Diary 2008. 11
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11月1日 (土)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第305弾! 2008.11.1(土)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第305弾! 2008.11.1(土)   たかやん

都ぞ弥生
今日は東北大学とのOB対抗戦。この年になっても、少し緊張するのだから対抗戦は面白い。今日出場する選手の中で、僕は下から3番目。一番上の方は90歳という大先輩達の中での試合だからかも知れない。

7時20分
昭和昭島の森公園の室内テニスコートに9時集合なのだが、東久留米7時20分発の電車に乗った。テニスバックを両肩に担ぎ、SIDNEY SHELDONを読みながら昭島に向かった。そのお陰で北大の中では一番早く着くことができた。

高邑・斉藤4−2石川・渡辺
9時過ぎからのエキジビジョンマッチには10歳年下の斉藤君と組んで東北大と戦った。東北大の石川さんは僕が1年生のときに4年生で完敗した相手だ。若いときの記憶と記録はいつまでも付きまとうもので・・・完勝しても、36年前の完敗が消えることはない。

高邑・吉見6−2熊野・渡辺
2試合目は本線。僕達にポイントがかかっていたので気合が入った。吉見とは30年振り・・・・(どこのオッサンだ?)と思ったら3つ後輩の吉見で笑った。これで熊野さんにも渡辺さんにも連勝。北大も今年の勝ちが決定した。

川西・高邑4−1小山・熊野
学生時代に東北・北海道で一度も負けなかったという伝説のプレーヤー小山さんは強かった。でも川西さんとのコンビには自信があったので、やっつけることができた。小山さんは僕より10歳上。10年後、小山さん以上の動きをすることが今の僕の目標である。そして能勢(北大)さんのように走り回り、90歳の川西さん(東北大)のように現役でテニスをする。そういう選手を目標にしようと思う。

皇后
東北大の川西さんは皇后陛下のテニスのコーチでもある。皇后になる前も、ついこの間も一緒にテニスをされたというから凄い。「還暦?まだまだひよっこ。若いのだから頑張りなさい。」と60歳の先輩達は叱咤激励されていた。3歳の頃からおもちゃのラケットに木綿の糸を張ってテニスを始めたという。テニス暦87年。上には上がいるものである。

こうして僕らは、朝からテニスに燃え、午後から宴会をやって、飲みに飲みまくり、最後にみんなで「瓔珞みがく」「東北大寮歌」「都ぞ弥生」を歌ったのだった。

先輩
二次会は先輩に連れられて地下の飲み屋へ。僕らは先輩にそこでもしこたま飲ませてもらったのだった。いくつになっても、先輩は先輩。こういうところが偉いよなあ・・・。
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11月2日 (日)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第306弾! 2008.11.2(日)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第306弾! 2008.11.2(日)   たかやん

黒目川
教育週間の最終日なのだが、黒目川の川掃除の日なので、9時には栗原公園に集合した。今日のメンバーも五中の卒業生。まさはる、直弘に加え、五中の3期生、3年1組木下クラスの成田君が急遽手伝ってくれた。草刈の後のゴミ拾いは、思いのほか簡単で・・・あっという間にゴミ袋が満杯になったのだった。散歩中の人からも沢山声がかかり、やっていて実に楽しい1時間だった。五中の教え子達に、今日も感謝である。

六中ソフトテニス部
川掃除が終わってから、東北小学校を目指して自転車で走った。六中のコートの前を通る。「おはようございまーす!」「おはようございます!」六中のソフトテニス部の先生達が挨拶をしてくれた。子ども達はコートの中でフットワークのトレーニング。いいぞ、いいぞ。
我が硬式テニス部はお休みか、大会でいないかは分からないが・・・兎に角コートはガラガラだった。

東北小学校5年4組
3時間目の音楽の授業にビックリ。兎に角、子ども達の表情が豊かで、そしていい声なのだ。小学生でああいう歌い方ができるとは・・・和太鼓と縦笛の合奏も見事。全員が舞台に立ち、ソロで演奏する。音楽のT先生の目には力があった。こんな素晴らしい音楽の先生が新座の小学校にいたんだ!僕はまた、授業に参加したくなった。

六中1年2組
実は金曜日に六中の音楽の授業に参加させてもらったのだ。男子の声が少し弱い1年2組。そこにたまたま顔を出したら・・・「たかむらさん!はいって!一緒に歌って!」とY先生。「俺?だめだよ・・」「駄目じゃない!いいから入りなさい!」「マジ?」「はい、教科書かしてあげて・・・大丈夫、この人は楽譜読めるから、直ぐ歌えるわ。」とY先生。と、言うわけで僕は突然、1年2組少年少女合唱団の一員として歌うことになった。そう、まるで昔、六中の音楽室でやっていたように・・・
1年2組の合唱はよかった。ピアノは上手だし、指揮も上手。後はY先生について練習すれば必ずいい合唱ができる。僕はすっかり1年2組のファンになってしまった。

