Diary 2005. 6
メニューに戻る
6月11日 (土)  「たかやん議員日記」2005.第163弾! 

「たかやん議員日記」2005.第163弾!  6月11日(土)

虜囚日記抄2

二十年 九月二十×日
山の陣地を引き払って、久しぶりに民家に寝た。何だか皆が急に人間らしくなったようでもある。明日は武装解除だ。兵器は十分に手入れせよとのこと。通信の篠崎隊長は「関の孫六だけは渡せない。」と油が紙に包んで埋めたそうだ。何時の日か取りに来るつもりであろう。

九月二十×日
チャイト駅前の倉庫で武装解除を受けた。丸腰になったことは一寸淋しかった。グルカ兵が「プリズナー」と呼ぶ。兵器を捨てた菊部隊は、もう恐れることがないということか。明日は収容所へ移るそうだ。

九月二十×日
シッタン河を再び見た。トロッコで通過する旧戦場には、自動車や兵器の残骸が列をなしている。この中で死んだ戦友よ、本当に運がなかった。しかし、私達の運命も先は分からないのだ。

十月×日
煙草が欲しいので、学校の先輩の野口軍曹に頼んで、時計と交換してもらった。親父の遺品のスイスの十六石が、煙草三十ケに化けたが許してくれるだろう。が、結局皆に分けて、手もとには五ケ残っただけである。

十月×日
戦歴調査をまたやられた。憲兵や特務機関のものは別の収容所にいれられているが、一般部隊にもぐったのもいるからだ。現に、うちの連隊にも二人はいる。見つかると有無を言わさず処刑であろう。私達学徒出身はその点至って楽観的である。

十月二十×日
昨日加島中尉の隊で下士官、兵が騒ぎ、彼は部下に頭を下げたそうだ。彼も大分手荒い中隊長だから。
作業でも、私達若い少尉がいつも作業指揮で兵と一緒に汗を流しているのに、連隊や大隊の幹部は、碁と麻雀の明け暮れである。こちらは作業から帰るとくたくたで、何をする元気もない。
塩の配給が少ないのに、四十度を越える暑さの中の重労働で水を飲むし、汗がしたたる。吹き出た汗は水のような味しかしない。これでは体力がなくなるのは当然だ。しかし乾季になったので朝晩はしのぎやすい。

* 父さんの日記からいろいろなものが見えてくる。どこの世界にも威張るだけで何もしない奴らはいるものだ。上官の命令は絶対という世界が一番危ないのだ。人間が人間でなくなっていくから・・・・・。





6月12日 (日)  「たかやん議員日記」2005.第164弾! 

「たかやん議員日記」2005.第164弾!  6月12日(日)

市民清掃
6時半過ぎから掃除をした。畑中の住民なのに、地元の掃除じゃあなかったが、まあ掃除には違いがない。日本の国、いや地球をほんの少しだけどきれいにした朝はとっても気持ちがよかった。

テニス&サッカー
久しぶりに体を動かした。大学の後輩や六中時代の教え子たちが家族ぐるみで来てくれて、 滅茶苦茶楽しかった。2歳から51歳までが一緒に遊ぶのだから訳が分からない・・・・。僕が膝を擦りむいた以外は誰も怪我をしなかったからよかった。

核拡散防止条約再検討会議
核兵器廃絶を訴えるために、ニューヨークを訪れた原水協の日本代表団は800人を越えていたらしい。埼玉の代表も上田知事をはじめ、たくさんの市長、議長の署名をもらってニューヨークへいったのだそうだ。最終的にその署名は500万人の署名になったというから凄い。
アメリカは北朝鮮の核を恐れているようだが、本気で核拡散を防ぐ気があったら、まず自分達の核から少しずつでも放棄していかないとおかしい。俺はいいけどお前らは駄目というのは屁理屈もいいところだ。日本は今、国連安保理の常任理事国入りを目指しているようだが、常任理事国を増やすのではなくて、そんなもの無しにしていくのが筋なのではないかと思う。どの国にも同じように一票を与えてこそ、本当の国際連合ではないかと思うのだ。大国の都合で国際連合が利用されていくのはよろしくないと思うのだ。


