Diary 2009. 1
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1月11日 (日)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第11弾! 2009.1.11(木)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第11弾! 2009.1.11(木)   たかやん

遂にダウン
酷い腹痛で夜中に目が覚めた。2時半、寝ている兄貴を起こさないように、そっとトイレに入る。水分を補給して、また布団へ・・・結局朝まで眠れなかった。

出初め式
毎年行っている消防の出初式にも行けなかった。カメラを持っていく積りが、とても家を出られる状態ではなかったのだ。

告別式
所沢での告別式にも行けなかった。体の中の水分が出尽くすのでは・・・・恐ろしい風邪である。


夕方からの塾も休んだ。僕が病気で休みになるのは初めてかも知れない。子供たちにうつしてはいけないという気持ちもあったが、それ以上に腹痛に耐えられそうになかった。

幹事長
体が参っていても、テレビを見るくらいならできる。面白かったのは10チャンネルの「幹事長対談」自民・公明対民主・共産・社民・国民新党という並び方での討論だった。いつもは余り取り上げられない共産党の意見も沢山聞けた。お腹が痛くなければ見ることのなかった番組だった。

地方議会
おなじ10チャンネルで「地方議会」のあり方を取り上げていた。「そんな議会ならいらない!」という議会もあれば、「そういう議会なら信頼できる」という議会もあり、勉強になった。その中で「二元代表制なのだから、議員は全て市長野党であるべきだ!」という意見に拍手を送った。「市長与党ばかりの議会は存在価値がない」という訳だ。確かにその通りで、何でも市長の言うことが通るのでは「議会」の存在価値はない。住民の政治への意識が高まり、そういうことに気づくようになれば、議会は進化していくしかない。腹痛のお陰で、そんなテレビも見ることができたのだった。


理水
「たかやんですか?明日成人式に来ますか?」と理水から電話があった。理水は塾の卒業生で3中卒。蕨高校から法政大学へ進んだ女の子だ。15歳の時に僕の塾に来てから・・・もう5年も経つのだ。明日は成人式、この腹痛が治ればいけるのだが・・・・理水や真実子に会いたいなあ・・・。

ふーちゃん
五中最後の卒業生のふーちゃんが遊びに来た。お袋や雪や亮のこともよく覚えていて、やたら盛り上がり・・・気がつけば1時半。腹痛を忘れて語ってしまった。明日の朝、腹痛が治っていたら・・・成人式に行くつもりである。



1月12日 (月)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第12弾! 2009.1.12(月)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第12弾! 2009.1.12(月)   たかやん

成人式
薬局で買った薬を飲んで、市民会館へ向かった。知っている子達がどれくらいいるんだろう・・・そう思って車を降りると「あ、先生」と声がかかった。3中から塾に通ってくれたリサだった。「おう、久しぶり!」「お久しぶりです!」お母さんも一緒に笑顔で写真を撮った。

理水
何処から見ても「男の子」のようだった理水が「女の子」に変身して登場した。隣には飯野先生のお嬢さんのMちゃんが・・・この子達も3中生。そっかあ、みんなもう二十歳なんだ・・・。三人で記念写真を撮った。そこに真実子も登場し、みんなでわいわい騒ぎながらまた写真を撮ったのだった。

「ともや!」
(俺のことを「ともや」って呼ぶ奴は・・・・)振り返ると友和が笑っていた。五中の最初の卒業生である。「なんでいるの?」「一番上の子が・・・」「え?あ、そうかあ。るりは?」「あそこにいます」友和の奥さんは五中の二番目の卒業生のるり子なのだ。だから彼らの子供は僕には孫のような存在な訳で・・・・みんなで写真を撮ったのだった。

六中テニス部
「先生!」「おう」六中テニス部の子達が笑顔で登場した。あの「六中テニス部事件」に巻き込まれ、全国の夢を絶たれた子達がみんな集まった。「僕達、全国行けましたよね?」「ああ、間違いなく優勝していたと思うよ。」「マジっすか?」「ああ、俺が教えた1年生の中で一番だったよ。お前達は・・・」「今度テニスやりましょう!」「おう、やろうぜ!」僕らはみんなで集合写真を撮ったのだった。

