Diary 2006. 8
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8月11日 (金)  「たかやん議員日記」2006.第223弾!

「たかやん議員日記」2006.第223弾!  8月11日(金)

シエラレオネの空から・・・
崇からメールがきた。シエラレオネのことを、そしてアフリカの現状を少しだけ知ることができた。熱帯雨林なのに、今の季節日本より涼しいとは・・・。利権争いに内乱・・・思いのほか平穏と崇は言っているが、何が起こるか分からない不安はいつも抱えているはずだ。家族を日本に残しての仕事・・・今の僕には何一つ真似することができない。ただただ、彼の安全を祈り、そして応援するだけである。

たかやんへ

メールをありがとうございました。
アフリカの国々で起こっている内戦の多くは、石油や鉱物資源開発に関わる利権争いが絡んでおり、シエラレオネの場合、きっかけはダイヤモンド採掘に関わる利権に大統領の汚職が絡んだものでした。
国の農業試験場も反乱軍の焼き討ちに遭い、ある研究者は、海外に会議で出張していた最中に、家を焼き払われてしまったそうです。

仕事を受注したときは、大変なところに行くのだと覚悟しましたが、来てみると、思いの外平穏でした。今は雨季の真っ最中で、半端ではない雨が降ります。8月の平均降雨量は800mm、年降雨量は3,000mmです。しかし、雨が降る分、日が照ることが少なく、気温は上がりません。熱帯ですが、今の時期は日本よりはるかに涼しいです。

過去四半世紀にわたり、世界最貧国だった国で、非常に高い乳幼児死亡率のために平均寿命は38才と言われています。農民は必至に作物を栽培していますが、自給できるまでには至っていません。作物を栽培している今の時期が、昨年収穫した食料が消費し尽くされ、一番食料が足りなくなる時期です。なんとか1年を通じて自分で作った作物を食べ続けられるよう、農民、普及員と一緒に考え、彼らの自立を支援したいと考えています。

高邑さんも議員の仕事、ご苦労が多いと思います。日本の政治の未熟さは、私も地元の議会の有様を見聞きして理解しているつもりでいます。いつか、お会いしてお話を聞かせていただきたいと思っています。

お身体に気をつけて、お過ごしください。


めっちゃでたよ!
「おしっこ!」と教えられるようになった空。今日はオシッコをしたあと、「めっちゃでたよ!」と報告してくれた。いつの間にか「めっちゃ」などという言葉を使うようになったのだから笑ってしまう。そう言えば昨日は僕のことを「ともや」「おとうさん」「パパ」と三種類の呼び方で呼んでいた。ママと空との会話が面白い。(面接風・・・)ママ「お名前を教えてください」空「たかむら そらです」ママ「お母さんのお名前を教えてください」空「たかむら ひとみです」ママ「お父さんのお名前を教えてください」空「たかむら パパです」

テロ
9.11を思い出す。アメリカの自作自演という説もあるが、たくさんの人が亡くなったことにはかわりない。戦争とテロは違うという人もいるが、人を殺すことにはかわりない。報復の戦争なら、市民を殺してもいいと思うことがどうかしている。9.11の後、いったいどれだけの人が9.11のために死んだのだろう。報復が報復を呼んで、人がどんどん死んでいく。アフリカの内乱と同じ構図だ。儲かるのは武器を作っている奴らと、売っている奴ら。彼らはテロも戦争も大歓迎・・・・テロや戦争を無理やり起してでも、自分が儲かればそれでいい。そう考えると、9.11も確かに怪しい・・・。        たかやん


8月12日 (土)  「たかやん議員日記」2006.第224弾! 