3年5組
そういう意味では3年5組の子ども達は一番可愛い。1年1組や2年1組の子達も「えーつ、今日はもう帰っちゃうの?」と嬉しいことを言う。5組の授業はいつも見ているので、他のクラスの授業ばかり見て回った。するとみんな「あれ?」という顔をして挨拶をしてくれるのだ。やっぱり六中はいい。地元の学校は地元の子ども達が通っている。知っている顔がそれこそゴロゴロといるのだ。先生の名前と顔も一致してきた。これからも六中を応援していこう。残りの人生ずっと、応援していこう。
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11月3日 (月)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第308弾! 2008.11.3(日)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第308弾! 2008.11.3(日)   たかやん

バレーボール大会
今日は何と朝からバレーボール大会に出場した。そう選手として大会に出たのである。これは54年の人生で初めてのこと・・・。男女混合のチームで僕らは戦った。

おもろい・・・
相手は9人ともバレーボールの経験者ばかりというチームで、そのサーブやレシーブ力の差にビックリ!だって弾丸サーブを打ったり、フライイングレシーブをするんだから・・・それでも僕らは何とかくらいついていこうと必死で頑張った。2試合ともストレート負けしたけれど、「最後のセットは惜しかったですね。もうちょっとでしたね。」「だんだん上手になっていくのが分かりましたよ」と相手チームに誉められたのだった。そうバレーボールは面白い。母さんはママさんバレーの全国大会に最年長で出て新聞に載ったことがあったっけ・・・。僕はまだその年になってないのだから、これから上手くなるかも・・・

五中
教育週間の中学校の最後は五中に行った。孫の楓の様子を見に行ったのだ。例によって参観は僕一人。僕を見て「あ!」と驚く楓。隣の子に「誰?」と聞かれ、「家のおじいちゃん!」と答えていた。「嘘・・」「ほんと」ま、嘘じゃないわな。他のところでは「どこのお父さん」「誰のお父さん?」と聞かれていたのに・・・ま、いっか。五中全体を見たのだが、午後だというのに寝ている子も殆どなく、整然と授業を受けていたという感じだった。僕らの頃の五中よりももしかしたら綺麗だったかも知れない。廊下の掲示物などは明らかに今の方がいい。昔のほうが教師も生徒も規格外が多かったかも・・・いいんだか、悪いんだかは分からないけど・・・


金曜日に五中を見たせいか、今朝の夢は五中の3年1組の夢。それも4期生の1組の夢だった。祐二が一人で教室掃除をしているのを見て、サボっているほかの子達に担任が怒る!というシーンだった。今からもう28年前のクラスなのだが、それがそのまま全員出てきてビックリ!混ざらないで夢に登場するのは珍しいのだ。後半は宏美と二人で高校へ行くというシーン。昔、宏美が不登校になったときに、毎朝二人で五中まで通った記憶がどこかに残っていたのかも知れない。

公園
石神小学校の子ども達が溢れる公園で、三人で遊んだ。サッカーをやったり、テニスをしたり、鉄棒をやったり・・・それにしても小学生は元気だ。そして笑顔が可愛い。男の子も女の子も目いっぱい遊んでいた。そして我が家の三人もしっかり遊んだのだった。