目の輝き
彼らが印象的だったのは、目の輝きだった。運動能力も確かに高かったのだが、それ以上に彼らには「輝き」があった。それは僕がテニスを教えるときに、一番大切にしていたものだったのだ。あの事件で、理不尽な大人達が彼らから僕やOBを奪い、六中テニス部の伝統を奪い、そして彼らの「全国」の夢も奪ってしまった。僕らの宝物のようなあの時間はもう返ってこない。本当に取り返しのつかない時間だった。それでも、今日彼らの目には昔と同じような「光」があった。それは確かに13歳の「輝き」ではない。六中のあのコートで僕に見せた、中学生の「輝き」とは違うけれど、二十歳の青年の眩しい輝きが僕をホッとさせた。僕達は今度一緒にテニスをする約束をした。もうあの汚い大人たちに邪魔されることはない。僕らは自由にテニスができるのだ。あの時間はもう戻ってこないが、僕らの新しい時間をこれから作ることができる。その向こうに「全国」はないけれど、その向こうには「再開」や「幸せ」がある。僕はあれから彼らを忘れたことはなく、そして彼らもまた僕のことを忘れないでいてくれた。そのことが本当に嬉しかった。市民会館での数十分。僕はお腹の痛みを全く忘れてしまうくらい幸せに浸っていた。

残念ながら・・・
今年の成人式で僕のテニスの教え子の代は終わる。僕達から六中のテニス部を取り上げた彼らのお陰である。新座から出たであろう、「テニスの王子様、王女様」たちとの出会いはなくなったが、新しい出会いがあったことも確かである。六中テニス部との練習があったら、今の我が家の「平安」はなかったかも知れない。空との時間や駅立ち、そして議会での活動は制約されていただろう。残念ながら、それも彼らのお陰なのである。あの練習が続いていたら、市長選の応援などできるわけもなかった。全てが彼らのお陰。全てのことに感謝しながら眠ることにしよう。明日はひばりが丘で駅立ちである。


1月13日 (火)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第13弾! 2009.1.13(火)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第13弾! 2009.1.13(火)   たかやん

4時
腹が痛いのと、寝坊してはいけないのとで4時に起きてしまった。お腹との相談もあるので、丁度いい時間かも知れない。そしてお腹と相談の結果。行くことに決定したのだった。

母さん
今朝は母さんが見送ってくれた。僕の体調が悪いのを心配してくれているのだろう。まるで高校時代のように暗い道路に自転車で出て行く僕を送ってくれた。40年前からそういうところは変わらないのだから、お袋っていうのはありがたいものだ。

ゆりちゃん
ひばりが丘に着く前に、いつも僕のチラシを貰ってくれる中学生に追いついた。「おはよう!」「あ、おはようございます!」まだ5時50分過ぎだというのに、学校に行く中学生がいるのだ。頑張るなあ・・・

カイロ
お腹と背中にカイロを入れ、靴の底にもカイロを入れて配っていたのだが、手がどんどん冷たくなってきて困った。食べ物も殆ど口にしていないので、体が冷えてしょうがなかった。

じゅんこ
だからじゅんこが来たときは本当に嬉しくて、思わずハグしてしまった。そのハグで僕は30分くらい笑顔になれた。体が冷えたときはハグしてもらうに限る。

クレーム
比較的若い男性にクレームを付けられた。「こんなところに立ってちゃだめだよ。あのよく立ってるよしだよしのりにも言ったんだけどさ、パチンコ屋の前の道路。道が狭くて、危なくてしょうがないよ。ここにいたんじゃ分かんないだろ?」「もう直ぐ駅前は整備されますよ」「そうやってずっと待たされているんだよ」「はあ・・・」「一方通行にしてよ!」
大体、西東京市のことを僕に言われても困るし、仮に新座市だったとしても道路のことは市議会議員は勿論、市長でもどうにもならない問題な訳で・・・・警察の管轄なんだよなあ。よく、私が道路を作ったとか、信号をつけました。とか言うけどみんな嘘!結局3分くらいクレームに付き合ったのだった。

一早
ビックリしたのは一早が階段の上から登場したこと。「どうしたの?」「うん、写真でも撮ろうか・・」「おう」最近、保谷へは行けなくて申し訳なく思っていたのだが、一早のほうから来てくれた。やっぱり応援団長は心強い。彼は中学生のときから、僕の良き理解者である。

観察
駅前に立つのはちょっと勇気がいる。人から見られていると思うと、ちょっと大変だ。でも、実は観察しているのは僕の方なのだ。みんないつも同じ顔をしている訳ではない。この間は笑顔でも今朝は不機嫌という人も中にはいる。疲れを引きずっている人もいれば、エネルギーに溢れている人もいる。中には怒った顔の人もいる・・・・。僕の「一生懸命」を持っていってくれる人たちは、「いい気」を持った人が多い。そして「心にゆとり」がある人が多い。駅に立っていると、人の表情や心の状態が観察できるのである。

テニス
駅立ちのあとはテニス。これまたお腹と相談して・・・やるという結論に達したのだ。僕を待っているおばちゃん達がたくさんいるからなあ・・・腹ペコだったけど、頑張った。

