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7月15日 (金) 『一生懸命』幻のたかやん日記 第195弾! 2011.7.15(金) たかやん
『一生懸命』幻のたかやん日記 第195弾! 2011.7.15(金) たかやん
日記 朝、八石小のあるお母さんから「大丈夫ですか?」と聞かれた。「日記に書いてあったので・・痛みますか?」「ああ、うん、痛いので多分今日検査して入院すると思います」と僕は答えた。嬉しかったのは僕の日記を読んでくれている人が少しずつだけれど増えているということ。Kさんのように毎日チェックをしている人がいることも嬉しい?が、時々でも、僕の日記を読んで、何かを感じてくれる人が増えていってくれたら本当に嬉しいのだ。
あれ? そして、清瀬の複十字病院での検査の結果は「気胸ではありません!」「ちゃんと肺は大きなままです!」という意外なものだった。どうみても、この痛みはあの痛みなのである。先生はこう続けた。「多分、痛みの記憶があって・・・それを感じているのでしょう。」それって、去年の夏の熱い空気を僕の体が記憶していて、あの痛みを思い出させているということ?そんな馬鹿な・・・。「まあ、安静にして、様子をみといてください・・」と言われた。明日は毎日選手権のシングルス。どうする、空父!
安静 一日ずっと安静にしていた。殆ど何もしないで横になっていた。それでも入院するよりは幸せなんだろうなあ・・・。入院したらお金もかかるし・・・そのお金で今度こそ洗濯機を買おう!そんなことを考えながらソファーで眠ってしまった・・・空父であった。
ソファー どうも気持ちよく眠れるのである。ソファーで韓流ドラマを聴きながら・・・いつの間にか眠ってしまう。病院ではできない、幸せな一こまである。
試練 高校時代から、随分先輩達には無理なことをやらされたけれど・・・五中の1年目程酷い試練はなかったかも知れない。どこの世界に大学を卒業したばかりの新米に3年生の担任をやらせ、尚且つ2年生の1クラスを教えさせる・・・そんな中学校があるのだ。新米ということは授業の準備が倍かかるということで、2学年教えるということは更に倍辛い訳で・・・初めての3年の担任は倍大変で・・・それだけで8倍ではないか・・。しかも、問題児をほかのクラスの倍以上送り込んだのだから・・・・16倍じゃあきかない大変さだった訳で・・・我ながらよく堪えたと思う。でも、いつも子ども達が僕の味方だったから・・乗り越えられたのだ・・。そして、厳しいけれど、暖かい先輩達がいたから・・・。
教師を目指す人へのメッセージ3
初めての授業 初めての授業の時のことは今でもはっきりと覚えている。自分が子供達にどういうふうに見られるのか、馬鹿にされはしないか、間違ったことを言いはしないか…・そんなことばかり考えていたから、顔が赤くなり、緊張の固まりという状態だった。 僕は元々人前で話す事が苦手だったから、授業のプレッシャーというのは相当のものだった。僕の赴任した学校は新設校で二つの中学校が合併してできた中学だった。そして僕は3年生の担任。埼玉県でたった一人の新卒の3年の担任だった。子供達は二つの学校が合わさっている訳だから、なんだかおかしなムードだし、僕は新米で何が何だか分からなくて、本当に漫画みたいなクラスだったような気がする。要するにクラスを仕切るのは僕ではなくて、子どもだったのである。 最初にクラスに入った時も「席に着いて!」と言っても、子供達は席に着かない。「こら!席に着けっていってんだろ!」と怒ってみても「嫌だね。」と一番のチビのIに言われる始末。先生の権威なんか全く無かった。それでも番長格のTが「座ろうぜ!」と一言いうと、みんな席に着いてくれた。そんな訳だからネクタイにスーツ姿の僕は子供達のいい標的だった。休み時間になるとネクタイを引っ張られ、首を絞められ、まったくいい遊び道具だった。口でも体力でも子供達に勝てず、本 当に情けない担任だった。 