Diary 2004. 5
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5月11日 (火)  「たかやん議員日記」2004.第58弾! 

「たかやん議員日記」2004.第58弾!  5月11日(火)

午前中に会派の集まりがあった。明日からの「沖縄視察」の件がメインテーマだった。僕は残念ながら行けない。元はといえば僕が「沖縄の宜野湾市の英語教育を見たい!」といったのがきっかけだったから、本当に残念でしょうがない。半袖のワイシャツもや新しいネクタイも買って、準備は万全だったのに・・・・。でも向こうでお腹が痛くなって迷惑かけてはいけないし、あのパンパンに腫れた腎臓を見たら、無理をする気にはならなくなってしまった。視察はまた行ける。色んな人から「体はたった一つ、大事にしてくださいね。」といわれてありがたかった。


5月12日 (水)  「たかやん議員日記」2004.第59弾!

「たかやん議員日記」2004.第59弾! 5月12日(火)
結石日記1
手術は痛かった。衝撃波で結石を砕くという手術なのだが、最初のうちは麻酔がかなり効いていたのでよかったのだが・・・・まさか衝撃波を3300発も打つとは思わなかったのだ。
「眠くなる人もいますから、寝てもいいですよ。」とドクター。かなり強い麻酔らしい。最初のうちは本当に眠りそうになり、うとうとしていたのだが・・・・どうも簡単には割れない石だったらしく、「ちょっと部品を交換しますね。」と言ってからの衝撃は想像を絶したものだった。
『へいへいへいへい!ちょっとタンマ!』と手を振る僕。それに気がつかないドクター達。『こらこらこっちを見ろよ!痛いっつうの!』と僕。『腰が痛いんですけど・・・』「しょうがないですね。もう少し我慢してください。」とドクター達。うつ伏せにされて、お尻出して、何やってんだろう、俺。こんなに痛くて割れなかったら、どうしてくれんの?と文句を言いたかった。
そして2時間後。3300発の衝撃に耐えた僕はストレッチャーに乗せられて、病室に入ったのだった。
腕には点滴。その中には利尿剤が入っていて、とにかくトイレに行きたくなるのだ。そして大きなジョッキのようなプラスティックのコップにおしっこを入れ、砕けた石を濾し取るガーゼのようなものに流し込む。その作業に明け暮れるわけだ。
確かによく見ると、小さな石の破片のようなものが微かに見えるわけで・・・・・
「随分出てますよ!」と看護婦さんに喜ばれた。
病院のご飯はけっこう美味しかったが、腰は痛いし、トイレには頻繁に行かなくてはいけないし・・・・結構辛いものがあった。



5月13日 (木)  「たかやん議員日記」2004.第60弾!

「たかやん議員日記」2004.第60弾!  5月13日(水)
暇な時間は全部英語の暗誦をすることにした。英語の暗誦をしてはトイレ。暗誦をしてはトイレの繰り返しは夜中中続いたのだった。

今日はは隣りの新井さんというおじいさんとよく話をした。新井さんは昭和二年生まれで、戦争の時は満州にいたそうだ。そしてシベリヤに連れて行かれて、強制労働させられて、それはそれは大変な目にあって、やっと日本にたどり着いたと言っていた。
「冬零下50度だからね。そりゃあ大変よ。」「飯がなくてね。黒パン一切れにスープ。その黒パンもモミが入っているだから・・・・」「みんなどんどん死んでいったよ。」「病気になってね、帰れたのよ。」「雨の中歩かされてね。またみんな死んでいくんだ。」「群馬の家に帰ったときはお袋が喜んでね。村中の人が見物に来たよ。」
新井さんの話は尽きなかった。新井さんは僕の死んだ父さんより4歳ほど若いが、息子さんは僕より二つ上だと言っていた。僕らの父の世代の人はみんなあの時代を生き抜いてきた人達なのだ。
「捕虜になったけど、アメリカがイラクでやってるようなことはされなかったなあ・・・ありゃあひでえや。」と新井さん。きっと戦争は人の良心や感覚を麻痺させてしまうのだろう。


僕の部屋のおじさん達はみんな寝るのが早い。8時には面会が終わりになり、9時には完全に消灯。でもその前から鼾がゴーゴーと聞こえてくるのである。そして隣りの部屋のおばあちゃんの叫び声がひっきりなしに続くのだ。どうも誰かの名前を呼んでいるらしいのだが、何といっているのか分からない。その中で暗誦をして、そしてトイレに行って・・・・いつの間にか朝になるのだ。
それでもウトウトはしたのだろう。ふっと目が覚めて、全然知らない場所だと気付いたときは、ちょっと変な感じがした。      


5月14日 (金)  「たかやん議員日記」2004.第61弾! 