「たかやん議員日記」2006.第224弾!  8月12日(土)


土曜の朝は汗をかく。1週間の心の汚れを土曜の朝落とす。本当は毎日落とした方がいいのだろうけれど、なかなかそうもいかない。今朝もTシャツがグショグショになるくらい、みんなでテニスをやった。2時間テニスをやって、一人100円。これが健康の源になる。

アフターサービス
昔の学級通信に「勉強の相談は0時まで、恋の相談は1時まで、人生の相談は2時まで受け付けます!」と書いたことがあった。「アフターサービスは完璧です。卒業してからも遠慮せず電話してください。」そう書いたこともある。

「先生。たかやん・・Mです。今でも相談に乗ってくれますか?」『勿論だよ。どうした?』Mからの電話は卒業してから初めてだった。

時には朝の4時、5時に電話をしてくる子もいる。卒業したって、みんな悩んでいるのだ。いくら大きくなったって・・・時々誰かに話をしたくなる。それでいいのだと思う。「みんなへのアフターサービスは僕が死ぬまで有効だよ。」そう言ってたことを子ども達は覚えていてくれたのだと思う。

この歳になっても、自分のことを愛してくれて、叱ってくれる。アドヴァイスをしてくれる・・・そういう人の存在を願うことがある。もうすぐ死んだ父さんの歳に近づくのに、今でも父さんがいたらなあ・・・そう思うことがある。いくつになっても父さんだけは追い越せそうな気がしない。追い越したくもないし、越す気もないが・・・

11月11日
最初のクラス、五中の3年4組のクラス会が11月の11日に決まった。去年亡くなったさかえのお墓参りをして、夕方からはみんなで語るという設定だ。夜8時から数人で集まって相談をして決めた。15歳で卒業した子達が、今年44歳。色々情報を集め、電話をしまくり、クラスの大半と連絡がつきそうだ。29年ぶりに電話で声を聞いた子達も何人かいた。お母さんの中には「教育問題だけではなくて、福祉の方もしっかりお願いします!」と期待を込めて言ってくれる人もいた。教え子と言ったって、クラスメートのようなものだ。兄弟といったほうがいいかも知れない。あの頃の僕を、僕以上に知っている彼らと会うのが、今から楽しみである。
「何とかさかえちゃんを呼ぶ方法はないかな・・・・」そう寂しそうに呟いたT君の言葉が印象的だった。
                             たかやん



8月13日 (日)  「たかやん議員日記」2006.第225弾! 

「たかやん議員日記」2006.第225弾!   8月13日(日)

57歳
今日も幼児から57歳までのテニスで一日が始まった。子ども達にテニスを教えるのは勿論楽しいのだが、57歳の生徒(塾の教え子のお母さん)に教えるのも面白い。不思議なことにどんどん彼女のテニスが進化しているのだ。テニスを始めた時期がおそいということもあるのだろうが、“大人のテニスはなかなか変わらない。”そういう定説が覆っていくのを見るのは楽しい。子ども達の可能性は確かに凄い。だけど半世紀生きた人間だって、まだまだ可能性がある。そういうことを彼女は僕に教えてくれている。テニスは楽しい・・・・57歳でもまるで中学校1年生のような瞳をみることができるから・・・。僕のテニスももしかしたら、まだまだこれからなのかも知れない。

靖国
8月15日に小泉純一郎が靖国に行くかどうかが話題になっている。彼は行くだろう・・・行きたければ行けばいい。僕はそう思う。国民の半数以上が反対している行動を無理やりすれば、自民党の時代が終わる日が近づくから。悪法も無理やり通せばいい。消費税もどんどん上げればいい・・・・・。

韓国や中国を無視したければ、すればいい。必ずしっぺ返しがくるだろう。「隣人を好きになるには時間がかかるが、嫌いになるのは実に簡単なことなのだ。」

日中戦争
NHKスペシャル?を見た。盧溝橋事件の真相がよく分かった。そして南京大虐殺。12月南京。日本軍の南京入城を前に、蒋介石の国民党軍の兵士達は武器を捨て、軍服を脱いで逃亡した。そのために、数え切れないくらいの男達が捕らえられ、殺されていった。ある兵隊は「若者を捕獲して、揚子江に連行して銃殺した。」と語っていた。捕虜として捕らえられた中国兵を連行し、殲滅せよ。という当時の陸軍の命令の記録もあった。川に飛び込んだ中国人を狙撃したという記録もある。勿論殺されたのは男達だけではなかった。歩兵第七連隊だけでも掃討(殺した人)の数は6670人と記録されている。