六中物語1
古都という名前に僕は惹かれた。どんな子かは全く分からないが、兎に角「古都」という女の子がいるクラスを選んだのである。それが六中のスタートであり、僕の人生を大きく変えるきっかけになった。古都は名前とはかけ離れた子だった。お父さんのない子で、僕のことをまるで本当のお父さんのように思っていたらしい。当時の六中は先輩・後輩の関係が厳しく、ソフト部などは3年生が登校するとき、下級生は1列に並んで「おはようございまーす!」と連呼。3年生は無言で通り過ぎる。そんな学校だった。そんな六中で1年2組はベストを脱いだ。「暑いから脱げよ」という担任の一言で女の子全員がベストを脱いだのだ。それに怒った3年生が2組の教室に怒鳴り込んできた。「生意気なんだよ!」と2組で一番大きかったよしえにビンタをした。するとよしえは思い切り蹴飛ばした。そこで担任が割って入って、3年生の野田さんを連れて理準(理科準備室)へ。紅茶を飲みながら「俺のクラスの子に手を出すなよなあ。俺は自分のクラスの子は絶対に守る担任なんだよ。君たちが他の学校にやられそうになったら俺が必ず助けるから」と野田さんを説得した。それから3年生の女の子達が時々理準に遊びに来るようになった。
テニス部の113名は顧問の命令でテニスシューズを履いて登校した。学校指定の靴は「足に合わないから痛い」という子ども達にこたえたのだ。学校指定の靴を履いてこなかった3年生のツッパリ集団もビックリ!普通の子ども達が100名以上で違反をしたのだから大変だった。あっという間に指定靴を履いてくる子はいなくなり、「たかむらが六中を壊した」と言われた。学年会でも「非常識だ!」と学年主任を中心に攻撃されるが、「子ども達の足に靴を合わせるのであって、靴に子ども達の足を合わせようなんていうのは時代遅れだですよ」と一歩も引かなかった。
僕はこの学年が好きだった。考え方は違ったけれど、子ども達に熱い仲間達が多かったのだ。その中でも1組の一郎とはよく喧嘩もしたし、よく遊びもした。1年2組とは合宿もやった。本多の児童センターでキャンプをやったのだ。夜中に「暑いからプールに入ろうよ!」という子ども達に負けて、みんなで六中のプールで泳いでいたら、いつの間にかパトカーに包囲されていたのもこのクラス。近所の人に通報されたらしい。それでも校長には怒られた記憶がない。警察が言わないでいてくれたのか、校長が黙っていてくれたのかは未だに分からない。僕達1年2組にはいい思い出になった。今やったら、新聞に載るかも知れないなあ・・・・。僕はこのクラスで突然国語の先生になった。副坦のゆかりちゃんが切迫流産でお休みしたのだ。僕は「詩の授業」をやった。すると子ども達が泣いたのだ。理科の授業で泣く子はいない。蛇を机の上に乗せたら失神した子はいたけれど、理科の授業で泣く子はいなかった。ところが2組の子達は僕の国語の授業で泣いたのだ。これには本当に感動した。その時だ、僕が心のどこかで(俺はもしかしたら理科系じゃなくて文科系なんじゃないのか)そう思ったのは。毎日が余りにも楽しくて、僕は学級通信を毎日書き続けた。41度の熱があっても、祖母ちゃんが亡くなって、富山へ行っても・・・それでも毎日「一生懸命」を書き続けた。それができたのは2組の子ども達のお陰なのだ。そして、その時の習慣が、今でもこうして続いているのだ。1年2組と六中のテニス部。この二つが僕の人生を完全に支配するようになっていった・・・。
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11月4日 (火)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第309弾! 2008.11.4(火)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第309弾! 2008.11.4(火)   たかやん

足踏み
「何してるの?トイレ行きたいの?」「いや、足踏みしているんだよ」「何で?」「運動、運動」最近、ちょっと運動不足だったので、今朝は朝から足踏みをしてみた。家の中でも兎に角できるだけ運動しようというのだ。英語のトレーニングをしながら30分。やっていると体がぽかぽかになってきた。眠くなることはないし、勉強するときにはいい方法だと思った。

ひさしぶり!
空と一緒に自転車に乗っていると、向こうから懐かしい笑顔が近づいてきた。「おはよう!」「ひさしぶり!」「おはようございます!」五中の卒業生のKさんだった。本当に久しぶりの再会で・・・朝から幸せ気分。いやあ懐かしい笑顔だったなあ・・・。

アトリエ
空も朝から幸せそうな顔をしていた。今日からアトリエ教室に通うことになったのだ。絵を描くことが何より好きな空。僕のDNAとは違うものを持っているらしい。いっぱい幸せな時間をすごして欲しいと思う。

テニス
今日はボランティアでテニスを教える日。例によって十数名のおじさん、おばさん集団が僕とこころが出すボールを追いかけた。2時間、殆ど休みなしの練習だったが・・・あっという間に終わってしまった。

サッカー
テニスの後は公園で小学生達とサッカー。八石小の子ども達とサッカーに燃えること1時間半。走りに走り、みんな汗びっしょりになった。「さき走れー!」「さくらー!戻って来いー!」「きたな!まりな!」男の子も女の子も本当によく走る。それに釣られて僕も走り回ったのだった。

こころ
その後はこころと練習。面白いもので、12歳から3年間毎日一緒に練習をしてきた僕らは、今になってもその時の雰囲気に直ぐに戻れるのだ。こころが必死にボールを追いかけ、そして僕もガンガンボールを打ち返す・・・・六中のAコートの記憶が、僕らのDNAには刻まれているらしく・・・あの時の感覚が、この年になってもよみがえってくるのだ。心が35歳の感覚になると、肉体も同じように反応するようになって・・・本当に久しぶりに、思い切りテニスをやった気がしたのだった。

定額給付?
馬鹿言っているじゃない。国民の為というのなら、来年も、次の年もやってくれ・・・明らかに選挙の為なのだから・・・そんな無駄はやめてくれ。挙句の果てに、消費税を上げようというのだからどうかしている。日本の消費税は実に不公平な税なのだ。税金は金持ちからたくさん取る仕組みにしないといけない。騙されてはいけないのだ。

オバマ
顔を見ていればマケインよりもオバマの方がいい顔をしている。きっと明日にはオバマが黒人初のアメリカの大統領になっているだろう。だからと言って、オバマが日本にとっていい大統領になるという保障はない。オバマは当然、アメリカにとっていい大統領にはなろうとするのだから・・。日本に対しては更に厳しい要求をしてくる可能性だってあるのだ。日本のテレビはこんな時期にどこかの落語家の別れた女房の馬鹿話や、有名だったKプロデューサーの詐欺事件で盛り上がるのだから嫌になる。たまには、朝から晩までどこのチャンネルも「政治」なんていう日があってもいい。日本の国会にも「日本のことを本気で考える本物の政治家」が増えないかねえ・・・。アメリカや金持ちの方ばかり向いて、選挙のことしか考えていないインチキ政治家は掃いて捨てるほどいるが、本物は実に少ない。顔を見ていれば直ぐに分かる。みんな人相に出るから・・・・。
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11月5日 (水)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第310弾! 2008.11.5(水)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第310弾! 2008.11.5(水)   たかやん