「たかやん議員日記」2004.第61弾!  5月14日(木)
またX線を撮った。結石が大分下に落ちてきているのが分かった。「大分石が砕けたからね。降りてくるのは時間の問題だよ。」とドクター。『その大きな破片が膀胱から出てくる時は痛くないんですか?』と僕。「そりゃあ痛いさ。」とドクター。その痛みに直面するのも時間の問題なのだろう。

今日は病室の匂いに参った。オムツをしている人もいるからしょうがないのだが・・・・やっぱり健康が一番だと思い知った一日でもあった。

結局、入院にかかった費用は10万円近い。どうもあの3300発が高かったらしい。でも10万円であの痛みから解放されるのなら安いのかも知れない。
「早い人は3ヶ月でまた石できるよ!」とドクター。冗談じゃあない。僕はもう一生石は作らないと心に決めた。

空と亮
退院すると空が飛びついてきた。きっと何かを感じていたのだろう。満面の笑顔で僕を迎えてくれた。亮は亮で二日とも病室に来てくれた。あまり感情を出さない方だが、彼なりに心配していたのだろう。
家に帰ると亮が空と楽しそうに遊んでいた。空が歩く日は近い。空にテニスを教えるのはどうやら僕だけではなさそうである。                たかやん


5月15日 (土)  「たかやん議員日記」2004.第62弾!

「たかやん議員日記」2004.第62弾!  5月15日(土)

体育
退院したばかりだが、子ども達が楽しみにしているのでサッカーもやったし、テニスもやった。サッカーはインターハイレベルの選手が二人参加したので、えらくレベルの高いゲームになった。テニスはテニスで全米チャンピョンを育てようという現役のコーチが来てくれて、これまた急にレベルが上がったのだった。彼らといると自分のエネルギーが増えてくのがわかる。彼らはとてもいい「気」を持っているのだ。コーチや教師に必要なのはこの「気」。この「気」に出会うと、子ども達は「元気」なったり「やる気」になったりするのだ。あの松岡修造を育てた飯田藍さんはその「気」をたくさん持っている人だ。僕みたいな年齢の人間でも一緒にいると今でも「やる気」になってしまうのだから・・・・。大人でもやる気にしてしまうのだから、子ども達はその何倍も影響を受けやすいわけで・・・・学校の先生はああいう人のところへ研修へ行ったらいいのではないかなと思うたかやんであった。

そう嬉しかったのは昨日県議の吉田よしのりさんが我が家までお見舞いに来てくれたこと。病院へ行ったけど退院したあとだったので、わざわざ我が家まで来てくれたのだ。僕にはとても真似ができない。僕より随分若いけれど、僕はまた少し彼のファンになったのだった。


5月16日 (日)  「たかやん議員日記」2004.第63弾! 

「たかやん議員日記」2004.第63弾!  5月16日(日)

お母さん
今日は高校の先輩の四十九日の法要があった。彼はインターハイにも全日本ジュニアにも出場した有名な人だった。僕は彼のボーイボーイをするのが好きで、いつも彼を応援していた。上智大学へ進み、そこでもテニス部で活躍し、そして奥さんともそこで知り合ったのだそうだ。僕は本当にその人のことが好きで、この正月もテニスをする約束をしていたのだった。それがこの3月31日に、心筋梗塞でいきなり逝ってしまったのだ。

僕はひさしぶりに懐かしい先輩達にあった。三十数年ぶりに会った先輩達は18歳からいきなり51歳になって僕の前に現れた。
上智大学のテニス部と石神井高校のテニス部のメンバーはその会で笑って、そして泣いた。本当にみんなから愛される人だった。白髪だらけのお母さんがいた。僕らは泣いたり、笑ったりだったが、お母さんだけはずっと悲しい顔をしていた。
親と失う悲しみは僕も知っている。パートナーを失う悲しみは、自分の母親で見てきた。だけど息子を失う悲しみは・・・・自分が息子を送るという悲しみは僕には想像ができない。
僕は最後にお母さんの前に来て、「高野さんには本当にお世話になったんです。」と言おうとして、声にならなくて泣いてしまった。お母さんが本当に小さく見えた。

母親が息子を失う。51歳の息子でも、13歳の息子でも母親の苦しみは変わらない。陵平のお母さんもこの苦しみに耐えたのだ。そして今もまだ耐えている。二中の生徒指導は間違っていたのだ。13歳の命がなくなったのだから・・・・。


5月17日 (月)  「たかやん議員日記」2004.第64弾! 