議運
そして1時半からは議運。兎に角「腹ペコ青虫」状態でふらふらしながら参加した。今日のメインは「新年号」の編集。終わったのは4時過ぎだった。

議案説明会
僕の一般質問の表題が「議案説明」になっていたので、「会をつけてください。」と言った。すると「そんななまえの会じゃあない」とか「正式名称ではない」とか「たかむらさんの頭の中で勝手に作った名前でしょ」とか言う人がいて参った。市長も答弁の中で、そうしたことをやっていると認めているし、与党会派の中では「議案説明会」という名前で呼び合っているのに・・・最近は「別の名前」に変えたとでもいうのだろうか。平野委員長が「人によって色んな見解があるから・・・」と言ってくれなかったら、3月議会でもっと大々的にやるところだった。よわっちい一人会派は「ペン」と「本会議」で勝負をするのである。

野菜スープ
薬が全く効かないので、「野菜スープ」を作ることにした。人参、大根、セロリ、レンコン、ごぼう、生姜、キャベツの7種類の野菜を煮込むだけなのだが、そのスープがお腹に効くのだ。明日は東久留米の駅立ち。野菜スープに大いに期待したいところである。


1月14日 (水)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第14弾! 2009.1.14(水)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第14弾! 2009.1.14(水)   たかやん

腹痛との闘い・・・
5時に起きた。夜中に腹痛が襲ってきて・・・眠れなかった。それでも気合で起きた。駅立ちの一番の敵は腹痛だ。それでも東久留米に行くと決めた。

遅刻
家を出る前にトイレにいくはめになり、いつもの5時55分に5分ほど遅れた。お腹に向かって「頼むから頑張ってくれ!」と言ってから「一生懸命」を配り始める。

りさちゃん
教え子の妹のりさちゃんが「先生!頑張ってください!」と笑顔で僕の手を握ってくれた。当時は小学生だった小さい女の子が立派なお嬢さんになって・・・そして僕の手を握りしめてくれる。これだから駅立ちは楽しいのだ。

奈月
ふと顔を上げると奈月がなんとも言えない笑顔で立っていた。思わず抱きしめる。久しぶりだったのだ。昨日も今日もハグできた僕は幸せである。

議会報告
「これはどこの議会報告なの?」「新座市です」「どこにも書いてないじゃないか」「そうですか?」そう言えば、僕の「一生懸命」には、新座市の文字が大きくは書いてないかもしれない・・・・。今朝はそんなお叱りも受けたのである。

語る会VS国会議員
7時過ぎあたりから、衆議院議員の木原せいじさんの秘書の方たちがビラ配りを始めた。勿論「すみません、一緒にいいですか?」と僕に断っての駅立ちである。木原せいじさんは僕の教え子の友達なので(そうじゃなくてもだけど)喜んでOKした。昔、共産党の市議会議員3人とは互角に戦えたが、現職の国会議員だとどうなるか・・・楽しみでもあったのだ。その結果は意外にも語る会の勝ち。我輩もなかなかやるのである。なーんてね。

限界
ずっと何も食べていない。そして、ひたすら野菜スープを飲み続けている。だけど、お腹の痛みはなくなってきた。多分、野菜スープが効いてきたのだと思う。体重も70キロを切った。そろそろ限界である。明日の駅立ちは志木。あの市長選以来の駅立ちだ。
たかやん


1月15日 (木)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第15弾! 2009.1.15(木)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第15弾! 2009.1.15(木)   たかやん

5時
やっと腹痛が治まった。野菜スープのお陰である。今日は久しぶりの志木駅。前回配ったときには「平松大佑」に完敗した場所である。それにしても大佑のパワーは底が知れない。県会議員を飛び越して、国会議員になりそうな気がする。


いつもは自転車で行くのだが、体力が無いのと、汗をかいて冷えるのは嫌なので車で行くことにした。5時35分、家をでる。駅前の駐車場に車を止め、5時55分配り始める。

思いのほか・・
久しぶりの志木駅だから、見向きもされないのでは・・・と、心配していたが、思いの他受け取ってくれる人が多かった。もしかしたら、市長選のときのことを覚えていてくれたのかも知れない・・・そんなことを考えながら配っていた。

二中3年2組
最初にしっかりと抱き合ったのが晶子。「たかやん!」「ひさしぶり!」「少し痩せたか?」「大丈夫」「行ってらっしゃい!」「行って来まーす!」そして佐知子。「おはよう!」「おはよう!」「元気だったか?」「うん」次は佳代。「たかやん!」「おう、おはよう!」「ひさしぶり」「うん、頑張ってね!」そしてめぐ。「たかやん!」「おう」めぐともしっかりと抱き合った。「初めてだね」「うん」「やっと会えたね」「うん。気をつけてね!」「はーい!行ってきます!」「行ってらっしゃい!」僕の愛する二中の3年2組の子達に僕は笑顔を貰った。彼女達と会えたことが嬉しくて、僕はずっと笑っていたからである。