二日目から僕はネクタイを外し、ジーパンにセーターで登校した。スリッパを止めて、運動靴にした。子供達と格闘して勝つにはまず格好が大切だったのだ。そんな状態で最初の授業が始まったのである。3年生を4クラスに2年生を1クラス持たされた僕は本当にアップアップの状態だった。45分の授業にわざと5分遅れて行き、5分早目に終わらせて、35分の授業にしてみたり、とにかく早く教室から逃げ出したいと思っていた。そして質問が恐かった。「なんで?」「どうしてそうなるんですか?」「この植物の名前は?」恥ずかしいことにその質問のほとんどに僕は答えられなかった。ただごまかす事だけはしなかった。『今、分からないから調べておくよ。』そうやって先輩の先生に聞いたり、本で調べてきたりしていた。要するに子供達に勉強させられていたのだ。 僕は東京の新宿で育ったせいか、植物には特に弱かった。信州の山の中で育った、大学時代の友達に随分馬鹿にされたものだ。「おめえ、それでよく理科の教師になろうとするだな。」だから野外実習の時はもう必死で子供達と一緒に図鑑とにらめっこして、野草の名前を探した。そうして実習場所の野草の名前だけには滅法強くなったのである。そしてそのことがちょっとした自信になっていった。まるで子供達が自信を持つのと同じように。 そう、「先生」とは名ばかりで実は「生徒」だったのだ。教えている積もりが、実は子供達に教わっていたのだ。このことは実は21年間ずっと僕の心の中で続いていた。教師という仕事は実は子供達から教わる事の方が多いのではないか、ということである。そしてそのことは今でも正しいと思っている。僕らは子供達からたくさんのことを学ぶのだ。そして成長するのだ。どんなに授業が上手に出来ても、そのことが分からないとプロの教師にはなれないと僕は思う。
今日の写真1 僕の2回目の卒業生の二人五中の3年1組の子達が我が家に大学合格の報告に来た時の写真です。左は大。右は秀行。この子達は優秀でした。僕はこの子達と2年間同じクラスで生活しました。いわゆる持ち上がりのクラスだったのです。特に3年生になってからは1年間、毎朝「朝勉」をやりました。他のクラスよりも1時間早く教室に来て、みんなで勉強したのです。ところが大は1年間一度も僕に質問しませんでした。理科のテストをやらせれば113点。100点満点で113点というのは、僕の模範解答よりも大の解答の方がよかったからです。秀行は3年生の最初の中間は405点くらいだったのですが、僕が数学の問題集(1,2年の総復習400円程度)をあげると、それを3回繰り返しあっという間に450点を越えるようになりました。僕は毎回子供たちと一緒にテストを受けていたのですが、定期テストでは遂に大に勝つことはできませんでした。大は東大へ進学し、秀行は京大へ進学しました。僕はこの子達に一緒に学ぶことの大切さを学んだのです。
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7月17日 (日) 『一生懸命』幻のたかやん日記 第197弾! 2011.7.17(日) たかやん
『一生懸命』幻のたかやん日記 第197弾! 2011.7.17(日) たかやん
教師を目指す人へのメッセージ5 僕が大嫌いなものの一つに指導案がある。教育実習の為の指導案。研究授業の為の指導案。 この指導案にうるさい人がいる。「この指導案はなんだ!」「この指導案の書き方はなんだ!」と授業の前にケチをつける人達である。「授業というのは指導案がよければ誰でもできるものだ。いやそうでなければならない。」とまで言う人もいる。糞食らえである。 指導案の形式にうるさい人ほど子供達の表情には関心がないものだ。どんなに立派な指導案を作っても、子供達はそのとおりには反応しない。当たり前だ、生き物なんだから…・。事前に「打ち合わせ」をしていれば話は別だが。そういう作られた授業ほどつまらないものはない。子供達がどれだけ分かったかではなくて、教育委員会の「先生」達にどう思われるかが大事な授業。