また教え子のお父さんが亡くなった。六中テニス部の最後の教え子のお父さんのお通夜に行った。僕が行くと彼女は肩を震わせて泣き始めた。「六中のテニス部を代表してきたよ。」というと「ありがとうございます。」とまた泣いた。
とっても才能のあった学年で、最初から全国大会へ行くことが決まっていたような学年だった。僕は彼女達と毎朝サッカーをやっていた。彼女は僕の敵になると、ずっと僕をマークしてしつこく走る子だった。テニスでも同じように、最後の最後に実力でレギュラーを勝ち取り、そして全国大会に行った子だった。

帰ろうとすると、「先生!」と駆け寄ってきた子がいた。彼女は僕が六中のコートを去った時の2年生。廃部とコーチを天秤にかけられて、泣きながら僕と別れた子達の一人だ。「大きくなったね。何年生になったの?」と聞くと「2年生です。」という返事。あれからもう丸々3年が経ったのだ。僕はコーチを辞めたお陰で今の自分がいる。そういう意味ではあの時、六中のテニス部を潰しにかかった大人たちに感謝しなくてはいけないのかも知れない。あのままいっていたら、僕には自分の自由になる時間など、ほとんどなかっただろうし、今の仕事もしてなかっただろうから・・・・。
だけど、その代わりに彼らの夢は終わってしまった。キラキラした瞳が再び輝くことはなかった。今の僕は彼らの犠牲の上にいるのだということを忘れてはいけない。僕らは最後にハイタッチして別れた。昔、六中のテニスコートでしていたように・・・・。


6月13日 (月)  「たかやん議員日記」2004.第165弾! 

「たかやん議員日記」2004.第165弾!  6月13日(月)

全協
今日の議会は9時半からの全員協議会でスタートした。議題は「土地開発公社の経営の健全化に関する計画」である。要するに、新座市土地開発公社は、長期にわたる景気低迷や国の三位一体の改革等による市の収入減を背景として、保有期間の長期化、借り入れ金利や管理費の負荷による簿価の上昇を招き、非常に厳しい経営環境となっている。ということらしい。そこで、現在ある10,389,236000円の用地保有額を平成21年度までの5ヵ年で2,614,152000円まで保有額を引き下げるという計画を立てたということなのだ。その内訳は一般財源が3,962,780000円で起債が6,295,200000円、国庫補助金が273,600000円ということだそうだ。要するに一般財源と新しい借金で土地開発公社から買い戻しをする訳で、土地開発公社の経営は健全になるかも知れないが、新座市の財政はさらに厳しくなるということなのだ。今年度から5億、6億、7億、9億、12億と一般財源から土地を取得しようというのだから・・・・・。僕が3月議会で“土地開発公社”に関して一般質問した時は、「新座市に不要な土地はありません。」と答弁していたが、不要ではなくても無理に保有している土地はあったということだろう。

歴史教科書
一般質問の時は、基本的には質問している議員と執行部以外は発言する機会はない。「異議なし!」と言ったり、野次を言う以外は基本的には話を聞いているだけである。勿論、勉強になることはメモを取ったり、他の議員から資料請求された資料には真剣に目を通す。後は自分の仕事をする時間でもある。例えば意見書を考えたり、自分の一般質問の準備をしたり・・・・討論の為の準備をしたり・・・。僕は歴史教科書を読んで勉強している時間が長かったような気がする。歴史の教科書を最初から最後まで読んだことなど一度もなかったが、読んで見るとなかなか面白かった。

虜囚日記抄3
二十年 十一月×日
今日の作業は、一日中穴掘りできつかった。印度兵のサージャントが一寸も休ませてくれない。昼食時間に要領者の林兵長と一緒に印度兵の幕舎を訪ねた。奴等は、日本には東京しか都市がないと思っている。「家が東京にある」とか「チャンドラボーズは偉い人だ」とか言ったら、コーヒーをご馳走してくれて、煙草を十個ばかりくれた。皆が今日は拾った煙草を吸わなくてよいと喜んでくれた。

  


6月14日 (火)  「たかやん議員日記」2005.第166弾!