「私は屈服して滅亡するより、抵抗して死ぬことを選ぶ。」と言ったのは蒋介石。南京駐在の外国人、ジョン・マギーのフィルムには日本軍が何千人もの民間人を機関銃・ライフル・手榴弾で殺害した様子が映っている。あの戦争で死んだ日本人は310万人。中国人は1000万人以上・・・アメリカに虐殺された日本人もいれば、日本の軍隊に殺された日本の民間人もいた。共産党と国民党の殺し合いもあっただろうが、日本軍に殺された中国の民間人の数も、数えきれないのだ。「南京大虐殺」は世界中が知っている事実だったのだ。殺された数は分からない・・・確かなのは、分からないくらい殺したということだ。戦争はそういうものなのだ。相手を殺して、勲章をもらう。軍人だろうが、民間人だろうが、病人だろうが、子どもだろうが・・・人を殺すことが仕事になり、どんどん感覚が麻痺していく。みんな狂って、みんなが「精神病」になってしまう。それが戦争だ。「広島」や「長崎」、「沖縄」を忘れてはいけないように、「アウシュビッツ」や「南京」や「ソンミ」も忘れてはいけないのだ。    たかやん


8月14日 (月)  「たかやん議員日記」2006.第226弾! 

「たかやん議員日記」2006.第226弾!   8月14日(月)

お盆
僕らが小さい頃、お盆の時期には必ず富山の家に行っていた。僕らにとっては「夏休み」の楽しい思い出なのだが、父さん達にしてみれば「お盆」という大切な時間だったのだろう。多くの人が「お盆休み」で、その時期に帰省する仕組みになっているのだから、満員列車や大渋滞になるのはしょうがない・・・

墓参り
お墓を掃除して、ご先祖様に手を合わせる。当たり前のようなことが最近できていない。父さんはいつも自分の中にいるとしても、祖父ちゃんや祖母ちゃん、そして若くして戦死した叔父さんのことは、田舎に行って墓参りをする以外はなかなか思い出すこともない。お盆には富山に行けなかったけど、今度母さんを迎えに行くときに、お墓を掃除して、ちゃんと手を合わせて来ようと思う。

準急白山
僕達が使っていた汽車は準急白山。勿論当時は蒸気機関車でトンネルの度に乗客全員が窓を閉めるという、連帯感を毎回体験していた。トンネルが近づくと汽笛がなるのだが、ちょっとタイミングが遅れると、白山の煙が客車内に入ってきて、みんな煤だらけになってしまう。僕達3兄弟も何度も真っ黒になって、お互いの顔を見ては大笑いしたものだ・・・今の冷房がきいた新幹線では考えられないが・・・。

三兄弟
小さい頃はお袋が僕達三兄弟を連れて白山に乗せていた。混んでいるときは「網棚」をハンモックにして寝かされたこともある。今思えば、飲み物、食べ物、トイレは勿論、体の自由を制限されての長旅(多分13時間くらい)だった訳で・・・僕達もかなり我慢をしての帰省だった。それでも辛かったという記憶よりも、「楽しかったなあ・・」「そんなこともあったよね。」と楽しい記憶の方が強いのは、こどもとして幸せなことだと思う。どんなに貧乏でも辛い思いしても、家族がみんな元気で一緒にいられたら、人は幸せなのかも知れない。

家族
どんな家族でもいつかはバラバラになる日が来る。僕の家の場合は僕が北海道の大学へ行くことで、物理的には崩壊を始めた。やがて父さん自身が転勤になり、上の兄貴は東京、したの兄貴は千葉と、父さん・母さん以外は綺麗にバラバラになっていった。でも、家族であることには変わりはなかったのだと思う。年に一度だけど、正月に父さんのところに全員が集まって、わいわいやっていたから・・・。やがてみんな結婚をして、それぞれの家族を持ち始めたころ・・・父さんは死んだ。貧乏でも楽しかった「ひとつの家族」が父さんの死によって、精神的にもバラバラになりはじめたのだ。