入稿
やっと議会報告の10月31日号が入稿した。10日の月曜日から駅立ちで配布できそうだ。このところ、朝晩がめっきり寒くなってきた。温かい下着でも買って風邪をひかないようにしないと・・・。

首が回らない
まさか頭から地面に激突するとは思っていなかった。膝は血だらけ・・・首がバキっていう音を立てた。そして暫く起き上がれなかった・・・・。堀の内病院の審査結果は「頚椎捻挫」。あの鞭打ちのときにする襟巻きのようなものをしながら、パソコンに向かっている。
「寝るときはどうするんですか?」「できたら付けて寝てください」「絶対安静です」「はあ・・・」お金もないが、本当に首が回らない・・・。

バラク・オバマ
予想通りオバマが勝った。アメリカ人の方が新座市民より「改革」を求めていたのだと思った。投票率が80%を越えた地区もあったらしい。自分達で大統領を選べるのだから、投票に行かない手はない。新座市民だって、自分達で市長を選べたのに行かない人が多かったのは・・・今のままでも大丈夫だと思ったからだろう。それにしても今回の選挙はあのケネディーのときの雰囲気に似ている。そしてあのマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの演説にも・・・それだけに暗殺されないかと心配になる。もしオバマがイラクからの撤退だけではなく、アフガニスタンからの撤退も主張したら・・・間違いなく消されてしまうと思う。彼はそのことが分かっていて、「テロとの戦い」はやめられないのだ。日本はこれ以上アメリカに利用されないようにしないといけない。アメリカ国債を買い支えることは、アメリカ軍を支えていることを意味する。贅沢三昧のアメリカ人を日本人が支える必要はない。もうあの戦争が終わってから63年も経つのだ。日本はアメリカから独立しなくてはいけないのだ。バラク・オバマ・・・黒人初のアメリカの大統領。でも本当はハーフ・・・アメリカ合州国。魅力的だが、日本をああいう国にはしたくない。

六中物語2
1年2組には「おじょう」と呼ばれている子がいた。本名は寛子。本当に綺麗な言葉をつかう子で、どんなときでもそれが自然に出る。普通ならいじめられそうなところだが、余りにも超越していたので、みんなからもの凄く好かれていた。反対に古都はべらんめい調で、いつもトロピカルな感じ。毎日何かをやらかしてくれ、担任は気が気じゃなかったが、本当に毎日を楽しませてくれた。おじょうは我がクラスのピアニスト。それがまた上手で・・・(双子の郁ちゃんはバイオリニスト。)勿論我が1年2組は合唱コンクールに優勝したのだった。この1年2組には硬式テニス部で、やがて関東・全国で活躍する子ども達が沢山いた。喜晴・大力・一久・俊弘・みどり・英子・由美・佳絵・・・・どの子もみんな本当によく練習し、そして強くなっていった。その中で1年生のときからキャプテンをやったのが一久。そして3年間僕のクラスだったのも一久。僕は一久と3年間で150試合、喜晴や大力とも100試合以上戦ったのだった。五中時代はテニスコートでは名前ではなく苗字で呼んでいた僕が、六中に来てからはコートの中でも名前で呼ぶようになったのも、この1年2組の子ども達の影響だと思う。可愛くて、可愛くてどうしようもなく可愛くて、コートの中でも怖い顔ができなくなったのかも知れない。畑のようなコートを一緒に掘り起こし、ローラーをかけ、測量して・・・トレーニングもボールボーイも何から何まで僕が一緒にやって教えた子ども達。顧問と生徒というよりは、先輩と後輩のような関係だったのかも知れない。
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11月6日 (木)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第311弾! 2008.11.6(木)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第311弾! 2008.11.6(木)   たかやん

激痛
首の痛みがどんどん酷くなってきた。まず寝るのが大変。真上を向いて寝るのに時間がかかる・・・かといって、横になるのは激痛が走って無理。ところが真上でも激痛が走り・・・起きようとするとまた激痛。何とか起き上がって、本を読むこと以外は何もすることがなさそうなのでパソコンに向かっている。今は朝の4時過ぎ。結局殆ど眠れなかった。まだまだ外は暗い。

理水
そう言えば昨日久しぶりに理水から電話があった。塾の卒業生で蕨高校から法政へ行った野球少女だ。彼女は雨の日も栄から新堀まで自転車で通ってくれた。理水はどこへ行くにも自転車という女の子だった。東から新堀まで通ってくれた明子もこの間結婚したなあ・・・。お、理水にメールするの忘れてた!