「たかやん議員日記」2005.第166弾!  6月14日(火)

市長
二日続きで朝、市長に偶然会った。二日とも僕は自転車、市長は歩きである。半袖短パンで「おはようございます!」と声をかけると「あ、おはようございます!」と二日とも笑顔で挨拶をしてくれた。文さんに「市長は歩いて来ているんですか?」と聞くと「そうだよ。だって市長の家は市民会館の並びだから。」 という返事。要するに市役所の隣りに住んでいるようなものだ。歩いてきて当たり前である。僕も昔、職場のすぐそばに住んでいたことがあった。学校まではあるいて10秒ほどだった。

少年野球
新座には少年野球のチームが16ほどあるらしい。今日は野寺小学校の野球チームがバランスボール(ヨガボール)を100個ばかり新座市に寄付してくれた。市長も大喜びで、老人の方の運動や、子ども達の運動に使えるように手配しましょう、と言っていた。そのコーチの方は「小学校でスポーツクラブをやっている子ども達が頑張って賞状やトロフィーをもらったときに、学校で表彰されたり、そのトロフィーを飾る場所があったらいいのですが・・」と提案されていた。中学校の部活動と違って、小学校の敷地を使ってのクラブ活動はそういう場面がないのだそうだ。そういう子ども達の活躍はいくら誉めてもいいと僕も思う。自分の存在を認めてもらった子は伸びることが多い。新座の学校の学習のレベルを上げるためにも、いいことだと思う。

笑顔
昼休みに空が遊びに来た。僕が忘れた麦茶を届けに来てくれたのだ。娘の雪も孫を連れてきたから、赤ん坊が二人でやけに賑やかだった。公明党のK議員は「おーい!」と空に声をかけてくれた。前に会ったことがあって、覚えていてくれたのだ。同じ公明党のF議員も「いくつですか?」と笑顔で声をかけてくれた。赤ん坊の力は凄い。みんなが自然に笑顔になるから・・・・。僕も小さい子を見るといつも笑ってしまう。

一般質問
いよいよ明日は僕の一般質問の日だ。相変わらず原稿は全く書いてない。何を聞くかは勿論通告してあるから、分かっているのだが・・・・何を喋るかは自分でも分からない。英語は怒られそうなので、日本語だけで話そうとは思うが・・・・。

閔妃暗殺
みんぴという朝鮮の王妃を日本の軍隊や警察が王宮に乱入して殺害したという話は韓国では誰でも知っている話なのだそうだ。僕は今まで知らなかったが、歴史教科書を勉強していくうちに閔妃という王妃に行き着いた。もし、日本の皇居に外国の軍隊が乱入し、皇后を殺害したとしたら・・・いくら昔のこととはいえ、1895年の出来事を忘れることはできないだろう。日韓併合、強制連行、従軍慰安婦・・・韓国、朝鮮の傷は深い。僕は今その「閔妃暗殺」という本を読んでいる。



6月15日 (水)  「たかやん議員日記」2005.第167弾!