家族が強制的にバラバラになるのが戦争だ。どんな大義名分があっても、戦争は幸せな家族をバラバラにしてしまう。だから戦争は絶対嫌なのだ。

今でも僕らは家族だけれど、あの頃の家族とは全然違う。母さんは今一人でいるし、(冬から春にかけては我が家の一員)、三兄弟もそれぞれ別の家族がいる。残念ながら、その三家族が全部一緒になることはない。そういう意味でも、一つの家族が父さんの死によって終わってしまったのだと思う。お盆というのは、「家族」にとって大切な、大切な時間なのかも知れない。昔の家族を思い出して、昔の家族と再会して、今の家族を大切にする・・・そういう時間なのかも知れない。    たかやん


8月15日 (火)  「たかやん議員日記」2006.第227弾! 

「たかやん議員日記」2006.第227弾!   8月15日(火)

靖国
やはり小泉純一郎は靖国を参拝した。「公約を果たした」ということらしい。国益よりも、自分の公約の方が大切だったのだろう。当選御礼といったところか・・・。ああいう人間を長い間、総理大臣にしてしまったのは僕達国民なのだから、僕らにだって責任はある。「郵政民営化」の言葉に騙されたのだ。今、国民生活が苦しいのも彼が総理であったことと大いに関係があるという当たり前のことに気づかなくては・・・。

「韓国や中国の言いなりにできるか!」という人たちも沢山いるが、それなら同じように「アメリカの言いなりにできるか!」と元気よく言って欲しい。国民が災害にあっても、殆ど知らん振りの国が「思いやり予算」でアメリカ軍にはジャブジャブ血税を使うのだからひどい話だ。

韓国や中国の反発はこれからだ。それはどういう形で出てくるか分からないが、いろんな意味で日本にとってマイナスなことは間違いない。

僕の叔父は靖国に祀られている。祖母ちゃんは毎年靖国にお参りに行っていた。その感情が正しいとか、間違っているとかは言えるわけがない。自分の愛する息子が、赤紙一枚で召集され、成人するまえに異国の地でアメリカの飛行機の爆撃をうけて、戦死してしまったのだ。その息子が、靖国にいる。祖母ちゃんはそう思っていたかったのだろう。それこそ心の問題なのだ。靖国に行けば、息子に会える。そう思っている母親の気持ちは誰も変えることはできない。

でも遺族の中には祀って欲しくない人たちもいるのだ。その気持ちを無視して、一宗教法人が勝手に祀ってしまう・・・それはおかしい。皇軍として戦い、死んでいった人たちは英霊になり、原爆や大空襲で死んでいった人たちは祀られることはない・・・人の命を勝手に区別することもおかしい。

A級戦犯
「あの東京裁判は戦勝国の軍事法廷なのだから、一方的に裁かれたわけであってA級戦犯そのものが存在しないのだ。」という人たちもいる。仮にそれが正しいとして。では、310万の日本人を死なせてしまったのはいったい誰の責任なのだ。アジアで2000万以上の人間が死んでいった(殺した)責任は、いったい誰にあるのだ。日本人自身がその結論を出さないで、「あれは仕方なくやった戦争だったんだ。」「アジアの独立のためにやった戦争だったのだ。」「数千万人死んでしまったけどね。」「しょうがなかったんだ」「責任なんか誰にもないのさ」と自己弁護をしながら、「お金で買えないものはない!」とアジアで偉そうにしていたら・・・・あっという間に「日本沈没」になってしまうのではないだろうか。

「今の日本は先の戦争で死んでいった英霊達のお陰でこんなに平和な豊な国になったのです。」と小泉純一郎は言うが、本当にそうだろうか・・・彼らがみんな生きていたら、もっと素晴らしい日本があったのではないだろうか。