「たかやん議員日記」2004.第64弾!  5月17日(月)

頭痛
薬の副作用かも知れない。朝から頭痛でずっと寝ていた。新聞を読む以外はずっと布団を被っていた。午後からは仕事。子ども達には駄目な顔は見せられないから夕方からは「気合」だけで生きていた。人生「気合」が大事である。教えている間は頭痛を忘れられるから不思議である。


5月18日 (火)  「たかやん議員日記」2004.第65弾!

「たかやん議員日記」2004.第65弾!  5月18日(火)

頭痛2
午前中、寝ながら考えた。この頭痛の原因はなんだ?その結論は薬だ。利尿剤を飲んでいるので、体の水分が足りなくなっているのだろう。それで血液がドロドロになり、それで頭痛になったのだろう。
だから兎に角水を飲んでみた。5lは飲んだだろう・・・・・頭痛は徐々に無くなっていった。人間の体は不思議である。ちゃんと対応してやると機嫌を直してくれるのだ。

塾でまた問題集の文句を聞いた。今度は塾の子ども達が直接言ってきた。D中の2年生の理科の先生が「答えは渡さない。」と答えをくれなかったのだそうだ。子ども達は自分で勉強するのに必要だから欲しいといったのに・・・・カウンセリングマインドが無いのだ。というか親がお金を払っているのにどういう神経をしているのだろう。

はっきり言って、この先生は勉強の仕方を知らない。あるいは一人で勉強したことがない。そりゃあ自分だけが正しい答えを知っていれば「優越感」に浸ることはできる。いかにも自分は生徒よりもできるかのように見える。要するに自信がないのだ。自信がないから答えを渡せないのである。こういうことをしているからいつまでも実力がつかないのだ。黒板に参考書を写すような授業をやって平気でいられるのだ。21年間で色んな先生を見てきたが、問題集の答えを渡さないタイプで授業の上手な先生はいなかった。
こういうことをしているから東京の塾の先生に笑われるのだ。学校では訳の分からない授業を我慢して受け、家では答えのない問題集をやる子ども達の身にもなって欲しい。
こういうことを考えると、本当に頭痛がしてくるのだ。



5月19日 (水)  「たかやん議員日記」2004.第66弾!

「たかやん議員日記」2004.第66弾!  5月19日(水)

テニス
夕方、六中のテニス部の子が「練習を見てください。」といいに来た。「試合まであと1週間しかないから来て下さい。」というのだ。テニスコートを通るたびに子ども達のことがかわいそうになる。「元気」がないのだ。子ども達に一番大切なものがあのコートにはない。それがかわいそうでしょうがない。子ども達も親もきっとどうしたらいいかわからないのだろう。3年生になれば「成績」のことが気になる。あの時の新聞報道のように大事になることは避けたいと思って当たり前である。それは僕も同じだ。

僕はあのテニス部のOBだと思っている。なんといっても10年あそこで練習したのだから・・・・卒業生ではないが立派なOBだと思う。だから時々はあのコートで今の現役の子達ともテニスができたらいいなあと思っている。そして少しでも後輩の役に立てたらいい、そう思っているだけである。僕は忙しい。毎日練習に行くことなど不可能なのだ。


5月20日 (木)  「たかやん議員日記」2004.第67弾!

「たかやん議員日記」2004.第67弾!  5月20日(木)

お母さん2
今日は教え子のお父さんの告別式だった。4月に病室に尋ねたとき、お父さんはやせ細った体で僕にこう言った。「先生、糖尿病を馬鹿にしてはいけないよ。俺は医者の言うことを聞かなくて、こんな体になっちまったんだ。先生、医者のいうことを聞かなきゃいけないよ。俺はもう駄目だよ、先生。」僕は返す言葉がなかった。

お父さんは68歳。病気にさえならなければ、まだまだ現役で仕事をしていただろう。今日僕はお父さんのお母さんを初めて見た。教え子のお祖母ちゃんは91歳。そのおばあちゃんがずっと泣いていたのだ。肩を震わせて泣いていたのだ。僕はそれを見て、また泣いてしまった。そう91歳になっても母親なのだ。子どもが60になっても70になっても、自分はその子の母親なのだ。子どもが親を送るのはしょうがない。だけど親が子どもを送ってはいけないのだ。僕は91歳のお母さんがかわいそうで、かわいそうでしょうがなかった。


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