8月2日 (金)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第214弾!  2019年8月2日(金) たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第214弾!  2019年8月2日(金) たかやん

川遊びのお知らせ
明後日、8月4日(日)に毎年恒例の「わいわい川遊び」を行います。9時半受付開始。10時スタートです。栗原一丁目を中心に、川掃除をした後、魚とり教室、お魚教室、ボート、カヌー遊び、スイカ割などで午後3時くらいまで、半日楽しみます。お昼には石神集会所で“子ども食堂”やります。「冷や麦」「ソーメン」などが無料で食べられます。(50名まで先着順)参加希望者は090−6497−737 たかやんまで。

朝勉540
もの凄い鼾の中、やっと眠れたかと思ったら・・・隣の兄貴がトイレに行くのに気がついた。「何時?」「2時半」「あっそ・・・」とても眠れる状態ではなかったので、そこから、4時まで「朝勉」をすることに・・・そして、5時半。今日の長い一日がはじまったのだった。

6時前
僕と直ぐ上の兄貴と亮は再び、墓の前にいた。そう、昨日の3時間の墓掃除では出来なかったところを1時間かけて、やったのだ。汗びっしょり!!これで墓掃除にかけたじかんは4時間・・・ふう。

9時過ぎ
朝ごはんを食べた後、ゆっくりする間もなく、法福寺に向かった。10時集合、10時15分開始の予定だったのだが、9時過ぎには法福寺に着いてしまった訳で・・・法福寺の住職は1時間前に着いた僕らに、お寺の中を見学させてくれたのだった。


式がはじまる前に法福寺のトイレに行くと、虻が蜘蛛の巣に引っかかって、もがいていた。蜘蛛にとっては大切なタンパク源だとは思ったが・・・僕はちょっとだけ虻を手伝って、トイレの窓を開けて・・・虻は外へ飛んで行ったのだった。小さい頃、大きな虻に刺されて、血を吸われて・・・痛かったことを思い出していた。

10時
親友の祐二も来てくれて、従弟ののっちゃん、ひろ子さん、ふっこも来てくれて・・・・
四十九日の法要がはじまった。お寺の畳に和椅子持ち込んで、お経を聞き、そして、みんなでお線香をあげて・・・・法要は無事終わったのだった。

11時前
納骨は暑い中で行われた。長袖のシャツにスーツという真夏では考えられない格好で、
素頭で炎天下に立つ。これは厳しかった。でも、母さんのお骨は、瞭仁の大活躍で無事に父さんの隣に置かれた訳で・・・めでたし、めでたし。よかったね、母さん!!

11時半過ぎ
納骨の後、舟見の家にみんな集合した。ピカピカの母さんの位牌を父さんの位牌の隣に並べて貰って、お経を唱えてもらっていると、ひろ子さんが泣き出して・・・母さんの遺影の笑顔をみて「おかあさん、優しかったあ・・・いい笑顔」と言って泣いてくれて・・・僕まで泣いてしまったのだった。

12時過ぎ
母さんの遺影を前にして、僕の挨拶で会食がはじまった。僕は昼間から「ノンアルコールビール」と「豪華」な食事でお腹が一杯になったのだった。

14時
僕の司会で会議がはじまった。三兄弟での大切な会議だったのだが・・・・会議は僅か30分ちょっとで終わった。司会が上手だったからかな・・・なんてね。

買い物
会議の後は買い物。下の兄貴と二人で葬儀社への支払いをしてから、母さんの遺影を飾る為の買い物をしたのだった。母さんの遺影を飾るだけでなく、御祖父ちゃん、おじさん、父さん、お祖母ちゃんの遺影も移動させるからだ。

変なおじさん
雪がロビーで富山の友達と話をしていると、変なおじさんが会話に入り込んできた。その叔父さんは見知らぬ人の会話に入り込んでくる、本当に変なおじさんだった。亮も瞭仁もかなり困ったらしく・・・・夜はこの変なおじさんの話で持ちきりだった。

19時半
会食スタート。今夜もアルコールはほぼ飲まず、ノンアルコールビールに徹したのだったが・・・どっと疲れが出て、瞭仁の布団で寝そうになって・・・・


遅くに露天風呂に行った亮が、「蝉が壁にぶつかって、湯船に落ちたんだ。それを助けて飛ばすんだけど、また落ちてきて・・・3回助けて・・・やっと空に帰って行ったんだ・・・・」と話すのを聞いて、俺のDNAだなあと思った。二日間で「カメムシ」「虻」「蝉」と二人で助けた父子であった。

教師を目指す人へのメッセージ    第499弾!    学校教育目標

 昭和52年の新座市立第五中学校の「学校教育目標」は初代校長の中村敞一郎が決めました。「明朗」「清潔」「信頼」です。これは五中生に贈った言葉であると同時に、我々教職員に贈った言葉でもありました。五中生が明るくなるには、教員の我々が「明朗」でなければならない・・・彼はそう言ったのです。五中生が清潔感溢れる生徒になるには、我々教員が「清潔」でなければならない・・・彼はそう言ったのです。そして、五中生が信頼される生徒になる為には、我々教員が「信頼」される教員でなければならない。彼はそう言ったのです。中村敞一郎の「精神」がどれだけ、今の五中の教職員に受け継がれているかは分かりませんが、僕はその時に五中にいたメンバーの一人として、後輩たちにその本当の「意味」を伝えていきたいと思っています。
 一方、62年4月に僕が赴任した第六中学校の学校教育目標は「自主」「責任」「明朗」でした。「明朗」は五中と同じでしたので、学校教育目標としての言葉に違和感はありませんでしたが、当時の六中は僕がいた五中と比べて「管理的」なものを感じました。生徒達も上級生と下級生がまるで「体育大学」の上級生と下級生のようで、違和感を感じたのです。
62年の4月のある朝、僕が見た光景はテニスコート前の道路で並んでいる、ソフトボール部の2年生女子の姿でした。彼女達は3年生の先輩が通ると「おはようございます!」「おはようございます!」「おはようござい「おはようございます!」「おはようございます!」と先輩の姿が見えてから、見えなくなるまで最敬礼しながら連呼していました。
僕の六中での戦いがその日からはじまりました。

今日の写真1
今朝の朝勉は「経済」と「英語」でした。どんなに疲れていても、やることはやらないとね。人生、朝勉です。

今日の写真2
今朝の朝ごはんです。白いご飯を食べるのは久しぶりでしたが、富山のお米は信じられないくらい美味しくて・・・

今日の写真3
ツル二羽・・・・法福寺の住職の関口さんです。本当に楽しくて、信頼できる方なのですが・・・二人並ぶと何か似ているような気がして・・・ツルのスーショットになった訳で・・・・

*この日記を読んだ全ての人が幸せな気持ちになりますように・・・


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