「たかやん議員日記」2005.第167弾!  6月15日(水)

一般質問
今回は質問が多すぎた!欲張りすぎた!というのが第一の反省である。質問事項が多すぎて、全然時間が足りなった。だけど議員の任期は4年。次もあるという保障はどこにもない。だったら悔いのないように発言だけはしていこう。議会での発言は、記録として残る。自分が生きていた証になる。そう思ったら、少し気が楽になった。

執行部
会議が始まる前、財政部長の席に座ってみた。(財政部長に質問があって、待っていた。)執行部側から見た議場は、いつもの席から見た議場とは全然違って見えた。「ここ、凄く緊張しますね。」と言うと、周りの部長達が「30名の前で答弁するんですから。」「たまには代わりましょうよ。」と冗談。執行部が議員席に座って、議員が執行部の席に座っての議会・・・・・うーん、面白そうだ。お互いに相手の気持ちになって考えられて、いいかも知れない。傍聴席の市民にも参加してもらったら、もっと面白いかも・・・・

傍聴
雨だから、傍聴は少ないだろうなあ・・・そう思っていたのだが、傍聴席に啓介の姿を見つけたときには嬉しかった。彼は僕の選挙を泊り込みで応援してくれた、僕の応援団の一人である。「どうしたの?」「来るって言ったじゃない。」「そうだっけ?」僕の一般質問を聞きに、わざわざ川越から駆けつけてくれたのだ。

応援団からのメール
一般質問で少し落ち込んでいたら、メールが来ていた。嬉しいメールだった。


高邑さん
お疲れ様でした。回をますごとに質問がわかりやすくなっていますね。
今までの議員さんにならうのではなく、高邑さんらしい問いかけ・問題提起を今後も
期待してます。
温圧効果でしょうか? ワイシャツ姿がスリムに見えました。頭の形もしなやかに?
なっているんじゃないですか。

教育問題についての質問は直接陵平さんのことではありませんが、どれもつながって
いる問題点に思えました。(「六中の自転車通学 ヘルメット着用指導について」
「ジャージなど指定用品について」「通学区の自由化について」「適応指導教室につ
いて」「中学の英会話授業について」)

特に「六中の自転車通学 ヘルメット着用指導について」は考えさせられました。
私の子どもが大和田小に行っていた頃も、野火止小の子どもが歩いて帰る途中に交通
事故にあい、亡くなって、校長会で通学時にヘルメットをかぶらせようという動きに
なり、岩附さんと校長のところに行って、「それはおかしい。辞めてほしい。強制し
ないで!」と談判した記憶があります。
そのとき、私の中にあったのは「交通安全」より子どもにこれ以上の苦役?を与えた
くない、白いヘルメットをかぶった子どもたちが歩く姿(ヘルメットイコール軍隊を
連想してしまうのです)を見たくない、歩行者優先の交通環境に変えていくのが本来
じゃないの、というものでした。
今日、高邑さんが問題にされていたのは、強制的な指導についてでした。かぶってこ
ない子どもに対してルールを守らないから、1ヶ月自転車通学を禁止したり、親を呼
びつける指導のこと。ここが陵平さんのとき同じ。カウンセリングマインドと言葉は
使いながら実態がない、「交通安全」とか「命の大切さ」というお札指導(指導とい
う言葉も使いたくないな〜〜)なんですね。
高邑さんはとにかく、子どもが嫌がっている気持ちを代弁していたし、安全と言うな
ら先生がかぶらないのはなぜか?部活に行くときはかぶらなくていいのはなぜか?と
いう矛盾を突いていました。

このヘルメットの問題はじっくり向き合いたいところです。教育長だけでなく、大人
がどうしてなんだろうと考えていきたいし、科学的根拠もほしいですね。
確かいま乳幼児の子育てネットワークでは、ママチャリに乗せる子どものヘルメット
が奨励されていて、新座市内でも見かけます。ツールドフランス並のかっこいいヤツ
です。でも、お母さんはかぶってませんね。ここです。矛盾は。どうしてなのか、
ちゃんと考えていきたいです。
カナダに行ったとき、貸し自転車で公園を走るときは大人も子どももヘルメット着用
が決まりでした。大人とか子どもとかでなく、誰の命も大切にされていること、矛盾
のない実態があれば子どもたちも理解できるはずだと思います。
安全というなら、そこら辺の大人の矛盾を整理していかないと、子どもは納得しませ
ん。
高邑さんが言っていたように強制ではなく、選択する機会を子どもたちにたくさん与
えてほしいです。