そんな授業は糞食らえだ。それは誉められる指導案が書けて、いい授業ができるに超した事はない。僕が言いたいのは、そういうものに時間をかけて欲しくないということだ。授業のポイントは一つでいい。それをクリアーできたかどうかを「生徒の感想」で判断して、次の授業でその反省を生かす。そのことの方が大切なのだ。僕の先輩には「私は毎回指導案を書いています。」という凄い人がいたが、彼女の授業は実につまらなかった。授業の達人になるのはいいことだが、指導案の達人になってはいけない。 導入…展開…まとめ。そういうパターンもあるだろうが、50分の時間を自分とそこにいる子供達で自由に使っていいのだ。子ども達が「分かった!」「できた!」と笑顔でいうことが大事なのだ。それさえ押さえていれば、あとは授業は生き物。脱線するのもいいではないか。これから「先生」になろうという人達にこんなことをいっては何だが、どんなに一生懸命授業をやっても、子供達はその内容などあまり覚えていないものなのだ。覚えているのは、楽しかった!とかやる気になった!とか授業中によく話が脱線したとか…何やったか覚えてないけど、理科の授業は好きだった!とかその程度なのだ。子供達が忘れないのは「先生」がどういう目で自分達を見てくれていたかということだ。どういう風に自分に声をかけてくれたかだ。どういう表情で自分達と接してくれていたかなのだ。それは自分自身で振り返ってみれば分かるだろう。どんなに好きな先生でも授業そのものを記憶している人はまずいないだろう。まあいくつかの授業は残っているにしてもだ。僕が忘れられない先生に兵藤鎮馬先生がいる。中学時代の数学の先生で教頭だった。そう昔は教頭も、時には校長も授業をしてくれたのだ。僕らは中3で初めてこの先生に数学を習った。先生は最初の授業でこういわれた。「僕の名前はひょうどうしずま。みんなヒョウチンと呼びます。だからみんなもそう呼んでください。」(ほんまかいな…)僕らは廊下で先生に会うと「ヒョウチン!」と呼んだ。すると先生は「はい、何ですか?」とこたえる。授業中でも「ヒョウチン!」すると「はい、何ですか?」そして、授業はべらぼうに分かりやすかった。僕らはあっという間にヒョウチン中毒になっていった。ヒョウチンは放課後も僕らの教室で数学を教えてくれた。時には高校の数学まで教えてくれたりした。僕のタカヤンというあだ名は実はこのヒョウチンがもとなのだ。「たかやん!」「あいよ!」僕はそう呼ばれる度に懐かしいヒョウチンが頭をよぎるだ。ほんのちょっとだけどね。あなた方もどうか子ども達の記憶に残る先生になって欲しい。
続指導案 研究事業で思い出すのは、指導案を前もって教育委員会に提出していたことだ。指導案の段階で指導を頂く訳である。「何なんだ!この指導案は!」と怒られたこともある。授業の上手な先輩に言われるのならわかるが、たいした授業もできない人にそう言われると、ムカっときた。(若かったのよねえ・・)どうも研究授業の為の授業。研究授業の為の指導案作りはやる気が起きなくて・・・時間も手間もかけたことがない。普段の授業が大事だからである。その名残は議員になってからもあって・・・通告書は書くが、質問の原稿つくりをしたことは一度もない。勿論、それを前もって執行部に見せることもしない。学芸会じゃあないからね。授業も議場も一発勝負。そういうスリルが楽しいのである。
痛み止め 背中の痛みは痛み止めで少し楽になった。楽になると・・動きたくなる訳で・・・今日はひとみと空と三人でお買い物。久しぶりに「買い物楽しかったねえ!」と空と二人ではしゃいだのだった。
今日の写真1 僕とひとみと空のラケットです。空のラケットはこれで2本目になります。黄色のヨネックスで大人のよりも少し短いですが、なかなか格好いいラケットです。ラケットですから、肖像権は大丈夫でしょう。