よかった!
まずい。キーボードを打っても痛い。いよいよ朝読書しかないか。今回の怪我でよかったと思うのは、怪我をしたのが空やひとみじゃあなかったことだ。この痛みに耐えるのは大変。横になれないところが辛い。そして体の不自由な人の痛みを久しぶりに実感できた気がしている。一人でシャツを脱げない。靴下を履けない・・・・でも何とかご飯やトイレは一人で大丈夫。それがよかった。回復の道があるということも幸せなことだ。

一番
朝一番で堀の内病院の整形外科へ。予定していた朝霞の中学校の参観は取りやめになった。薬をもらい、兎に角寝ることにする。


昨日は「いりません!」と言っていた鎮痛剤だが、今日はおとなしくもらっておいた。そして飲むと・・・痛みが弱くなった。何とか横になることができるようになったのだ。ソファーに寝転んで英語のトレーニングをしていたら・・・いつの間にか眠っていた。

大規模学童保育
痛みが大分とれたので、6時半から8時半まで「大規模学童保育」の学習会に参加した。本当に不勉強で今まで学童の実態が分かっていなかった。草加市と新座市の学童保育の指導員の方から、今の大規模学童の実態や取り組みの報告があった。2時間という時間が、あっという間に過ぎて行った。大規模学童の解消に向けて、12月議会で早速取り組んでいかなければ・・・。そう思った。

抱っこ
怪我をして久しぶりに「体が不自由な感覚」が蘇ってきている。車椅子で生活したとき以来の感覚である。お年寄りや障害をもった人たちの気持ちに少しだけ近づけた気がする感覚である。シャツを自分で脱ぐこともできない。靴下も履けない・・・布団も干せなければ、ゴミだしも出来ない。家族のために何一つ役に立てない・・・そんな気になる。でも一番辛いのは空を抱っこすることができないことだ。今日が最後の一日だったら・・・・空を思い切り抱っこしてあげたい。そう思うに決まっているから・・・・。

六中物語3
2年2組になった。六中の1年目に僕は素敵な先輩を二人見つけた。斉藤一男と向井進の二人である。彼らは子ども達の先頭に立って(時には自分達だけで)掃除をやっていた。背中で教育をしていたのだ。僕はそれを見習うことにした。2年2組の先頭に立って、掃除に燃え始めたのだ。特にトイレ掃除に燃えた。2組はトイレ掃除に手を挙げた。学年のトイレは勿論、汚かった外トイレも2組が立候補したのだ。そして・・・・僕らは毎日これでもかというくらい掃除をした。朝晩はテニス部が、放課後は2組が・・・(同じメンバーなのだが)トイレ掃除に燃えたのだから、トイレは綺麗だった。もうピカピカだった。2組もテニス部も学校中のゴミを拾った。そして倉庫の掃除まで買って出た。六中はどんどん綺麗になっていった。2年2組は「朝勉」にも燃えた。兎に角みんなで一緒になって勉強した。勿論学年でトップになった。出来立てのテニス部は演劇部から部室をもらい、やっと他の部活の仲間入りをした。そしてこの年に男女揃って関東・全国大会に出場したのだ。ラケットを始めて握った子達が、1年間の練習で全国大会に出場したのだ。それくらいみんなテニスと勉強と掃除に燃えた1年間だった。
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11月7日 (金)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第312弾! 2008.11.7(金)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第312弾! 2008.11.7(金)   たかやん

幸せ
あの頃僕は間違いなく幸せだった。父さんがいて、母さんがいて、おじちゃんがいて、兄貴達がいて・・・無いものはお金や物。今の僕と比べたら、間違いなく貧乏のどん底。そんな生活だったと思う。新大久保の公務員宿舎の間取りは3K。テレビが無いのは当たり前。電話や冷蔵庫、洗濯機だってない家が沢山あった。それこそソファーに腰掛けテレビを見たり、車に乗って出かけることが「夢」だった時代だった。泥んこまみれで遊んでばかりの僕だったが、友達は沢山いたし、遊びも毎日が「冒険」のような遊びだった。戸山の練兵場跡の防空壕にもぐったり、山手線の線路の中で遊んだり・・・木に登って、塀を乗り越えて・・・野球をやって、缶けりして・・・兎に角毎日、毎日が幸せでしょうがなかった。学校に行けば、大好きな向後先生がいて、家に帰れば母さんがいる。日曜日になると父さんと猛おじちゃんやおじちゃんの友達の林さんが碁を打って・・僕らは将棋をしたり、トランプをしたり・・・父さんは労働省の中央労働委員会にいて、やっと課長補佐になっても給料は5万円ほどだったか・・・。お風呂に行くのは2日に一度がいいところ。汚くても全然平気だった。僕は末っ子だったから、おじちゃんには本当に可愛がってもらった。御伽噺を聞きながら、おじちゃんと一緒に寝るぬくもりは今でも忘れない。隣の家の岸野家とは親戚同然の付き合いだった。特にくに子ちゃんには可愛がってもらった。僕は小学校3年生までくに子ちゃんと女湯に入っていた。多分くに子ちゃんは中学生だったと思う。まるで本当のお姉ちゃんのようだった。
あの頃の日本はどこも同じようなもの。たまに車を持っているお金持ちがいたとしても、お金持ちの子どもも同じ小学校に通っていた。学校の先生は今より遥かに厳しかったが、今より遥かに温かく、そして優秀でもあった。そんな時代、僕は幸せだった。