第二次世界大戦の死者の多くは、ドイツと日本が侵略した地域に集中している。そして第一次世界大戦と一番違う点は、民間人の死者数が桁違いに多く、軍人以上に犠牲になっているということなのだ。ドイツと日本に共通していた「自分たちの民族の優越性」がたくさんの悲劇を生んだのだと思う。

近代兵器を使った戦争は相手の顔が見えない戦争だ。ミサイルを撃ち込む先に誰がいるのか・・・想像できるわけもない。エノラ・ゲイからリトルボーイを落としたアメリカ人達が想像できなかったように・・・。「黄色いサル」がどんなにもがき苦しんで死んでいっても、彼らにはどうでもいいことだったのかも知れないが・・・。

戦後61年
地球の温暖化で大変な時期に、戦争をやっている国がある。「正義の戦争だ」といって民間人が何人死のうが、平気で爆撃を続ける国がある。戦争に負けたことがないから、戦争をやめられないのかも知れない。日本は信じられないくらいの犠牲者を国内外に出し、戦争に負けた。日本はこの負けを忘れてはいけないのだ。戦後70年、戦後700年、戦後7000年というように、戦争とは無縁な国にならなくてはいけない。        たかやん




8月16日 (水)  「たかやん議員日記」2006.第228弾!

「たかやん議員日記」2006.第228弾!   8月16日(水)

嬉しい電話
「たかむら先生ですか?突然すいません・・・・」朝かかってきた電話は最初の教え子の英明からだった。「英明君?」「そうです!凄いなあ。よく覚えていましたね・・・」クラス会の打ち合わせでも、どうしても連絡が取れない一人だったのだが・・・・「眠れなくて・・・先生のHP見ていたら・・・・」「凄いなあ・・・クラス会やるんだよ!」「以心伝心ですね」クラス会のこと、日記に書いたら、もしかしたら誰からか連絡があるかも知れない・・・そう思っていたら、本当に電話があってビックリ!早速僕らは明日会うことになったのだった。


学校にいたときも、やめてからも僕の夢の大半は学校の夢である。登場人物は本当に色々で、五中、六中、二中の先生と生徒達が・・・目が覚めてから考えると不思議なくらい滅茶苦茶に登場する。どうして学校の夢ばかり見るのかというと・・・・学校は、それだけ楽しいところだからだと思う。子供たちにとっても、先生達にとっても学校という場所は本当に楽しいところなのだ。どんなドラマよりも面白いことが毎日起きて、主人公はいつも自分たち。予告編なしに、どんどん展開していく訳で・・・・
だから子ども達は勿論、先生達にも今の学校生活をもっともっと楽しんで欲しいと思うのだ。僕が学校に戻ることはもうないが、もう一度生まれてきたら、やっぱり学校の先生になると思う。今朝の夢も学校の夢。バスで旅行している夢だった。

拿捕
根室沖で漁船が拿捕され、しかも銃撃されて一人が死亡・・・・その海域で実際にロシア(当時はソ連)の脅威を実感したことのある僕らには、他人事には思えない。
僕達の乗船実習は千島でのサケ・マスの流し刺し網。9キロの長さの刺し網を夕方仕掛け、夜明け前から揚げる・・・という実習だった。途中ソ連領の島の近くと通ると、砲台が海の方を向いていて、不気味だったのを覚えている。そして拿捕・・・僕達は大学の練習船で、ソ連と共同でサケ・マスの調査をしていた。だから拿捕の心配はなかったが、僕達の後を着いてきた日本の漁船はソ連の警備艇に拿捕されてしまった。北洋での漁は命がけだ。海に落ちたらまず助からない。それに加えてソ連の脅威・・・僕は二度と北洋へは行きたくないと思った。30年以上前の話なのに、あの海域は何も変わっていないのだ。それにしても日本の漁船を銃撃するとは・・・武器を持っていないのに何故打つ必要があるのだ。
海で生きる男達の家族は、いつも覚悟を決めている。だけどそれは自然との闘いにおける覚悟であって、人に対する覚悟ではない。彼は海で命を落としたのではない。人の欲によって殺されたのだ。日本の政府はロシアにどういう態度を取るのだろう・・・拿捕された人たちは直ぐに返されるだろうか・・・遺体は・・・また一つの家族が幸せを奪われてしまった。


8月17日 (木)  「たかやん議員日記」2006.第229弾! 