今日の写真2 調子に乗って靴も3足買ってしまいました。ボーナスが出たのと、入院しなくて済んだので、思い切って買いました。空のテニスシューズは初めてで・・・想像しただけで、ニヤニヤしてしまいます。亮は五中のコートで育ち、六中のコートで強くなりましたが、空が新座の中学校のコートでテニスをすることは多分ないでしょう。石神井高校や北大のコートでは大歓迎されると思いますが・・・・それもまた楽しみです。
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7月18日 (月) 『一生懸命』幻のたかやん日記 第198弾! 2011.7.18(月) たかやん
『一生懸命』幻のたかやん日記 第198弾! 2011.7.18(月) たかやん
教師を目指す人へのメッセージ6 「言葉」の持つ力を知らないで教師をしてはいけない。子供達には「いい言葉といい栄養で育つ権利」があると僕は思っている。心からでた言葉にはそれだけの力があるのだ。 朝から「おはよう!」ではなく、「何だお前そのスカートは!」「何でジャージなんだ!制服はどうした!」と叫ぶ奴がいる。彼らにはその言葉が子供達にどういう影響を与えるか考える力がない。それでいて、「挨拶」は大切だ。などというからちゃんちゃらおかしくなってくるのだ。「先生」は先を生きているのだから、何でも真っ先にやらなくては「先生」じゃあないのだ。こどもに気持ちのいい挨拶をさせるのは簡単だ。教師が自分から「おっはよーっ!」と笑顔で挨拶しつづければいい。勿論一日では駄目だ。最低2週間、子供達から挨拶が返ってこなくても笑顔つきでやり続ける。「継続は力なり」子供達は間違いなく笑顔つきの挨拶をするようになる。職員室の中には大声で挨拶しても何も返ってこない凄い奴もいる。さすがに大人だとむっとくるが、それでもし続けるとやっぱり返ってくるようになる。人間ってそういうものだのだ。学校は全ての時間が授業なのだ。廊下で会っても、校門で会っても、勿論授業中でも「言葉」には最大の敬意を払わなくてはいけないのだ。僕は教育実習を函館中部高校の定時制でやらせてもらった。僕はそこの1年生で生物の授業をしたのだが、ひどい内容だった。何しろ自分でも何をしているのかよく分からなかったのだから。それでも生徒達はみんな真剣に聞いてくれた。眠い目をこすりながら、真剣に聞いてくれた。8割以上が看護学校の生徒だったと思う。本当にありがたかった。最後の日にそこの教頭先生から僕らはこういう言葉をもらった。 「君たちの授業は確かに下手です。ひどいものです。しかし、君たちには僕らにはないものがある。それは言葉です。彼らと共通の言葉です。その言葉をいくつになっても失わないでください。お願いします。」 その言葉のお陰で僕は教師をやってこれたのである。「彼らと共通の言葉」それは上からものをいう「言葉」ではない。もちろん子供達と対等の言葉だ。別にこどもたちのいうところの「タメ語」で話せという意味ではない。ではどういう言葉なのか。それは子供達と何でも一緒にやっているうちに分かってくる言葉である。苦しい事も楽しいことも一緒になってやる。やらせるのではなくて、一緒にやる。それが味噌である。大きな声で校歌を歌って欲しかったら、自分も一緒に大声で歌う。一生懸命勉強して欲しかったら自分も一緒に一生懸命勉強する。そうすると彼らの言葉が聞こえてくるのだ。言葉はまず耳から覚えなくてはいけない。彼らの言葉が聞こえるようになったら、自分がしゃべるのは時間の問題なのだ。大学卒業してすぐの新米教師は特にその能力が高いはずだ。何しろちょっと前までは文字どおり「学生」だったのだから…・ところが「先生」になった瞬間にその言葉を忘れてしまい、二度と話せなくなる教師がたくさんいるのも事実である。彼らは残念ながらプロの教師にはなれないのである。言葉が話せないということはコミニュケーションができないということだ。それこそ最初が肝心である。言葉の力は恐ろしいのだ。笑顔つきのいい言葉より強いものはない。大丈夫。貴方ならきっとできる。 なでしこ 今朝はなでしこを見るために3時おき。流石に外も暗く・・・夜中という感じだった。3時半、決勝がスタート。前半の0−0はどうみても奇跡としかいいようのないくらい、アメリカに押し込まれ、好き放題にシュートを打たれていた。アメリカの選手はみな背が高く、足が速く、テクニックがあり、しかも綺麗な選手が多かった・・・。特にゴールキーパーのソロ選手はもの凄く綺麗で・・・(いやいや、ここはなでしこを応援しなければ・・・)一瞬、アメリカを応援しそうになった程だった。
