Diary 2011. 7
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7月11日 (月)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第191弾!  2011.7.11(月)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第191弾!  2011.7.11(月)   たかやん

姪からのメール

こんにちは
ブログに書いてあった不良の話を読んで、私の中学時代を思い出しました。 四中の一年生の時の家庭訪問で、担任の数学のY先生は、私のいないところで母に 「高邑は不良になりますよ。気を付けたほうがいい」 と言ったそうです。

それを聞いて、母はずっと心配していたと言ってました。 三年生になって、体育の増田先生(私の所属していた陸部の顧問でもあった)が担任になり、家庭訪問で母は一年生の家庭訪問でY先生に不良になると言われてずっと心配だと増田先生に言ったそうです。 それを聞いた増田先生は、 「高邑は絶対大丈夫。不良になんかならない。それは、お母さんが怖いから」 と断言してくれて、母はやっと安心したと言ってました。

母がこのことを話してくれたのは私が中学を卒業して、ずっと経ってから。 確かに中学時代は多感な時期で情緒不安定でトゲトゲした気持ちでいたけど、不良になる気なんてまるでなかったし、Y先生は私の何を見て不良になるなんて言ったんだろうと、信じられない気持ちでいっぱいになりました。

私には、口では理解した素振りを見せていたけれど、それを私が見抜いていたのか、今でも年賀状のやり取りがあるのは増田先生で、Y先生には一度も年賀状を出したことはありません。

生徒を信じない先生を、生徒が信じるはずもないなぁと実感しました。 私を信じられなかった母も母だけど、先生に言われたら心配になったんだろうなぁ、と。 先生は影響力が大きいからこそ、選ぶ言葉、話す言葉は大事だなぁと思います。

* 姪の弘美からのメールを読んで、僕は長兄の和矢のことを思い出した。西戸山小学校の2年生か3年生の時、北村という先生に「あなたの息子は非行青年になります!」と言われた母さん。通知表には1がずらーっと並び、音楽だけが2だったそうだ。そして生活と行動の記録は全てにCが付いていて・・・怒った父さんは、「担任を代えるか、子の子を転校させるか、どっちかを選べ!」と学校に怒鳴り込んだそうだ。「この子にはいいところが一つもないのか!」と言った父さん。訂正された通知表は全てがBがかわっていた。僕達3兄弟で一番、真面目なのが長兄なのは間違いない。それこそ馬鹿真面目なのである。ただ兄は目が悪かった。クラスで背が一番高かったので席は一番後ろ。ところが、生まれつきの弱視で黒板の字が全く見えなかったのだ。だから、授業で何をやっているのか全くわからず・・・大人しい性格だったので、先生に「黒板の字が見えません」とも言えなかったのだ。それを北村という先生は「非行青年になる」と言ったのだから、酷い話で・・・。兄貴はオール1のような成績だったが、悪いことをしたことは一度もない。次兄の達矢は中学時代から喫煙していたし、学校では頭のいい優等生でも外では立派な不良だった。三男の僕はありとあらゆる悪戯をした悪餓鬼で、貨幣偽造までやり・・・戸塚警察から手配されていたくらいだから、間違いなく本物の「非行少年」だった訳で・・・。長兄だけが、糞が付く真面目人間だったのである。長兄はその後、いい先生とめぐり合い、「東京海上火災」という会社に入って・・・無事定年を迎えた。将棋が趣味で、目隠しをした兄貴と指しても全く歯が立たなかったくらい強かった。そう、目は悪かったが頭は悪くなかったのである。兄貴には兄貴を信じる父さんと母さんがいた。だから、兄貴は真っ直ぐ馬鹿正直に生きたのだと思う。次兄の達矢も立派な不良だったが、「興亜火災」という会社に就職し、立派に働いている。この話は学活や道徳の時間に子ども達に何度か話をしたことがある。オール1に近い成績でも大きな会社に入れることはあるし、中学時代に不良や非行に走っても、いい先生に出会えば、いい友達に出会えば、そして努力すれば、ちゃんと社会では通用する人間になれるんだよ・・・そんなことを子ども達に伝えたかったのだと思う。先生という仕事は人生を教える職業である。子ども達の可能性を潰すのが仕事ではないのだ。何でも無い子を不良にしてはいけない。その子の人生を潰す権利は先生には勿論、誰にも無いのである。