目が回った
志木駅はひばりが丘よりも人が多い。時間帯によっては100人くらいにスルーされるので、誰に渡したらいいのか分からなくなり・・・目が回ってしまった。それでも2組の子達とサッカー部に励まされて、僕は寒い中幸せな気持ちで駅立ちをしたのだった。

走太
陵平のお兄ちゃんの走太にも会った。あの時高校生だった走太はもう社会人。爽やかな笑顔を残して駅に消えていった。

小林先生
志木駅から降りてきた人にも笑顔を貰った。学校教育部長だった小林先生もその一人。前から笑顔の素敵な人だったけど、小学校の校長先生になって、さらに磨きがかかったらしい。他にも中学校の先生や市役所の人にも元気を貰ったのだった。

8時
久しぶりの志木だが、今日は8時で終了。配りすぎると、ポスティングする「一生懸命」が足りなくなるので、丁度いいかもしれない。明日の新座駅もそれでいこう。

朝ご飯
久しぶりに朝ご飯を食べた。それも母さんがまだ食べている時間に戻ってこれたので、それもよかった。味噌汁が美味かったあ・・・。

おでん
お昼前に大泉のおばあちゃんに「おでん」の差し入れ。おばあちゃんはおじいちゃんが亡くなってから、「作る気がしない」らしいのだ。孫としてできることを精一杯やりたい。と、昨夜のおでんを差し入れしたのだった。「ありがとう!」お祖母ちゃんの笑顔で僕らも笑顔になった。

片山地区
少し時間があったので、久しぶりに片山地区にポスティング。懐かしい名前を思い出し、顔を思い浮かべてまた一人で笑っていた。

イカ墨カレー
今日の晩御飯はイカ墨カレー。これがまたなかなか旨い訳で・・・・。「変な匂いがする」と言っていた空も「美味しい」としっかり食べていた。それにしても、食べられるということは幸せなこと。腹痛のお陰で、食べられる幸せを感じることができたのだ。

駅立ち最終日
明日は新座駅で12月号の「一生懸命」を配る予定だ。4日連続の駅立ちの最終日。どんな出会いが待っているか・・・分からないところがドラマである。楽しみ、楽しみ。
たかやん


1月16日 (金)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第16弾! 2009.1.16(金)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第16弾! 2009.1.16(金)   たかやん

駅立ち最終日
今日は駅立ちの最終日。5時に起きて、準備を始める。お腹の調子は絶好調。野菜スープのお陰で完全復活したようだ。


今日も車で新座駅へ。自転車だと冷えるか汗をかくかのどっちがなので、本当に楽チンだった。

5時55分
駅前の駐車場に車を停めて・・・久しぶりの新座駅南口で立ち始めた。僕のことを覚えていてくれる人などいなかも・・・・ところが、あっという間に「一生懸命」が減っていくのだ。人は少ないのだが、貰ってくる人の確立が高い。何とも不思議な印象だった。

探す
今日はこんな実験もしてみた。他の駅のように誰にでも声をかけるのではなくて、「いい気」を出している人になるべく声をかけるようにしたのだ。僕のチラシを貰ってくれる人は圧倒的に「いい気」「いい表情」をしている人が多いので、僕のほうからそういう顔や気を持っている人のほうにアプローチしたのである。

成功率
前から二人来るとする。瞬時にどっちが「いい人」か判断して、「いい人」だと思った人のほうに声をかける。それが3人でも4人でも誰か一人をまず選ぶ・・・そういう実験を一人で楽しみながらやってみると・・・かなり高い確立で成功したのである。チラシをもらいたくないという表情の人もいるので、そのほうがお互いに気持ちがいい。ひばりが丘や東久留米では貰わない人と貰ってくれる人の識別が大体できるようになったのだが、志木と新座はまだ全く分からない。やはり吉田よしのり県議や平松大佑大先生のように頻繁に立たないと駄目だなあ・・・・。

島田くによ
新座駅で思い出したのは島田くによさんのこと。彼女は駅立ちの前に新座駅の掃除をしてからやっていたのだ。あれは見習わないといけない。まず自分の周りを綺麗にしてからビラを配り始める・・・・。車で行けば、トングやビニール袋も積んでいけるし、帰りにはゴミももって帰れる・・・。来月の志木駅と新座駅ではやってみようと思う。2月の駅立ちも寒いだろうなあ・・・。