高邑さん
これからも子どもの代弁者として発言を続けてください。ストレートパンチも大切だ
けど、ボディブローは結構効果がありますよ!!
私もできるだけ傍聴に行って応援します。
眠ってる議員のチェックもしながら…。
それと、一つ残念だったのは、適応教室のことについて市長の答弁もある予定がな
かったことです。市民として見解を聴きたかったな。高邑さんが愛知の教室を視察さ
れたことを話したのは効果的でした。視察されたことを質問に生かすのは具体的でい
いですね。どんどん現場の声を発信してください。







6月16日 (木)  「たかやん議員日記」2005.第168弾! 

「たかやん議員日記」2005.第168弾!  6月16日(木)

答弁
今回の一般質問では市長の答弁が一番嬉しかった。畑中3丁目の住民はあの煙と騒音、そしてカメムシに本当に悩まされているのだ。今までの一般質問で手ごたえのある答弁が返ってきたのは初めてだったので、本当に嬉しかった。「地域のみなさんと早速相談します!」とか「厳しい態度で対応します。」とか・・・住民の気持ちを十分理解してくれた発言だった。

教育問題は今回もすれ違いだった。質問と答弁がかみ合ってなかったのは、たくさんの問題を取り上げすぎた僕にも責任がる。だけど、問題提起したことには意味があると思っている。たくさんの資料をみんなに見てもらうことができたのだから・・・。そして一番大切なことは子ども達、内申を気にして発言できない親達の代わりに、校長の評価を気にして発言できない先生達の代わりに僕が発言していくことだと思う。

おかしなことは何度でも質問して新座市全体の人たちに知ってもらおう。そして小さな力が大きな力になるのを待とう。

談合?
今回取り上げた「学校指定」のジャージや靴の問題。僕は談合しているなどとは言っていない。「適正な価格ですか?」「適正な決定方法ですか?」と聞いたのだ。「談合を疑われることがないようにどんどんオープンにしていきましょうよ。」と発言したのだ。
だけど「学校の名誉の為に言わせてもらいますが、断じて談合はありません。」という部長の答弁が返ってきて、僕はちょっと驚いてしまった。僕は今までそういうことがあったなどと言っていない。高校の体育の先生がスポーツ屋からお金をもらったことが新聞に載っていたから、そういうことのないように気をつけましょうね、と言いたかったのだ。ムキになって否定されると誰だって疑いたくなるではないか・・・・
先生達は世間知らずであることが多いのだ。純真な人ほど色々利用されやすいから気をつけましょうよ。そう言っているのだ。「先生には特別半額にしておきますよ。」笑顔でそう言われると、断れない人が多いと言っているのだ。部活動の顧問には思い当たる人もいるだろう。それが全校生徒のジャージやヘルメットなどと結びつかないようにして欲しい。気をつけてくださいね。そう言っているだけなのである。

パパ!おかえり
塾から帰って来たのが10時過ぎ。昼寝を夕方までしてしまった空はまだ起きていた。僕が玄関を開けると
「パパだ!」と大声を出して駆け寄ってきた。そして「ただいま空!」というと「お・か・え・り」とぺこっと頭をさげた。その仕草があまりにも可愛かったので僕は何度も「ただいま」を言い、そして空は何度も「お・か・え・り」とお辞儀をしたのだった。どんなに疲れていても、子どもの笑顔を見ると、親は元気になる。“親は子どもを育てているのではなくて、育てさせてもらっているのだ。”という言葉の意味がよく分かる。


6月17日 (金)  「たかやん議員日記」2005.第169弾! 