横ちんからのメール
たやかん!
また、ホームページにボクのメールを無断添付しましたねっ!必要ならビシバシ使って下さいね。空くん。頑張ってますね。ピアノもいいけど水泳も続けて欲しいなぁ。ボクのブレスト50mのベストは36秒前半でした。五年生の時です。六年生で引っ越さなければ水泳を続けていたと思います。ただ引越していなければ、たかやんには出逢えていない訳で…人生はなんとも奥深いものですね。そちらは梅雨が明け、夏本番のよーですが体調に気を付け益々活躍して下さいね!期待しています。

たかやんのメールで幸せな気分になっている北の弟より愛を込めて・・

* 横チンはバスケット部で大活躍していたが、実は水泳でも札幌の小学生記録を持っていたスイマーだったのだ。小学校5年で36秒前半というのは半端ではない。空の平泳ぎのベストは54秒・・・あと3年で20秒縮めないと、5年生の横ちんには勝てない訳で・・・。そんな横チンからの応援メッセージが嬉しかった。今日も幸せな空父である・・・。

今日の写真1
六中最初の赤ジャージ。2年2組の真次郎です。彼は学校一のいたずら小僧でした。遠足にサングラス・・・はて、誰のサングラスだったのだろう・・・。僕のかなとも思ったけれど、3人で写っている写真もあったから真次郎が持って来たのかも・・。今の中学校じゃあ、怒られるんだろうなあ・・

今日の写真2
この子が僕の娘の古都です。内緒の話ですが・・・(誰にも言わないでくださいよ。特に・・・)古都は遠足の時に、アイスボックスにこっそりビールを冷やしてくるような子で・・・「たかやん、ほれビール・・冷えてるよー!」「あたし達はジュース、飲んでもいいよね!」と言葉巧みに担任を誘惑する女の子でした。勿論、心の弱い担任は古都の誘惑に負け・・・禁じられたビールを飲み、彼らは禁じられたジュースを飲むという塩梅で・・・今の学校じゃあ、大問題になるんでしょうねえ。休み時間にハイチュウで大問題になるんだからねえ・・・

今日の写真3
五中の4期生の1年3組の子達です。肖像権は大丈夫か?って・・大丈夫です。みんな息子同然ですから・・・このクラスのクラス会・・やってみたいなあ・・・。僕が出会った、最初の1年生だからです。学校へ行くのが楽しみで、楽しみで・・・しょうがありませんでした。空父24歳の頃のお話です。

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7月12日 (火)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第192弾!  2011.7.12(火)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第192弾!  2011.7.12(火)   たかやん

視察
空にハイタッチして、「じゃあ行って来るね!」「行ってらっしゃーい!」と出発!明日まで会えないが、仕事なんだからしょうがない。しっかり勉強することが大事だ。

東久留米
いつもは駅立ちをしている時間にエスカレーターに乗る。ひばりヶ丘で降りて、準急を待っていると・・・知っている顔が6人ほどエスカレーターから降りてきて・・・「おはよう!」「あ!出張ですか?」「うん」と、会話ができて幸せだった。

パソコン
昔は時刻表を見てメモしていたが、最近はiPhoneの“駅探”で何でもわかる。パソコンを持ち歩いている・・・そんな感じである。

ピアノの練習
新幹線の中では隣の秀ちゃんと野球の話で盛り上がった。それ以外はiPhoneのアプリを使ってピアノの練習に燃える。それがなかなか楽しいのである。イヤホン持ってきてよかったあ。空にはもう追いつかないだろうが、自分自身が伸びることが大事だ。