体操
寒いので新座駅と東久留米駅では体操をしながら駅立ちをしていた。ひばりが丘と志木ではそういう時間はない。人がどんどん押し寄せてくるからだ。だから手が悴んでくるのはひばりが丘と志木。新座と東久留米はそういう意味でちょっと暖かい。

ポスティング
明日からはポスティングの予定である。朝ご飯前は石神3丁目。それから野寺・栗原を中心にやろう。天気がいいといいなあ。空とも遊ばなくっちゃ・・・・。

新座民法
今月30日発行の1月号がもう直ぐ出来上がる・・・・。12月号を配る前に出来上がらないように頑張らないといけない。1ヶ月に一度でも大変なのだから、毎週共産党が発行している「新座民法」は凄いと思う。朝日新聞に「共産党員が増えている」という記事があった。自民・公明政権でぶっ壊してきた日本の社会。当然といえば当然である。

自民党
実は僕の父さんはバリバリの自民党だった。住栄作という法務大臣の選挙参謀だったのだから筋金入りだ。「政治は人だ」とよく言っていた。そういう意味では僕にも父さんのDNAが受け継がれている。政治は人なのだ。昔の自民党にはそういう人物が確かにいた。今の自民党にもそういう人はいるのだろう。だからこそ、民主党に政権を渡して、自民党の中でガラガラポンしたほうがいい。年齢や経験に関係なく、「民のことを思う政治家」だけが残れば、(相当数は少ないだろうけど)自民党の時代がまた来るかも知れない。


1月17日 (土)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第17弾! 2009.1.17(土)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第17弾! 2009.1.17(土)   たかやん

黒目川
久しぶりに母さんと黒目川を散歩した。勿論、トングとビニール袋を持って・・・・
黒目川には小学生の女の子が二人、犬と一緒に座って鳥の群れを見ていた。その姿が余りにも可愛いので、僕が向こう岸から「おはよう!」と手を振ると、「おはようございまーす!」と笑顔を返してくれた。

笑顔
そして土手のゴミを拾っていると、「たかやん!」と土手の上から声がかかった。五中の卒業生のお兄ちゃんのM君だった。そこに六中の卒業生のお父さんのSさんが通りかかり・・・僕らは笑顔で朝の挨拶をしたのだった。いやあ、黒目川は本当にいい川なのだ。

石神3丁目
朝ご飯前にやるはずのポスティングが朝ご飯の後になった。配っているうちに友達の家に上がりこみ、話に夢中になる。お茶をご馳走になってから続きを配る。途中のスーパーではいきなり「焼き芋」をご馳走になった。なんだか申し訳ない気持ちで一杯になる。

焼き芋
母さんが「美味しい」「美味しい」と喜んで食べた。空も「美味しい」を連発。温かくて美味しい焼き芋は我が家の昼ごはんになったのだった。

お手伝い
「空も行く!」と、ポスティングのお手伝いを申し出る空。空は自転車に乗り、僕はそのよこを歩く・・・というポスティングが始まった。暫くは大丈夫だったのだが、「パパ、おしっこ」と空。20分ほどで家に引き返したのだった。

お手伝い2
「おしっこしたらまた行こうね!」と空。今度は二人で歩いて行った。黒目川の土手で六中テニス部の教え子K君のお母さんにバッタリ。「あらまあ・・」「あれまあ・・」と立ち話。その後もはやり別の六中テニス部の教え子のF君のお母さんと立ち話・・・なかなか楽しいポスティングになったのだった。

おじいちゃんの席
午後は大泉のお祖母ちゃんの家に遊びに行った。僕はおじいちゃんが座っていた場所に座った。その場所はぽかぽかしていて気持ちのいい席で・・・僕はいつの間にか眠ってしまった。おばあちゃんに温かいものを・・・と思って買い物をしていったのだが、結局おばあちゃんにご馳走になって、お土産を一杯もらって帰ってきたのだった。

14年前
多分、毎年書いていると思うが「今日は神戸の大震災」の日だ。そして14年前の僕は「六中の教師でありながらホームレス」という滅茶苦茶な奴だった。小学校6年の亮の安全を考えて、僕達は六中の噴水の前にパジェロを停めて寝ていた。今なら「教育委員会」からふざけるな!学校を私物化するな!と怒られただろう。でも当時は「生きた警備保障」とも言われていたのだ。用務員さんよりも早く来て(当たり前か)学校の鍵を開けるのも僕の仕事だった。そう僕らの世代はよく学校に泊まったものだ。体育祭、卒業式、文化祭・・・。子供たちだって学校に泊まった。多分、みんな学校が好きで、好きでたまらなかったのだろう。「俺の学校だ!」という意識が強かったのだろう。だから、学校に泊まることにそれほどの違和感はなかったのだと思う。