「たかやん議員日記」2006.第229弾!  8月17日(木)

うーん、うーん、うんちっち
この二日空がトイレでふんばっている。「うーん」「うーん」と歯をくいしばっては・・・うんこを生むことに成功しているのだ。僕は空と一緒になって、「うーん」「うーん」と唸り、ポトッという音がした後は、空のお尻を拭く役をやっている。「空のうんちはパパの仕事ね」と任されてしまったようだ。どうやらトイレでのうんちが出来そうだ・・・と安心していたら、「パパ、おしりになにかがいる・・・」と空。パンツを覗くと・・うんちが半分でていた。「わおーっ!」「でてくる」「我慢しろ!」「キャーッ!」トイレに駆け込み、何とか間に合った。こんな風にして僕達も育ったのだろうか・・・兄貴のトイレが長くて、僕はトイレの前でパンツを脱いで待っていたのだが・・・我慢できずにウンコをしてしまった記憶がある。あれは多分幼稚園の頃・・・。

もっと強烈なのは新宿の百人町でのお話。“センター”のお風呂屋さんで、大好きな猛おじちゃんと一緒にお風呂に入っていて、急にうんこをしたくなり、トイレに行ったのだが・・・誰かが入っていてなかなか出てくれず、トイレと洗い場を行ったり来たりするうちに・・・洗い場でうんこをしてしまった。それを猛おじちゃんが、周りの人に謝りながら片付けてくれた・・・・半世紀ほど経っているのに記憶に残っているのだから恐ろしい。

最後は小学校の頃。帰りの学活で急にお腹が痛くなって・・・それがまた先生の話が長い。脂汗を流しながら我慢して、我慢して・・・学校のトイレには行けないという変なルールのようなものがあって・・・僕は死ぬ思いで自分の家に向っていた。そして我が家が見えてきて、少し気が緩んだときに、石に躓いて・・・ブリッ。あっと思ったら、もう遅くて・・・・ブリッ、ブリッ、ブリッ・・・しかも当時は半ズボン。脇から次々にうんこがはみ出て・・・もう目の前が真っ暗になった。誰にも見られないように隠れて家に帰ると、母さんが何にも言わないで、僕を洗って、そして汚れ物を片付けてくれた。母さんはきっと忘れているだろうな・・・凄く恥ずかしい思い出だけど、なんだかホンワカした思い出でもある。

この話をクラスですると子ども達は大喜びだった。特に「ブリッ」のところで悲鳴があがり・・大笑いに・・・

割腹
靖国批判をしたら、家に火をつけられる・・・嫌な国だ。嫌な時代だ・・・。人の頭の中が進歩していないということだ。どうせ腹を切るなら、ロシア大使館の前で切ればいいのに・・・。それにしたって、火をつけるのは余計だ。あの乗組員たちは国後で拘束されているというから嫌になる。国後・択捉・色丹・歯舞は日本の領土だ。洒落にもならない。ロシアの漁船が日本の領海で取った蟹を日本人が買って・・・・食べる。高く売れるからロシアの猟師達に欲がでる。日本の漁船が蟹を獲るのを見ていられなくなる・・・嫌だ、嫌だ・・・。

財布の中身
給料日前で財布の中身が軽くなった。「1000円も入ってないわよ」と言われ、あけてみると確かに数百円しか入ってない。(そういえば、幸弘の財布の中も・・・)貧乏人が見栄を張って1000円の西瓜を丸々一個買ったのがいけなかった。と反省する。我が家は暫く麺類が続きそうだ。
                                たかやん



8月18日 (金)  「たかやん議員日記」2006.第230弾! 