諦めない 試合は奇跡としかいいようのない結果に終わった。前半を0点に抑えた軌跡。1点リードされて、追いついた奇跡。また1点リードされて追いついた奇跡。そしてPK戦での奇跡・・・でも、その奇跡を起こしたのも彼らの実力なのかも知れない。PK戦の前の監督の笑顔が忘れられない。一番、緊張する・・・どうしても勝ちたい時に、あの笑顔が出せる人は本物である。あの笑顔で選手達はかなりリラックスできたはずだから・・・・。先生と生徒もなでしこのような関係にあると、伸びるだろうなあ・・。
ワンバック 僕が感動したのはなでしこだけではない。アメリカのエース、ワンバックが負けた後、日本チームにやってきて、みんなに声をかけた姿が印象的だった。アメリカで誰よりも勝ちたかった選手のはずだ。その彼女が勝った日本を称えたのだから・・・・。朝からいいものを見させてもらった空父であった。
痛み止め 飲んでいる間は効くのだが・・・時間が経つと、痛みはぶり返す。「気胸」でなかったら、いったい何の痛みなのだろう・・・。筋肉痛にしては長すぎるのである。
今日の写真1 この3連休で久しぶりにゆっくりできた亮が「将棋やろう!」と言ってきました。亮は道路に寝転ぶような子で、兎に角やんちゃでした。試しに将棋を教えると・・・ちゃんと正座して何時間でも集中できるようになったのです。お風呂の中でもいつも将棋でした。頭の中の将棋盤でやるので、僕の方が先にわからなくなって負けていました。今日も大接戦になりましたが、最後の最後で負けました。空は亮の隣でグランドピアノの絵を描いていました。今日の肖像権も多分、大丈夫だと思います。実の息子達なので・・・。
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7月19日 (火) 『一生懸命』幻のたかやん日記 第199弾! 2011.7.19(火) たかやん
『一生懸命』幻のたかやん日記 第199弾! 2011.7.19(火) たかやん
教師を目指す人へのメッセージ7 自分の事を「先生はね」と一人称で呼んではいけない。中には「校長先生はこう思います!」とか恥ずかし気もなくいう校長がいるが、あれはかなり恥ずかしい。「先生は…」と自分で言う人はそう呼んで欲しいのだ。「先生!」と呼んで欲しいからそういうのだ。僕は職員室でも「タカヤン!」と呼ばれていた。すると怒る人がいるのだ。職員室でそういう呼び方をするな!と怒る訳である。大きなお世話である。教師はあだ名で呼ばれて一人前なのだ。「職員室では、生徒は後ろのドアから入る事。」と決めた学校があった。前には校長教頭、教務主任がいるというのが理由である。 生徒と共通の言葉を持ち続けた校長は「いつでも校長室に遊びにきてね!」と子供達に伝える。この差は大きい。自分が偉いと思うような管理職は学校には必要無いのだ。学校に必要なのは子供達の言葉を話せる先生である。 今の学校には「取り締まり系」の先生が多すぎる。校則を取り締まることなど素人でも出来るということが分かっていないのだ。「共通理解」「共通行動」それが大事だという学校があった。みんなで同じことをする事が大切なのだ、という訳である。一見もっともだが、実はそのことほど危険な事はない。自分が生徒であるとしよう。朝から友達の事で悩んでいる。そういう時に会う先生みんなから「お前、名札がついてないな!」と言われたらどう思うのだ。嫌いな先生ならまだいい。好きな先生からも「お前、名札がついてないな!」と言われたら、子どもは学校に来たくなくなるだろう。でも、自分の好きな先生が「おはよう!どうした?元気がないぞ!