕は自然に笑顔になり、そして、彼らもまた「笑顔」で僕に挨拶をしてくれるのです。

今日の写真3
子ども達を学校に送った後は、東門で黄色い旗を持っていました。僕が辞めてからは、五中4期生の「秀行」のお父さんがずっと立ってくれています。感謝、感謝です。

*この日記を読んだ全ての人が幸せな気持ちになりますように・・・


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