「たかやん議員日記」2006.第230弾!   8月18日(金)

亜熱帯
昨日、今日の気温と湿度・・・これはもう亜熱帯だ。ハリケーンや台風が今年も沢山襲来するだろう。勝手に地球を温暖化してしまった人間にしっぺ返しているようだ。日本は勿論、朝鮮半島や中国大陸でもひどい被害が起きているらしい。こういう時こそ、食糧支援や人道的支援をし合って、今までのわだかまりを解きほぐす努力をしたらいいと思う。

自衛隊
災害が起こると自衛隊は大活躍する。この52年間、そうすることで国民に愛されてきたような気がする。どこかの国と戦争をする為の自衛隊ではなくて、自国の国民を救うだけの為の自衛隊。戦車も戦闘機も持っているのに、税金の無駄遣いと言われながら国民が愛してきたのは、災害の時に命がけで助けに来てくれるからではないのか・・・・外国で災害が起きて、自衛隊出動。それで税金を使っても、納得すると思う・・・。

買い物
普段の仕事が夕方からなので、家族三人で買い物に行くことが多い。マルフジ、西友、イナゲヤ、ロジャース・・・行きつけのお肉屋さんが無くなり、野菜と豆腐以外は殆どがスーパーでの買い物になってしまった。最近そのスーパーで気がついたことは・・・おじさん達が多くなってきたということだ。僕より年配の人が多くなったのだ。リタイアして主夫業になったのかも知れないが・・・明らかに増えていると感じる今日この頃である。

幸せ1
僕の記憶にある我が家は、新宿の公務員住宅で裸電球。丸いちゃぶ台とみかん箱の本棚。大きなラジオ。布団。おじちゃんのベッド・・。テレビは隣りの岸野さんの家のテレビを見に行くか、公園のテレビかお風呂屋さんのテレビを見るしかなかった。初めてシャープの白黒テレビがきたのは小学校3年の時。今は白黒を探すが難しいくらいのテレビに滅茶苦茶嬉感動したのを覚えている。

洗濯機が来たときのお袋の喜びようといったらなかった。本当に幸せという顔だった。僕達も競ってローラーの脱水機で洗濯に参加した。今では誰でも見向きもしない洗濯機に僕らは幸せを感じていたのだ。

電話がきたのは小学校5年の時。その時の電話番号は03-368-1586。今でも覚えているのだから、かなり嬉しかったのだと思う。それまでは呼び出しで、近所の家から呼び出しがあるとき以外は母さんたちも電話に触ったこともなかった。携帯電話は勿論、プッシュフォンでさえ夢の時代だった。   たかやん


8月19日 (土)  「たかやん議員日記」2006.第231弾! 

「たかやん議員日記」2006.第231弾!  8月19日(土)

朝からビール
今朝のテニスの練習は余りにも汗をかき過ぎて、もうヘロヘロ・・・・どうしても我慢ができず、シャワーの後ビールを飲んでしまった。最近は殆ど飲んでいなかったので、350の缶ビール1本で一気に酔いがまわり・・・気がついたら、ソファーの上で1時間近くも寝ていた。

一期生
昼からは五中時代の一期生が遊びに来てくれて、楽しいひと時を過ごした。西大泉時代は勿論、石神井にも所沢にも来ていた子で、父さんとも会ったことのある子だ。

暴走族
彼とはよく一緒にバイクに乗った。4月から暫くはブリジストンの自転車で通っていたのだが、僕はGL400というホンだのバイクを買ったのだ。そのバイクで二人乗りをして、僕と猛は色んなところへ行った。猛はバイクが大好きだった。当時は暴走族の取り締まりも厳しく、僕らはそれにひっかかり・・・警官「だれのバイクだ?」『僕のです。』「親に買ってもらったのか?」『いえ、自分で買いました。』警官「お前ら、どんな関係だ?」・・・僕がこたえに困っていると、猛が「教師と生徒です。」すると警官が「どっちが生徒でどっちが教師だ!」・・・それくらい僕は幼く見え、猛の方は老けて見られていた。そんな僕らも52歳、44歳になり・・・同級生、兄弟に見られることが多くなってきた。29年・・・本当にあっという間だった。