あの日の朝
マイナス5度というとんでもない寒さだった。パジェロの窓は真っ白に凍っていた。僕は余りの寒さに夜中に目が覚め、朝まで亮にひっついて寝ていたくらいだ。

幸せ1
神戸の人たちはあの日から「トイレ無し」「水無し」「風呂無し」「布団なし」「家無し」「食べ物無し」という生活が何日か続いた。僕らには六中の外トイレがあったし、水もあった。風呂は入れてもらえたし、食べ物も大丈夫だった。家と布団はなかったけれど、パジェロと寝袋があった。そして何より父子の絆があったから幸せだった。14年前、僕の家族はたった一人、亮だけだった。だけど僕には沢山の仲間と教え子達がいた。それもまた暖かい家族のような存在だったのだ。

幸せ2
14年前は外で寝ていたが、今は暖かい布団の上で眠れる。14年前は六中の外トイレが僕らのトイレだったが、今はウォッシュレット付の暖かい便座に座れる。14年前は親友の家のお風呂に二人で入れてもらっていたが、今は我が家にお風呂がある。あの14年前だって幸せだったのだから、今は何にもいらないくらい幸せなのかも知れない。阪神大震災の日は「昔の幸せ」と「今の幸せ」をかみ締めさせてくれる日でもあるのだ。

オバマ
イスラエルとパレスチナの戦闘(かなり一方的だが)が止まらない。イラクからは撤退するといったオバマがこの問題にはコメントがない。多分、ガザやアフガニスタンから撤退することはNo, we can’t. なのだろう。ブッシュがオバマに代わったとしても、アメリカの論理が変わるわけではない。アメリカの軍需産業や石油産業の都合は大統領が変わっても、急には変わらない。都合に合わない大統領は消されてきた歴史があるのだ。日本を利用するだけして、消すことくらい朝飯前だと思っていないと馬鹿をみる。今こそRemember Hirosima. Remember Nagasaki.である。報復しろというのではない。アメリカはそういう国だということを何十年経っても忘れるなということだ。

栗原
明日の朝こそ栗原へポスティングへ行こう!懐かしい子供たちのところへ行こう。


1月18日 (日)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第18弾! 2009.1.18(日)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第18弾! 2009.1.18(日)   たかやん

はあ?
それは母さんとの散歩のときに起こった。いつものようにトングを持って黒目川のゴミ拾いをしていると・・・向こう岸で河に何か白い物をそっと捨てた男がいたのだ。その瞬間!「はあ?」と大声を出す僕。ビクっとこっちを見る男。「川はゴミ箱じゃねえぞ!」と叫ぶ僕。聞こえない振りをして足早に立ち去る男。それが40過ぎの身なりのいい男なのだ。僕は向こう岸に走っていって・・・その白いゴミを川の中から拾った。それは、ティッシューで包んだ犬のウンコだった。「まったく定額給付金のようなことをしやがって・・・・」川にティッシュごと捨てるなら、そのままウンコさせたほうがマシだろう。自分は犬のウンコの始末をしています!って顔をしながら・・・そういうことを平然とやるのだから、酷い話だ。黒目川はお前の家の便所じゃないぞ!このタコが!!

迷路
朝ご飯の後は栗原5丁目にポスティング。懐かしい家庭訪問地域を久しぶり歩いた。地図を見て、行く経路を決めていったのだが・・・・迷路のような場所があり、結構大変だった。それでも10年間も家庭訪問をした場所なのだ。その内、勘も冴えてきて・・・・寒かったけれど、楽しいポスティングになったのだった。

駅立ち
「おはようございます!」見覚えのある顔の男性はひばりが丘で僕の「一生懸命」を貰ってくれる人だった。「おはようございます。寒いのにご苦労様です。いつも読んでますよ。」「あ、ありがとうございます」「うちの娘も五中なんです」「そうですか!」「頑張ってください!」「ありがとうございます」駅立ちをしていると、こんなことが起こるのだ。1月号を配るのが楽しみになってくる。

栗原
お昼過ぎまで歩きに歩いたのだが、栗原の一部しか行けなかった。途中でおしゃべりをしたせいもあるが、それもまた大切なことな訳で・・・それにしても栗原は広い。引き続き、明日からも一歩一歩地道に歩いていくことにしよう。栗原が終わったら、野寺。野寺が終わったら道場、堀の内。そして石神が終わったら、西堀、新堀。ポスティングは果てしなく続きそうだ・・・。っていうか、終わらないような気がする。

