7月30日 (火)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第211弾!  2019年7月30日(火) たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第211弾!  2019年7月30日(火) たかやん

川遊びのお知らせ
来週8月4日(日)に毎年恒例の「わいわい川遊び」を行います。9時半受付開始。10時スタートです。栗原一丁目を中心に、川掃除をした後、魚とり教室、お魚教室、ボート、カヌー遊び、スイカ割などで午後3時くらいまで、半日楽しみます。お昼には石神集会所で“子ども食堂”やります。「冷や麦」「ソーメン」などが無料で食べられます。(50名まで先着順)参加希望者は090−6497−737 たかやんまで。

朝勉537
空が熱を出したので、2時間おきに空ママが枕を冷やしに起きてくれて・・・俺もその度、目は覚めるのだが・・・起きることはなく・・・・。そして、5時過ぎ・・いつもの朝勉をはじめたのだった。

夏休み
外に子ども達が増えた。どこに行っても子ども達がいる。学校に押し込められていた子達が地域に戻ってきた・・・そんな感じである。夏休みはいい。どこに行っても子ども達の姿が見られるから・・・・。

おいおい2
暴言で日本維新を離党した議員がN国に入党するらしい。行き場のない元維新議員には「渡りに船」かも知れないが・・・N国党に投票した人達は失望するんじゃないのかね。ま、どうでもいいんだけど・・・「れいわ新選組」とは180度違うような気がするのは俺だけかな。
別にいいんだけど・・・。

大力
相模原市から大力が来てくれた。渋滞の中3時間もかけて来てくれたのだ。「たかやんはお袋の時も親父の時も来てくれたじゃない」と大力。『そうだっけ?』どうやら、大力のお母さんお父さんの葬儀に栃木と群馬に行っていたらしいのだ。大力のことは勿論、僕のことも応援してくれていたお母さん、そしてお父さんに手を合わせに行くのは、当たり前のことだったのだが・・・・。舟見にも一緒に行ったことのある大力にとって、母さんは特別な人だったのだろう。忙しい中、奥さんを連れて来てくれた訳で・・・・。そして、母さんの遺影を見て、隣にいた人物が「紀さん?」と当ててみせた。

姉ちゃん
折角、大力が来てくれたので、ヒロミ姉ちゃんのところにも顔を出すことに・・・・「何年振り?」と感動の再会をしてから、暫く話をして・・・・「いつでもまた来てねー!」と大力達は帰ったのだった。

管理組合
それからは管理組合の仕事。それがまた結構忙しいのである。そして・・・・

耳鼻科
それから西東京市の耳鼻科へ。いつもだと駐車場が一杯なのだが、今日はガラガラで・・・僕は初めて、耳鼻科の中に入った訳で・・・安部医院の待合室は本当に綺麗で、感じのいい対応で凄く気に入った訳で・・・おまけに空を診てくれた嶋田先生は本当にいい先生で・・・空の耳の状態を分かりやすく説明してくれたのだった。空の外耳道は鼓膜が見えないくらい腫れていて・・・熱が39度になったのも、「親知らず」だけではなく、「外耳炎」の影響もあるのかなと思った訳で・・・・。 

猛彦
夕方、猛彦が来てくれた。西大泉、石神井、所沢、野寺、畑中、石神・・・すべての家に来たことのある、唯一の男である。勿論、父さんや母さんとも会っている訳で・・・猛彦も母さんに線香をあげに来てくれた訳で・・・・


19時からは個別塾。今日も「不規則動詞」と「連立方程式」に燃えた。英語も数学も「基本」をしっかりやらないとね。
後半は集団の塾。入試問題からの質問を解説していると、「なんでタカヤンはそんな問題も直ぐに分かるわけ?」と聞かれたから、『解く前に、3秒考えるんだ。』「それって、おかしいでしょ」『いや、解き方の道筋を考えてから解くと、速く正確に解けるものなんだよ。』「そうなの?」『後は図を書くこと。問題の条件を全て使うこと・・・』「ふーん」『出題者の気持ちを読むことかな・・・』「・・・・・」『その内、わかるよ。』「そうかなあ・・・」『大丈夫。』「はーい」そんな会話をしながら、1年生の基礎の数学から3年生の難関校の数学までみんなで頑張ったのだった。