御茶ノ水、教育大、学芸大
今思うと、小中学校そして高校と僕が習った先生は優秀な人たちが多かったとだと思う。大学で人を見ることはよくない。でも、こういう大学に優秀な先生が多かったことは事実だと思う。僕が大好きだった向後先生は御茶ノ水、田口先生は学芸大、河合先生も川島先生も東京学芸大、そして古川先生は東京教育大。当時の最高水準の教育を学んだ先生達に僕は教えてもらっていたことになる。みんな読書家で話が面白く、授業のレベルはかなり高かったのだと思う。西戸山も石神井も優秀な先生が多かった。そういう先生達に習う子供たちは幸せだった。それに比べて僕はまだまだだ・・・。

警察
それは今朝7時過ぎの1本の電話で始まった。僕は小さい頃に「いたずら電話」したとき以来、久しぶりに“110番”に電話をした。昔の教え子から「今から死にます。ごめんなさい」という電話があったのだ。「今、練炭に火を付けました」「馬鹿!直ぐ消せ!」「無理です。もう消せません」「ふざけるな!」ガチャ。ここで110番をした。警察の反応は速かった。直ぐに地元の警察に連絡が行き、そして本多の交番に連絡が行き、我が家におまわりさんがやってきて・・・教え子はギリギリのところで助かった。お母さんは電車に飛び乗って教え子の病院に向かった。

子ども達、よく聞きなさい。親より先に死んではいけない。何があっても、親より先に死んではいけないのだよ。君達が生きている間に親は死ぬ。それでいいのだ。君達にとって一番大事な人が死ぬ。悲しいけれど、それはしょうがないこと。誰でもそれに耐えられるようにDNAは設定されている。親は君達より先に死んでいい。君達が生きている間に必ず死ななきゃいかんのだ。だけど君達は駄目だ。親より先に死んではいけない。親を亡くす子どもの悲しみよりも子どもを失う悲しみのほうが何十倍も何千倍も何万倍も大きいのだよ。親になれば分かる。自分の目を、腕を、足をそして命をこどもにならあげられるようになるから・・・。

ブッシュにノーなら小泉にもノーだ
アメリカ国民がブッシュにノーを突きつけた。アメリカをボロボロにしたのだから当然のことだ。日本国民も小泉にノーを突きつける機会が来たということだ。ブッシュと大の仲良しのインチキ政治家にノーを言うには、総選挙しかない。しかし、インチキ政治家は二人とも姿を消す。残るのは負の遺産だ。郵政民営化は“愚策”もいいところだった。派遣法などの規制緩和もアメリカのいいなりになって、日本をボロボロにした。正規雇用が少ない国に幸せはこない。給付金などにごまかされてはいけない。あれもインチキだ。

名人戦
日本シリーズも面白いが、囲碁の名人戦も白熱していた。7番勝負に勝ったのは張栩(ちょうう)28歳の青年名人である。そう言えば最近碁石を握っていない。相手がいなくても、昔の名人達の碁を並べることはできる。頭も鍛えないと呆けるからなあ・・・・。首が回らない、こういう時にこそ静かに碁盤と向き合うのもいいかも知れない。

だいすけ
昨夜の勉強会では小野だいすけと、そして今日は市役所の前でスーツ姿の平松だいすけとバッタリ会った。新座市議会の若手の二人は勉強家である。勉強をしている人は魅力がある。年齢には関係ない。いくつになっても魅力のある人間でいたいものである。

運転
薬が本当に効いてきた。首が回るようになってきたのだ。車に乗るときにちょっと痛いが、運転はできるようになった。首のわっかも外した。シャツも自分で脱げるようになった。昨日はトイレに入っても、ウォッシュレットのボタンを押すことができなかったのに・・・回復が早いのはまだまだ肉体が若いから・・・そう思うようにしている。

空の手
空の手は、いままで握ったどの女の子の手より小さく、そして柔らかい。彼女達のときのように、ドキドキすることはないけれど、自分がこの手を守るんだ!そういう気持ちになる。今日も空を小児科に連れて行くときに、空の手を握った。そして、それだけで幸せを感じた。
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11月8日 (土)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第313弾! 2008.11.8(土)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第313弾! 2008.11.8(土)   たかやん