「あのまま教師を続けていたら、どうだったかね?」と猛。『そうねえ・・経済的には安定はしていたよね。』「それじゃあ、つまらねえか・・・」『学校も面白かっただろうけど・・今の人生に悔いはないかな・・・。』「だよな。」

空は猛にボールで遊んでもらって大興奮。帰るときも「おにいちゃん、またきてね!」と笑顔を振りまいていた。

お前はだれだ!
塾から『ただいま!』と帰って来ると、空が「おまえはだれだ!」っていうから、『お帰りなさいだろ?』と僕。何でそんなこと言うんだろうと不思議に思っていたら・・・アンパンマンのキャラクターの中にロールパンナという女の子がいて、そのロールパンナのセリフだと分かった。「パパ、これでロールパンナみたいにして!」と空が持ってきたのはたくさんのハチマキ。ハチマキでマスクを作り、バスタオルでマンとを作って、空を飛ぼうとする空を見て、昔月光仮面になろうとした自分を思い出していた。     たかやん


8月20日 (日)  「たかやん議員日記」2006.第232弾! 

「たかやん議員日記」2006.第232弾!  8月20日(日)

ウォッシュレット
朝からウォッシュレットが作動せず、ちょっとしたパニックに・・・。僕はいつの頃からかウォッシュレットがないとトイレに入れなくなるほどのウォッシュレット中毒?になってしまった。塾は勿論、富山のお袋の家にもウォッシュレットはあるし、奥さんの実家にも無理やり付けてしまった。よく遊びに行く妙高の友達の家でもウォッシュレットは当たり前。2階のトイレにもちゃんと付いている。心配していた市役所だが、議場のある2階にはウォッシュレット付きのトイレがあるので、ひと安心。僕の回りはウォッシュレットだらけ・・・視察などでどこかに止まる時も、非常口よりも前にウォッシュレットがあるかどうかを点検しているくらい、僕はウォッシュレット依存症になっている。

そんな僕のお尻を心配してか、札幌の友達がウォッシュレットを配備してくれた。僕達が泊まるのに間に合うように付けてくれたらしい。1週間も泊めてもらったうえに、そこまで気をつかってもらって・・・本当にありがたい話だ。また遊びに行かなくっちゃ・・・。

幸せ2
冷蔵庫が来た日のことも覚えている。それまでの冷蔵庫は氷を入れておいて、周りのものを冷やすというアイスボックスのようなものだったのが、正真正銘の電気冷蔵庫が来たのだから嬉しかった。毎日氷を作っては、カキ氷にして食べていた。

お風呂が出来るまでは、僕らは週に2度くらいしか銭湯へ行かなかった。どうしようもない時は、台所の流しに栓をして、「行水」なるものをしていた。今なら、キッチンのシンク?で子どもを洗っていることになる。湯沸かし器がある訳はないので、お湯を沸かして・・・・後で聞いた話では、お袋も夜中にそうやって入っていたらしい・・・。だから自分の家にお風呂が出来たときは、大金持ちになったような気分になって本当に幸せだった。

お小遣は毎日10円だった。それとは別に大好きな猛おじちゃんからつきに50円もらっていた。この月に50円というシステムは僕達が大学を卒業するまで続いた。僕達は10円というお金を貯金したり、一日でパッと使ったりして、我慢することの大切さやお金を一気に使う爽快感を覚えていったのだ。

僕が韓国ドラマを見て泣くのは、昔の家族を思い出すからだ。貧乏だったけど、父さんや母さん、そしておじさんがいて、兄貴達がいて・・・色んな事件が毎日のように起きたけど、涙がでるくらい幸せだった。新宿区百人町四丁目公務員住宅RC−11。僕はその小さなアパートで、父さんたちに、人生で一番大切なものを毎日もらいながら大きくなった。       たかやん



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