イトーヨーカ堂
おばあちゃんの洋服を買いに、イトーヨーカ堂へ出かけた。3階で六中のテニス部のMと会った。彼女もまたいつも東久留米で僕の「一生懸命」を貰ってくれる一人だ。「Mのお父さんも持って帰ってきて、家族みんなで読んでいるんですよ。」と、お母さん。あの時の可愛い小学生はもう高校受験生。「空もあと10年すると、こんなに大きくなっちゃうんだなあ・・」と呟いた僕であった。


今日は買い物の間中、空と手を繋いでいた。恋人と手を繋ぐようなドキドキ感はないが(当たり前か)不思議な安心感がある。空も自然に手を出すし、僕も自然に手を出す。そして手を繋ぎながら、自分の存在が空にはどうしても必要なのだなあ・・・そう思うのである。朝はお袋と手を繋ぎ、夕方は息子と手を繋ぐ。いつも家族の誰かと手をつなげる。僕は幸せである。

冷や汗
ウエルパークでごま油とトイレットペーパーとポストイットを買おうとした。そう買おうとしたのだが、「ごめん。お金が足りない・・・」「ははは、よくあることですよね」「ポストイット、キャンセルしてください」「はーい」そう、お財布の中身が殆ど無かったのだ。昨日の買い物のときに、全財産をママに渡していたのだ・・・・オーマイ・・・ガッ!給料日は明後日。今超貧乏なあたし。



1月19日 (月)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第19弾! 2009.1.19(月)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第19弾! 2009.1.19(月)   たかやん

パパ、鰹節お願い!
と、空。「ふーい。了解」と僕。我が家の朝ご飯は、僕の鰹節削りにかかっているのだ。どんなに味噌が良くても、削りたての鰹節がないと、どうにもならない訳で・・・・今朝もシャカシャカ削ったのだった。

栗原1丁目
朝ご飯の後は栗原1丁目へ。途中で共産党の街頭演説チームに遭遇する。議員以外の人たちも、ああやって街頭演説をするのだから凄い。僕もメガホンが欲しくなった。

嬉しいメール
「五中卒業生のYです。昨日『一生懸命』がポストに届いていました。なつかしい、たかやんの字があったのでうれしかったよ!たかやんにとっては顔も覚えてない生徒だと思うけど、あたしはよく覚えてるよ。中3の時、給食後の五時間目たかやんの理科の授業で、みんな眠そうにしていたら、「今日はいい天気だなぁ。みんなで昼寝するか?」って言って、たかやんのギター聞きながら寝た事。社会の歴史が苦手でたかやんに言ったら、歴史のテープをくれた事。3年の時、サトセン(10組で佐藤卓也先生が担任だった)が、妥当1組で頑張ったけど、何をやっても勝てなかった事。いっぱい思い出があります。そうそう、1年の時、担任が甲神先生でこわかったけど大好きだったなぁ。あの時の先生達は「うちのクラスは一番だ!」って言ってくれたけど、今はそんな先生達いるのかなぁ。それだけで子供達は自信がつくのにね。たかやんが頑張っているので私も頑張るよ!」
ポスティングから帰ってくると、こんなメールが届いていた。勿論Fちゃんのことは覚えている。基本的には教えた子達は忘れない主義なのだ。昨日のポスティングでもう反応があったことが嬉しかった。子供たちは僕が忘れてしまったことを思い出させてくれる。「歴史のテープ」そんなこともあったかも知れない・・・・。この学年は、甲神先生に本当に可愛がられた学年。そして僕たち教師が本当に仲が良かった学年だった。僕らがいっつも笑っていたから、子供たちも笑っていた。そんな学年だった。僕自身、学年主任の甲神先生に認められて、自信を持って子供たちと生活していた。僕が全く孤独を感じない学年はこの学年だけだったかもしれない。

24時間
12月号の配布中だが、もう1月号が出来上がる。今欲しいのは時間。一日が24時間じゃあ、ちょっと少なすぎるかな・・・。86400秒をもっと有効に使わないといけないな。

にいざ教育委員会
今日は「にいざ教育委員会」の方にもメールが来た。ありがたいことだ。ホームページも更新しなくては・・・・


1月20日 (火)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第20弾! 2009.1.20(火)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第20弾! 2009.1.20(火)   たかやん

散歩
今朝も黒目川への散歩で一日がスタートした。母さんは84歳。そろそろ足元が怪しくなってきた。朝の体操前に行ってしまったので、体が動かなかったらしいのだが・・・。この散歩、あと何日行けるだろう。母さんが病気になっても、僕が病気になっても行けない散歩。散歩に行けることに感謝しながら、毎日を大切に生きていこうと思う。