「たかやん議員日記」2005.第169弾!  6月17日(金)

議会最終日
今朝は4時過ぎに起きた。最終日ということで、目が覚めたのかも知れない。今朝もいつものように、自転車で市役所に向った。控え室でネクタイをする。
今朝は議運があったので、1時間遅れの10時半スタートの議会だった。そこで記念撮影をした。「クールビズ」の写真撮影だったらしく、僕はネクタイをはずすことになった。写真を撮ったら、また直ぐにしたけれど・・・・その議会もH議員の発言をめぐって「休憩」となり、またそこで議運が開かれ・・・・気がつけば5時を過ぎて・・・・・予想以上に長い最終日となった。

議会が終わってから会派のみんなで話をした。なかなか中身のある話だったと思う。考え方は少しずつ違うけれど、いい仲間だと思った。

大和田小
今度の一般質問は大和田小のことについてやることにした。何をどうやるかについては楽しみに待っていてくださいな。

逮捕
また新座市内の中学生が逮捕された。と新聞に掲載されていた。先生と生徒の信頼関係が出来てないのかも知れない。新聞の記事を読んでそう思った。荒れている学校の特徴は生徒を諦めている教師が多いこと。勿論、生徒も余り、教師に期待をしてはいないが・・・。

僕も六中時代休み時間の喫煙のことで6〜7人の生徒を一度に殴ったことがある。非常階段のところでゲンコツでゴンゴンゴンとやった。「ふざけるな!」「ここは学校だ!」「吸殻をすてるんじゃあない!」「この馬鹿たれが・・・」「そこに座れ!」と正座させた後、バケツの水を3杯ほど頭からかけてやった。制服がびしょぬれだとこぼす子ども達。「制服は乾く!」「掃除をしておけ!」と立ち去る僕。勿論親に連絡などしなかった。担任の先生には言ったような気もするが・・・・・・言わなかったかも知れない。間違ったことを本気で叱って、生徒から殴られたことはない。こどもが親を殴れないのと同じ仕組みである。それから子ども達は学校では喫煙をしなくなった。最低の仁義はあったのだ。僕のやり方が100%だったとは思っていない。ただ、その子ども達は卒業式ではみんな涙を流して卒業していった。



6月18日 (土)  「たかやん議員日記」2005.第170弾! 

「たかやん議員日記」2005.第170弾!  6月18日(土)

39度5分
18年前のお話。クリスマスイブの夜中に僕は41度の熱があった。通知表を書けないほどの熱で、もう駄目かと思ったとき、毎日発行していた「一生懸命」という学級通信を書いていないということに気づき・・・書いていたら、熱が下がってきて、通知表が書けるようになり、それも書いていたら、38度5分くらいまで熱が下がったから、今度は朝練に行こうとした。そこに大力という1年生から「39度5分の熱があるので休みます。」という電話があったので「俺は41度あったけど、行くよ!」と言った。朝練に行くと、その大力も来ていたというお話である。

その大力が久しぶりに我が家に泊まっていってくれた。関東の決勝で、慶応に勝ちたい一心で全員が坊主になった大力達。「日本一になろう!」と夢を見て、全国の準決勝で2-3で負けた大力達。その最後のシングルスが大力だった。

「お前、あの時よく来たねえ。考えてみれば、まだ12歳だっただろ?中一じゃない。」「そりゃあ行くしかないでしょう。ですよね。」と僕の奥さんに同意を求める大力。
「そうかもね。あたしも同じ状況だったら行ったかも・・・」「ですよね。」
僕が大力だったら、電話をしたかどうかも疑わしい・・・・のに。大した中学生である。