何かあったか?」と笑顔で聞いてくれたら、子供達はどんなに嬉しいだろう。プロは子供達の目を見て言葉を選ばなくてはいけないのだ。 今、小学校でも中学校でも「朝の挨拶運動」なるものをしている学校がある。校長やPTAのお母さん達が朝、校門に立って「おはようございます!」というあの運動である。選挙運動じゃああるまいし、いかにも不自然なことなのに、それが子ども達を変えると信じている人達がいる。自分が生徒の気持ちになれない人達である。要するにプロではない訳だ。挙げ句の果てに服装のチェックをする人までいるからどうしようもない。「朝の挨拶運動」は自己満足以外のなにものでもないのだ。「校則」では人間は教育できない。中学校の校則などは世の中にでれば全く通用しないものなのだから…・。子供達に教えなくてはいけないのは「きまり」ではなくて「マナー」である。これは日本中どこへ行っても通用する。(世界は広いから通用するとは限らないが…・。)「校則」に目くじら立てる先生が、「いじめ」を見逃すのだ。子供達の「目」を見ていないからそういうことになるのだ。プロはいつでも子供達の目をみていなくてはいけない。「共通行動」というなら、そういうことに「共通行動」を取って欲しい。 プロの教師は自分のことを「先生」と呼んではいけない。「私」や「僕」や「俺」という日本語があるではないか。「俺」が悪い言葉などと言ってはいけない。地方へ行ば「おら」は男女共通の立派な一人称である。子供たちから「あだ名」で呼ばれるようになろう。そしてそのあだ名を好きになろう。好きになるようなあだ名を付けてもらおう。
なでしこ 正式な記者会見で佐々木監督のことを選手は「のりさん」と呼んでいた。監督と選手との距離がその呼び方でわかる。勉強でもスポーツでも結果を出すことが大事だとしたら・・・彼らから学ぶことは多いだろう。教師の仕事は「この子はだめな子だ」と決めつけて、伸びる芽を潰すことではない。「この子が伸びることはなんなのか」「どうしたら伸びるのか」「どうしたらやる気になるのか」を寄り添いながら見つけ、そして本当に伸ばすことだと思う。そういう指導者を僕らは求めているのだ。
土砂降り 今朝の雨は凄かった。子ども達と一緒に合羽を着てでかけたのだが・・・襟から入った雨がお腹まで濡らすほど凄い雨だった。東門の子ども達もみんな苦笑いするほどの雨で・・・「馬鹿野郎!梅雨に台風文部省」という川柳を思い出した空父であった。それでも、空の担任の先生から「お父様へ。台風の中の見守りありがとうございました。一学期もあと一日になります。一学期間、大変お世話になりました」という手紙を読んだら、土砂降りのことなどすっかり忘れ、快晴のような気持になった空父であった。明日の朝も、土砂降りだろうがなんだろうが子ども達と一緒に学校に行こう。そして、しっかりと見守りをしよう。(でも、台風直撃の場合・・子ども達を普通に登校させるのかなあ)
海に行きたい! 空が「海に行きたい!」という。「なんで?」と聞くと、「クラゲに会いたい」という。「刺されるぞ!」と空父。それを聞いた空、「間違えた・・・クラゲじゃないや、クラゲに似たやつ・・・ほら・・」「イルカか?」「そうイルカ」小学校2年生の空にはクラゲとイルカは似ているらしい。そう言えばついこの間まで「蚊に刺された」を「蟹に刺された!」と言っていたっけ・・・。
癌じゃない? 入院しなくなったことを中学3年生の雅人に言った。「でも、まだ痛いんだよねえ・・」と僕。すると雅人はこう言った。「癌じゃない?」「そんなこと言う なよ!」まあ、確かにそうかも知れないけどさ・・・そんなにあっさりと癌にしないでよ。57歳は父さんがすい臓癌で逝った年。まだまだ死ぬわけにはいかないのだよ。