昨日の夜、昔のことを書いたせいかもしれない。今朝の夢は父さんの夢だった。それも若い父さん、元気な父さんが目の前で笑っている夢だった。大好きな猛おじちゃんも一緒で、僕と同じくらいの50代前半で登場。三人で語りながらお酒を飲んだ。もの凄く幸せな気分で、それこそ「夢の中」状態だった。すい臓がんで死んだ父さんの最期は痛みとの戦いだった。まだ57歳。若い分だけ、辛かったはずだ。そのせいか、死んでしばらくはやつれた父さんの夢しか見なかった。若い頃の元気な頃の父さんと会いたいと思っても、なかなか会えない。だから今朝の夢は嬉しかったのだ。まさか、早く来いといっているわけじゃあないだろう。もっと、もっと元気で頑張れ!そう言ってくれているのだと思う。そして、あっと思ったのだ。今日は「父さんの誕生日だ!」って。今日は父さんの誕生日。1922年、(大正11年)富山県生まれ。あのビルマ戦線で戦い、生き残って帰ってきた。僕を育て、今でも愛し続けてくれている男は生きていれば86歳になる。

92歳
ひとみのお祖父ちゃんが入院した。お見舞いに行くと「家に帰りたい・・・」と涙を流していた。可哀そうで、可哀そうで・・・。大泉の家にはお祖母ちゃんがいる。ずっと二人で仲良く生きてきたのだ。帰りたいというおじいちゃんの気持ちはよくわかる。空を見ては「今度は一人で泊まるんだぞ」と言っていたお祖父ちゃん。空に会うのを本当に楽しみにしていれくれたお祖父ちゃん。「もう一度、館林に行きましょうね。」それだけ言って、僕は帰った。

六中物語4
3年2組になった次の日。おじょうが朝、突撃してきた。「何でたかやんのクラスじゃないの!」「あたし朝まで泣いたんだから・・・」「ごめん・・・」「たかやんの馬鹿」「・・・・」
2年間一緒のクラスだった子達と別れるのは本当に辛かった。1年2組も2年2組もいい子達で溢れていたのだ。クラスを決めるのは学年会。女の先生が最初に選び、そして学年の中心になる担任ほど後回し・・・勿論、僕は最後に残ったクラスになる訳で・・・・誰も持ちたがらないクラスが残った。それが3年2組。それでも担任としてはみんな可愛い子達な訳で・・・・初日から気合を入れたのである。テニス部の朝練は6時過ぎから。当然のように職員会議で問題になる。「朝練は7時半以降のはずです。」「硬式テニス部は早すぎます」「学校のルールを守ってください」僕はずっと耐えていたが、ある日ついにこう言ってしまった。「確かに硬式テニス部は時間を守っていません。朝は早いし、夜は遅くまで練習しています。でも必ず顧問がついて、一緒に練習をしています!」「朝練は7時半からでですが、顧問がついて練習することが原則のはずです。みなさんはその原則を守っていますか?」「時間を守らないことはいけないことかも知れないけれど、部活動をこども達だけでやることよりマシではないですか?」その日から、テニス部の練習に文句を言う先生はいなくなった。他の部活動の子たちが朝練で怪我をしたときは、僕が病院に連れて行ったりしていたことを知っている先生達も多かったのだ。そして体育館の部活動は、下校時間が過ぎても電気をつけて練習していることをみんな知っていたのだ。
僕はテニス部の子達にこう言った。「俺は頭を剃るから、お前達は坊主になれ。気合を入れて優勝を狙うぞ!」六中の硬式テニス部はこの年、関東大会で慶応普通部を倒して優勝した。そして全国大会では3位になって悔し涙を流した。僕ともっとも濃い練習をした子達だったが、それでも「日本一」という壁は越えられなかったのだ。
3年2組は順調に伸びていった。いつの間にか成績は学年でトップになった。僕は朝練よりも、「朝勉」に燃えるようになった。そして涙の卒業式の日がやってきた。
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11月9日 (日)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第314弾! 2008.11.9(日)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第314弾! 2008.11.9(日)   たかやん

駅立ち
明日からまた駅立ちが始まる。朝はかなり冷えるので、防寒グッズを用意する。総選挙があると思って、少しおとなしくしていたのだが・・・・どうやら今年はなさそうなので、元気いっぱいに駅にたつことにしよう。

11月号
今日から11月号の作成にとりかかっている。書くことは山ほどあるのだ。勢いで12月号まで作ってしまいそうである。総選挙はいつなのかねえ・・・。選挙があると立てないからなあ・・・。

日本シリーズ
今回の日本シリーズは面白かった。どちらかというとジャイアンツを応援していたのだが、最後はライオンズでもいいかな・・・そう思うくらい、どちらもいい戦いをしていた。こういう戦いは面白い。どこかの球団がブッチギリで何連勝もするような日本シリーズは面白くない。

自民党
そういう意味では日本の政治はつまらない。自民党だけが何十連勝もし続けていて、国民がみんなそれに飽きててしまっているのだ。「政治がつまらない」とよくいうが、実は「自民党がつまらない」のじゃないのか・・・・今日の日本シリーズを見ていて、そう思った。