テニス
議会も終わり、久しぶりにテニスをやった。石神井高校の後輩のO氏とダブルスを組んでまず2試合。明日は二人でダブルスを組んでクラブ内の大会にでるのだ。ダブルスというのは不思議なもので、気が合うと妙に楽しいし、何となくうまくいくのだ。初めて組んだのに、試合が進むにつれて、気が合ってきた僕らであった。
午後からは県のチャンピョンのTさん達とダブルスを2試合やってもらった。20代の球はスピードが速くて、ついていくのがやっとだったが・・・・昔の感覚が少し蘇ってきたりして、もの凄く楽しかった。
昔の六中のコートにも卒業生や、その友達が来てくれて、僕は同じような感覚を味わっていた。県のチャンピョンは勿論、全国のチャンピョンもプロになった子達まで遊びにきてくれていたのだ。高校、大学のトップの子達のボールは本当に速かった。強いと思っていた顧問が目の前でボコボコに負けるのを見て、子ども達は僕を倒そうと練習をしたものだった。あの頃は一日20試合以上子ども達とやっても全然平気だった。今日は4試合でもうヘロヘロ。トレーニング不足である。



6月19日 (日)  「たかやん議員日記」2005.第171弾! 

「たかやん議員日記」2005.第171弾!  6月19日(日)

息子の担任
僕の息子、亮の中学校の担任は僕の同僚。同じ学校にいるとそんなことが起きる。学校の行事はいつも重なるので、娘の雪の場合は、入学式にも卒業式にも体育祭にも行ってやれなかったが、亮の場合は卒業式以外は全部見ることができた。同じ学校にいれたからである。同僚の先生達はやりずらかったと思う。父親が同じ職員室にいるのだから・・・・・。

亮は中学時代の担任の先生のことを「よかった。」といつも言っていた。1年生の担任は僕と同じ理科のK先生。友達とふざけて教室のガラスを割って、職員室にきたり、校長室に謝りに行ったり・・・・。いたずら坊主だった。
2年生の担任は体育のM先生。体の大きな先生だったのだが、ギターが上手で独特の雰囲気のある人だった。僕が一目置も二目も置くこのM先生に亮はある日、逆らった。あろうことがその先生に向って「うるさい、死ね!」と言ったのだ。掃除の時間にお腹が痛くて机に突っ伏して寝ていたら怒られたらしい。職員室でその話になり、僕は「すいません、そういう時はぶっ飛ばしてください。」と謝るだけ。本当に困った。
ところが亮は「2年生のM先生のクラスは楽しかったよ。」「M先生はよかった。」「K先生も、三年のY先生もよかったけどね・・・。」と言うのだ。亮が2年生の冬に2週間アメリカに行ったときも何も言わずに行かせてくれたM先生。今日いなげやでばったり・・・・お元気そうだったのでよかった。「中学時代が一番よかった。」という亮。3人の担任の先生方のお陰である。

体が・・・
今日のテニスの試合は楽しかった。1回戦は7つほど年下の若いペアとの戦い。石神井高校ペアは予想を覆して6-4で辛勝した。サッカーだとまだまだいけるのだが、普段球出ししかやっていないテニス。体が動かない。2回戦は1シードの強豪。やはり7つほどの年下のペアは全てにおいて、僕達より断然上。僕らは2-6で完敗したのだった。筋トレをして来年は臨もう。テニスはまだまだこれからである。

心が・・・
試合の後はビールで乾杯。勝ち残った人たちの試合を見ながら、ビールで乾杯。クラブではこういうことができるのだ。中学校のコートではではそうはいかない。親と一緒にバーベキューとかの場合は別だが・・・・・。昔、日曜日の昼にワインを飲んだことがあった。足の骨にひびが入っていて、痛くなったので飲んでみたのだ。飲んだらもっと痛くなって参ったのを覚えている。朝練のサッカーで子どもに足を蹴られての骨折だった。十分酔いを醒ましてからコートに戻ったのだが、その後に3キロのランニングをさせたら「コーチは飲んでいたらしい。」と子ども達に伝わり、それが校長にも伝わり、とんでもないことになったことがある。ちょっとキツイ練習をやると文句を言われてしまうのだから、女の子は恐ろしい。男子の方は何でも一緒にやれるから、余りそういうことにはならないが・・・・・骨折しても痛いだけ。ボランティアコーチも大変である。
昨日のビールはそんな心配もなく、色々と語れたので本当に美味しかった。ビールを飲んだ後のテニスも楽しかった。体はボロボロになったが、心は爽やかな一日だった。



6月20日 (月)  「たかやん議員日記」2005.第172弾! 