今日の写真 夏休み前最後の塾の様子です。一言も喋らず集中しています。「夏休みが始まる前に宿題なんか終わらせてしまえ!」と言ったら、「やってもいいの?」と子ども達。「何でいけないの?」「勉強は毎日しなきゃいけないって先生が・・・」「それは正しいけれど、その勉強が夏休みの宿題である理由はないよ。」と僕。「そっかあ・・」「そうだよ。夏休みには夏休みにしかできない勉強をやるのも悪くないんだぜ。」夏休みが終わる頃に、怒られながら宿題をやるよりも、夏休みが始まる前に終わらせてしまった方が100倍マシ・・・そう思う空父なのです。僕は五中、六中、二中時代に「夏休みの宿題」を出した記憶はありません。出したとしたら、「自然の中で遊べ」という課題だったと思います。勿論、それを採点したこともありません。
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7月20日 (水) 『一生懸命』幻のたかやん日記 第200弾! 2011.7.20(水) たかやん
『一生懸命』幻のたかやん日記 第200弾! 2011.7.20(水) たかやん
教師を目指す人へのメッセージ8 部活 部活動は面白い。子供達と体も心も近づくチャンスが溢れている。僕は最初の5年間は軟式テニスをやった。中村校長に「硬式テニスをやらせてください。」と直訴したが「軟式をやっている子達の気持ちはどうする?」と切り返さされて何も言えなかった。軟式も中学の時にやっていたから、教えるのが下手ではなかったが、本当をいうと軟式には魅力を感じていなかったのだ。そういう訳でサッカー部の副顧問もやった。サッカーが大好きだったからだ。毎日昼休みにクラスの子供達と校庭でサッカーをやっていた。放課後テニスコートに行く前にちょっとサッカー部の練習に参加し、そのまま帰ってしまう日が続いたりした。子供達は焦ったらしい。このままでは顧問をサッカー部に取られてしまう…・彼らはある作戦を立てた。それは軟式テニス部を硬式テニス部にかえてしまおうという作戦だった。そうすれば顧問はきっと毎日来てくれるだろう、という訳だ。そしてその作戦は当たった。僕はその日から二度とサッカーのスパイクを履かなかったのだ。その当時の子供達にはそういう考える力があった。というか、そういう無謀なことを許すだけのゆとりが学校にもあったのである。 僕はテニスにはまった。大学時代に遣り残した何かを子供達にぶつけた。インカレに行けなかった鬱憤を子供達で晴らそうとしたのかも知れない。僕が顧問をしたのは「男子テニス部」だった。別に軟式とか硬式とかはなかった。そこが彼らのねらいだったようだ。そして僕はその「男子テニス部」に女の子のマネージャーを8人ばっかり入部させた。自分のクラスから運動神経のいい子を選んで「テニスやらないか?」と誘ったのである。彼女たちは「硬式テニス」という響きに誘われてテニスコートに登場した。(そのコートは1面である時は80人に膨れ上がったのである。)男子の中の1年生の女の子達は恐いもの知らずだった。男子の関東大会の応援に池袋の立教中学に行った時も、西武線の中で半袖、ブルマーで騒いでいた。それで随分笑われたが、彼女たちが1年後に全国大会に出場するようになることなど、僕以外は誰も思っていなかっただろう。僕の「テニス部」はこうしてスタートしたのだった。 テニス部の練習はきつかった。石神井高校時代のトレーニングを中学生にやらせたのだからめちゃくちゃだった。勿論僕も全て一緒にやった。不思議なもので、顧問が一緒にやると子供達は物凄いスピードでついてくるようになるのだ。彼女たちは走って走って走り回った。陸上部よりも走ったから、陸上部よりも速かった。そしてあっという間に全国大会に出てしまった。彼女たちは全国で勝てなかったが、彼女たちの頑張りが後輩達に自信を与えた。男子が全国大会で2位になったのだ。硬式テニス部になった時に「日本一になろう!」と言った言葉が夢で無くなる日が来るような気がした。その学校ではその夢は実現しなかったが、次の学校(六中)で子供達はその夢をかなえてくれた。そう「日本一」になったのだ。それも二度も…勿論僕はテニスにますますのめり込んだ。そしてたくさんのタイトルを取るのだが、失ったものも大きかった。「家庭崩壊」である。僕は部活をやりすぎて、家族を失った。部活動は楽しい、だがほどほどにしなくてはいけない。