テニス
火曜日はテニスの日。90%が女性のチームは賑やかである。今日はその中に妊婦が二人。予定日が来月という姉と7月という妹・・・その二人が一緒にテニスをやっているのだから、このチームはどうかしている。テニスはいい。老若男女、妊婦でもできるスポーツらしい・・・。

メール
今日は「にいざ教育委員会」宛に市内の中学生からこんなメールが来た。
「私は、何回も『別室』と呼ばれてぃる空き部屋の不衛生な部屋に入れられた事があります。先生と1対1で話をしたり勉強をしたりしました。3日間別室登校をしたこともありました。その後はまた授業に戻り生活していましたが…少しでも悪い事をすると別室に入れられ、授業を受ける事ができませんでした。いくら反省するために別室に入れられても同じ事を繰り返し、最終的には謹慎になった事もありました。別室に入れられた事によって良くなった事は1つもありません。これからも、悪い事をしたら別室に入れるという方針を続けるのであれば私は『反対』です。あの部屋に行った事で教室にも入りづらくなり勉強も追い付かず結局私は別室指導のせいで駄目になりました。だから、今年からは同じことを繰り返して欲しくありません。」

それに対する僕の回答は
「不衛生な部屋」・・・想像がつきます。悲しい経験をしたんですね。基本的には「別室指導」「別室登校」というのには反対です。それは君たちの基本的な「権利」を奪う指導方法だからです。学校は「義務教育」ですが、それは親に課せられた義務であって、君たち生徒には「学ぶ権利」しかありません。「別室」で指導するときは、他の生徒に分からないように叱るときです。別室そのものを罰として使うことはあってはいけません。少なくても、我々の時代はそうでした。誉めるときはみんなの前で誉める。叱るときはみんなに分からないように叱る。それが僕達の時代の教師の暗黙のルールでした。君は何をしたのでしょうね。喧嘩ですか?タバコ?それとも飲酒。深夜徘徊・・・色々ありますね。別になんだっていい。聞くのはやめておきます。昔の中学生だって色々やってくれました。喧嘩も、タバコも飲酒も万引きも家出も・・・・・昔の教師だって、夜中まで中学生と格闘していたんです。それでも「別室」は話を聞くときだけで、なるべく早く教室に帰したものです。君たちが育つのは「教室」だからです。そのことを昔の教師達は知っていました。喧嘩もタバコも酒も「げんこつ」や「説教」で終わらせる。それが僕らのやり方でした。体罰はいけないのは分かっています。それでも「げんこつ」はありでした。僕の「げんこつ」で怪我をした生徒はいません。涙を流した生徒は数え切れないほどいますが。訴えられたことは一度もありません。それもまた子供たちと僕達との「絆」の強さかも知れません。D君。よくメールをくれたね。ありがとう。ひとつだけ、君に伝えたいことがあります。それは「教育を受ける権利」を大切にして欲しいということです。D君の権利は勿論、君のクラスメート全員に同じ権利があるんだよ。その権利は友達も先生も親も教育委員会も誰も奪うことはできなんだ。君自身のその権利も、友達のその権利も大切にして欲しい。それが君に、いや君たちに伝えたい大事なことです。「別室指導」を行っている学校は不幸です。生徒はよくならず、先生は疲れ果てるからです。中学生に根っから悪い子などいません。悪くしているのは大人です。新座の先生に根っから悪い先生もまたいません。残念ながら「やり方」を間違えているだけです。君たちも、先生達も「教育を受ける権利」を大切にしたら・・・それだけで「別室」はなくなります。それが僕からD君への回答です。

受験とインフルエンザ
いよいよ県内私立の受験が始まる。こういうときにインフルエンザが流行るのだから困ったものだ。「嗽」「手洗い」「マスク」「湿度を上げる」「大蒜を部屋につるす」を徹底的にやるしかない。前半の三つは常識として、後半の二つの効き目もかなりのものだ。大人ならニンニク酒という手もある。インフルエンザだけにはかかりたくないものである。

オバマの演説
あと数時間でオバマの演説が始まるらしい。きっとリンカーンやケネディのように「歴史に残るスピーチ」をするのだろう。アメリカ国民が奮い立つような、そんなスピーチを聞いてから寝るか、このまま寝るか・・・ちょっと悩んでいる。

太郎ちゃん
テレビの国会中継を見ていると、太郎ちゃんが可哀そうに見えてくる。国民から嫌われて、嫌われて・・・自民党員からも嫌われて・・・オバマはいいなあ・・と太郎ちゃんは思っているだろう。本当は僕もオバマの演説よりも、日本の首相と演説を聞きたい。心が震えるような演説をする総理大臣が出てこないかなあ・・・・。



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