「たかやん議員日記」2005.第172弾!  6月20日(月)

陵平のこと・・・
今回の一般質問で陵平のことを質問しなかった。議員になってから毎回質問していたのに・・・。でも、僕は陵平のことを忘れてしまった訳ではない。今回の質問だって、いつも陵平のことを意識していたのだ。本当に“カウンセリンングマインド”のある指導をしているかどうか・・・そこがポイントである。

空が帽子を被るようになった。何度かぶせても「やーや。」「いたい!」と言って被らなかったのだが、「かっこいい。」「かわいい。」と言っているうちに被るようになった。これから日差しが強くなるので、ちょっとホットしている。僕はこういうほんの一寸の空の進歩が嬉しくてしょうがない。空は毎日毎日少しずつ進化している。それを近くで確認できる僕は幸せである。上の二人の子たちは、そういうことには全く気づかなかった。朝から晩まで学校にいたから、気付かなかったのだ。

空を見ていて、いつも僕は陵平のことを考える。余りにも短かった陵平の人生を思うのだ。空が中二までしか生きられなかったら・・・ガムやライターごときで自尊心を傷つけられたら・・・・。そう思うだけで“怒り”や“不安”が僕を包んでしまう。新座の学校は本当に大丈夫なのか?と。あれからちっとも変ってないのではないか。どんどん悪くなっているのではないか・・・最近の色々な情報が入るたびにそう思うのだ。

陵平のためにできること。陵平の両親の代わりにできることはなんだろう。僕はそのことが心から離れない。“時間”で解決できることとできないことがあるのだ。雪や亮は友達や先生達のお陰で「危険」な時期を無事に通過することができた。あの当時の五中も六中も全然管理的ではなかったから・・・・先生達にも余裕があったのだ。

この間の議会で「学校は刑務所のようなところ・・・」とH議員が発言したことで、議運が開かれたが、そう親や子ども達が感じることは確かにあると思う。「軍隊」「刑務所」「体育大学」・・・命令と服従が要求される場所に「規律」はあっても「自由」がない。上官や上級生の気まぐれによる「自由」はあるかも知れないが・・・・そう誰かが言っていたが、なるほどな、と思う。

僕自身は石神井高校テニス部で「体育大学」のような環境で育った。確かに上級生の言うことは絶対だったし、1年生には殆ど自由がなかった。だけど僕は今でもその先輩達が大好きでたまらない。それは同じ苦しみを先輩達も経験してきたからかも知れないし、2年生になると「自由」が復活できるからかも知れない。強くなれば先輩を差し置いて試合に出れるクラブだったからかも知れない。だから僕自身の中にもそういう馬鹿みたいな「規律」に対して許容できる自分がいるのも確かなのだ。

だけど、中学校にはそういう意味での「規律」はいらない。授業は楽しくて、分かれば、子ども達は自然に集中していくものだ。授業は子ども達を縛り付けるものではない。授業は子ども達を惹きつけるものなのだ。そういう授業をするには勉強することだ。いい表情で、子ども達を惹きつけ続けている先生達を僕は知っている。新座の宝物である。ただ、残念なことに彼らは宝物とは評価されていないかも知れない。子ども達はちゃんと気付いているのだが・・・・。

陵平が生きていれば大学1年生。先生達が全員力を合わせて、同じ指導をしていなければ・・・・・彼はきっと今、青春真っ只中だったに違いない。そのことを僕らは忘れてはいけないのだ。「共通理解」「共通行動」「一枚岩」・・・・管理教育の恐ろしさには先生達も気付いているはずだ。だけどなかなかものを言えない。言える雰囲気がない。そういう学校で育つ子ども達は可哀そうである。


| 1 | 2 | 3 |
2005/6
SuMoTuWeThFrSa
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

前月     翌月