猛彦2
子ども達が帰ってから、一旦下校していた猛彦が戻ってきた。そして、スーパードライで乾杯したのだった。猛彦は「本物」僕は「ノンアルコール」での乾杯である。猛彦が14歳、僕が23歳の時に出会った二人はそれから昔の話をして、大いに笑ったのだった。

教師を目指す人へのメッセージ    第496弾!     回し蹴り2

日大病院の原田先生は「この子から運動を取ったら死んでしまう。体育の授業程度の運動だったら、やっても大丈夫だよ」そう言ってくれたのです。堀之内病院でも清瀬の小児病院でも「運動は絶対に駄目」そう言われたのに・・・・・。
 「六中でテニスがしたい」と言っていた亮と僕には、原田先生の言葉は「一筋の光」に思えました。そして、亮は六中に入学してきたのです。六中でテニスをやる為に・・・・
 亮は僕から見ても「勉強の才能」がありましたが、勉強をしているところは見たことがありません。自分の短い人生を「中学テニス」に賭ける・・・そんな風に僕には見えました。
 「今は手術をしても海外での手術で数千万のお金がかかる」「やったとしても7年後にまた再手術しないといけない」そんな言葉を聞いていた亮は自分の人生を「長くない」そう感じていたのではないでしょうか・・・・。12歳の子が自分の人生をそう感じていたとしたら・・・そう思うと僕は胸が張り裂けそうでした。
 僕は亮より先に自分が死ななければ・・・そう考えるようになりました。亮を先に死なせるわけにはいかない・・・それだけは駄目だ。そして、僕が「高校」でインターハイを「大学」でインカレを目指したように、「中学」で全国を目指して欲しい。きっと、高校、大学でテニスをやるのは「無理」だから・・・・そう思うようになりました。父親の僕が一度も立てなかった「全国」の舞台に立たせてやりたい。そう思ったのです。
 六中テニス部は強かった。赤ジャージの子たちは「1回のドリルの練習時間を3分にしても、3キロのランニングをやめても、1年生の亮をレギュラーに入れても全国大会で勝てます!」そう言ってくれました。そして、亮は1年生ながら、全国大会の舞台に立ちました。
 そして、団体戦で優勝し、個人戦でもダブルスでベスト8に入りました。新人戦では関東大会で優勝し、2年生の全国大会では3位に入りました。亮は六中テニス部のキャプテンになりました。そして、亮が3年生になる時、僕は六中を去りました。僕がいないとブレーキがかけられないのではないか・・・心配だったので、あと1年六中に残りたかったのですが、市教委はそれを許しませんでした。僕は亮の心臓が止まってしまうのではないか・・・それが心配で、心配で仕方がありませんでした。僕が学校を辞めたのは、その人事にも関係していたのかも知れません。
 3年生の亮はいい結果を残せませんでした。それでも、僕はよかったと思っています。嬉しい優勝も、悲しい敗北も経験できたのですから・・・「中学テニス」を精一杯やれたのですから・・・・それも、これも回し蹴りで病院送りになった、古庄君のお父さんのお陰なのです。今でも古庄弘道先生には感謝の気持ちで一杯です。
 
今日の写真1
大力と恵美子ちゃんです。本当に久しぶりに会うことができたのも、母さんのお陰です。

今日の写真2
大力と恵美子ちゃん、そして巴奈ちゃんは8年〜9年前に来て、ひとみ、安孝、茜、こころとテニスをしたことがあるのですが・・・・茜が「はじめまして〜」「大力がいつもお世話になっています〜」と天然ボケしたところで、恵美子ちゃんが「前にお会いしましたよね。」と言って大笑い。みんなで写真を撮って、解散したのだった。

今日の写真3
「たかやんの応援団」の応援団長の猛彦です。僕が五中に赴任しなければ、そして、もし猛彦と出会ってなかったら・・・・今の僕は間違いなくいません。それくらい僕にとって大切な出会いでした。教師が生徒の人生を変えることは、勿論ありますが、生徒が教師の人生を変えることもあるのです。僕は猛彦に「教師にしてもらった」そう思っています。

*この日記を読んだ全ての人が幸せな気持ちになりますように・・・

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