視察
今週の木曜日に犬山市に視察へ行く。「全国学力テスト、参加しません。」そんな本を教育委員会が発行してしまうのだから面白い。「義務教育本来の姿を示すまっとうな教育改革」
「競争ではなく学び合い」の教育。という触れ込みの本は本当に面白かった。僕はどうしてもその本を書いた教育長に会いたくて、視察に行くのである。勿論授業も見るけれど、一番の目的は「犬山市教育委員会教育長」の瀬見井 久さんと会うこと。本気で、情熱を持ってこども達のことを考えている教育長に魅力を感じたのである。文部科学省や県の教育委員会の指導にびくともしない。そんな教育委員会に魅力を感じたのである。

六中物語5
3年2組は六中での最初の卒業生。卒業式ではボロボロ泣くだろう。そう思っていたが、全く泣けなかった。卒業式に真次郎がいなかったからだ。その日、真次郎は都立の二次試験を受けていたのだ。一人でもメンバーが欠けたクラスは2組じゃない。だから本物の卒業式で泣く子は一人もいなかった。他のクラスがどんな泣いても2組だけは笑っていたのだ。そして卒業式が終わった夜。僕らは3年2組だけの卒業式を体育館で始めた。僕は本物と同じようにマイクの前で名前を呼び、子どもたちはY校長先生から卒業証書をもらった。そしてこども達は舞台の上に立って、一人一人六中でも思い出を語ったのだ。殆どのお母さんたちも体育館に来てくれた。こども達がマイクの前で語り始めたとき・・・体育館は泣き声に包まれた。特に古都が「わたしにはお父さんがいません。たかやんは私のお父さんです」そう言ったとき、僕はオイオイ泣いてしまった。それからみんなで歌を歌って、教室で最後の学活をした。そのときの話が僕の運命を変える、大事件になった。
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11月10日 (月)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第315弾! 2008.11.10(月)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第315弾! 2008.11.10(月)   たかやん

駅立ち
5時、外はまだ暗い。新聞が無いのでテレビを付ける。天気予報を見ながら、うどんに火をかける・・・。外は寒そうなので、少しお腹に入れていこうというわけだ。そのうどんを食べ、ホカロンを背中に貼って・・・出発。自転車でひばりが丘へ向かう。

5時55分
久しぶりに中学生のYちゃんの笑顔に会えた。いつものようにイヤホンをはずして、「おはようございます!」と丁寧に挨拶をしてくれる。Yちゃんの笑顔で、僕は30分くらい笑顔でいられた。

笑顔
今日も本当に沢山の笑顔と会えた。僕の手紙?を持っていってくれる人の顔はかなり覚えた積もりだ。それにしても笑顔には力がある。人を幸せにする力がある。朝の駅で、その力を感じながら立っていた。

不景気
世の中が不景気だから、不景気な顔をしている人も沢山いる。一人で世の中の不幸を全部背負っているような顔をして歩いている人もいる。朝から怒っている人もいれば、朝から悩んでいる人もいる。みんな同じ時を生きているのに、生き方、感じ方が全然違うのだろう。不機嫌な顔や怒った顔をしている人で僕の手紙を持っていってくれる人は殆どいない。ちょっぴりでも幸せのオーラを出している人が持っていってくれる。不思議だなあと思う。

復活
先週数曜日の事故からかなり復活した。首が回るようになったのだ。相変わらずお金は無いが、体は元気。健康が一番だとこころからそう思う。

東久留米
明日は東久留米の予定だ。持っていってくれる人の半数は東久留米の人だが、それでも沢山の人たちの笑顔と会えるのが嬉しい。今日のひばりが丘は1100部。明日はどれくらい持っていってくれるかな・・・。

六中物語6
最後の学活で僕はこう言った。「卒業式の前の夜、自分の教室でみんなの机の落書きを消す。そしてみんなの顔を思い浮かべて、1年間の思い出に浸る。それをいつも楽しみにしていたのに・・・お前達は、落書き一つもなかったぞ。本当に綺麗でガッカリしたんだから・・・」兎に角2組の教室はどの教室よりも綺麗だったのだ。ゴミ一つ落ちていない・・それが2組だった。卒業式の前日、自分達の机の上の落書きも綺麗に消したらしい。その仕事は担任の仕事だったのに・・・そう文句を言ったのだ。そして涙の卒業式が終わり、次の日・・・僕は校長室に呼び出された。「2組の教室を見て来い!」「お前はいったい何を教育しているんだ!」「はあ?」「どうかしましたか?」
2組の教室は天井まで落書きだらけだった。「・・・・・・」
「お前は来年も3年2組の担任をやれ!」「あんな教室じゃあ誰も担任はできない。お前がやれ!」とM校長。「すみません・・・・」と僕。それから1週間。3年2組のメンバーが集合して3年2組の教師の壁紙を取り替えたり、落書きを消したりする作業が続いた。本当なら1年生になるはずが、僕は再び3年2組の担任になった。赤ジャージから緑ジャージの担任へ移動した瞬間だった。
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