終業式 雨が降らなくてよかった。合羽を着ていって失敗だったくらい、雨は殆ど降らなかった。朝から雨に打たれる子ども達を見たくない。雨には何が含まれているかわからないのである。兎に角、一学期が終わり、僕らの見守りも夏休みに入る。
通知表 空の通知表を見て驚いた。何と「音楽」の一番上が「もう少し」になっていたのだ。まさか自分が空の成績のことで学校に電話をするとは思ってもみなかったが、家族みんなが納得できなかったので・・電話をしてみた。何故そんなの拘ったかというと、それが「音楽に関心を持ち、進んで歌ったり演奏したりしようとする」だったからだ。通知表のどの教科のどの項目で「もう少し」がついたとしても、こんなに驚きはしなかった。でも、音楽のこの項目だけは誰よりも“できる”と思っていたので、どうしても納得できなかったのである。それくらい空は毎日ピアノを弾いているのだ。音楽そのものにもの凄く関心を持っているのだ。だから(先生が空のことを全く見ていないか、他の子と間違えたのじゃあないかね・・)そう思うくらい不思議な評価に思えたのだ。最初は担任のO先生と話をして、次に教科担任のY先生と電話で話をした。どうやら空の音楽の評価については先生達も話合ったらしかった。そして、僕は音楽のY先生の説明で納得した。先生は空が休み時間ピアノを弾いていることも良く知っていて、授業中に誰よりもいい表情で歌うことも知っていたのだ。だけれど・・・先生のお話やお友達の演奏の時に、隣の子と話をしてしまい、ちゃんと聴けていないのだそうだ。「音楽は聴くことが一番大事なんです」とY先生。「空君にはどうしてもそれがわかって欲しくて、期待の意味を込めて“もう少し”をつけました。」先生は空のことを実によく見てくれていたのだ。空の何がよくて、何がだめなのかをちゃんと見ていてくれた訳で・・・僕は心から納得して電話を切った。空がこれから音楽の道に行くかどうかはわからない。(本気でピアニストになりたいらしいが・・・・)でも、音楽の先生が空の人生に大切なことを教えてくれたことだけは確かだ。先生に感謝である。
シュトゥットガルド管弦楽団 僕は小学生の時にシュトゥットガルド管弦楽団の演奏を厚生年金会館に聴きに行って、音楽というのは静かに聴くものだということを肌で感じた。それからは誰の演奏でも静かに聴くことが当たり前になって・・今に至っている。その影響で、議会でも誰かを野次ることができないのかも知れない。小さい頃の教育は恐ろしく人生に関わってくるものだと思うのだ。そういう教育を受けていなければ、平気で野次る男になっていたかも知れない。人の話を聴く、人の演奏を大事にする・・・そういうことを小さい頃に教えて貰った僕は幸せだと思うのである。
なでしこ ピアノの特訓を始めた。勿論、僕がである。左胸が痛いので、きつい運動はできない。痛み止めを飲みながら家の中でやることと言えば、資料の整理と議会報告の準備と・・・読書とパソコンに向うことくらい。そこで朝からヘッドフォンを付けてピアノに向ってみたのだ。ところが、空のように右手と左手が連動しないのである。ずっと音楽は5だったのだが・・・もうビックリするくらい指が動かなくて・・・それでも、なでしこ“諦めない”精神で夜まで頑張った空父であった。
語学 こういう日は語学のトレーニングにも最適である。僕は韓国ドラマからアメリカの大学に留学するストーリーを選んでDVDを見てみた。すると、韓国語と英語の両方の勉強になるのだ。一石二鳥とはこのことで・・・楽しいひと時だった。
今日の写真 東門の見守り部隊の二人です。順子と純一は忙しいのに、睡眠不足になるくらい仕事が大変なのに・・・僕と一緒に(僕が駅立ちでいない日も)毎朝、見守りをしていてくれます。本当にありがたい話で・・・感謝、感謝です。お疲れ!明日から朝の1時間を何に使おうかね・・・。
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