視察
三重県名張市に到着したのは12時過ぎ。市役所でお弁当(1000円也)を頂く。視察の時の昼ご飯は自腹である。13時15分から「ゆめづくり地域予算制度について」の説明が始まる。なかなか面白い制度で、名張市の中の15の地域が独自で色々な活動をしているのだ。その中には「地域バス」を運行している地域も多くあり、驚いた。普通なら行政がやることを市民がどんどん自分達でやってしまう・・・。交付金の使い道を任せている(どう使うかはまるで自由)のだが、ただ大きな課題として、その使い方の透明性を行政がちゃんと指導していかなくてはいけない。「公金なのですから・・」と、説明されたのが印象に残った。要するに僕が新座市議会で主張した、「町内会費、市からの補助金は公金なのだから、収支報告書などの内容を市が指導すべきだ!」と、全く同じ考えだったのである。名張市では15の公民館があり、その公民館を全て地域の住民が運営している。地域の拠点が公民館なのだ。そして毎月、地域だよりを発行しているのである。なかなか刺激的な内容で僕らも質問をしまくって・・・大満足の視察だった。


天王寺みやこホテルの17階から見た虹は実に綺麗だった。沢山の人にこの虹を見て欲しいと思った。沢山の友達や子ども達の未来があんな虹だったら・・・いいよなあ・・。

左胸
ここ数日間、どうも左胸が痛い。最初は左の背中だったのだが、今は胸が痛い。まさか、気胸の再発か!大阪で入院したくないよ〜!

試合
もうすぐ、毎日選手権が始まる。病院に行くか、そのまま試合に出るか悩む。兎に角、埼玉に帰るまでもってくれ!と、念じながら寝ることにする。

今日の写真1
名張市の旗と新座市の旗のミニチュアが飾ってあって、嬉しかったです。ちょっとした心遣いが嬉しかったのです。新座市もどこかの市をお迎えする時にはこういう旗を作ったりしているのかも知れませんね。

今日の写真2
ホテルの17階から見えた虹です。何人かの友達には送ったのですが・・・この日記を読んでくれている人達にも見せたくなりました。虹からは肖像権の侵害は訴えられない自信があります。(笑)

今日の写真3
川越の親友、千恵子さんです。川越市議会では知らない人がいないくらい有名な人で、新聞に何度も名前が載るような主婦です。勿論「たかやんの応援団」の一員で、前回の選挙でもフル回転で応援してくれました。来年も来てくれますよねえ・・・。おっと、親友にも母さんにも肖像権の確認をしないで掲載してしまいました。許してえ〜!

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7月13日 (水)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第193弾!  2011.7.13(水)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第193弾!  2011.7.13(水)   たかやん

教師を目指す人へのメッセージ
視察と言っても、夜は暇である。アイフォンで自分のホームページを見ていたら「教師を目指す人へのメッセージ」がちょっと面白くなって・・・自分が書いた文書にはまるっていうのもおかしいのだが・・・不思議とはまってしまって笑った。僕はこんなことを書いていたのよねえ・・・。

第一歩
教師になって一番最初にすること、それは子どもの名前を覚えることだ。入学式、 あるいは始業式の日までに、自分のクラスの子供達の名前は全員覚えなくてはいけ ない。これはもうプロとしては最低の条件である。
名前と顔が一致しない子供達を一日目で全員覚える。難しいようで簡単である。ま ずクラスの名簿を5人づずつ区切って覚える。(机の列が横に6列だったら、6人 ずつ区切る。)何日かかってもいいから、とにかく暗誦してしまう。勿論正確に覚 える。それも絶対にファーストネームで覚えるのだ。そこが味噌である。子供達を 苗字で呼んではいけない。これはアマチュアのすることだ。
人間誰だって、苗字で呼び捨てにされるより、名前で呼ばれたいものだ。(自分の名前を呼ばれて嫌な気 持ちになる人はいないという話があるくらいだ。)そして初日、自分のクラスに名 簿順に座らせる。自己紹介をさせながら名前を反復練習する。色々質問しながらこどもの表情をつかんでいく。この時メモは取らない。意地でも頭の中に子供達の言葉を叩き込む。どうしても自信の無い人は記念にといってビデオ撮影するのも楽しいし、テープレコーダーで録音してもいい。といにかく、子供達に先に自己紹介させるのがコツだ。自分が観察される前に観察する余裕がないといけないのである。
そしていよいよ自分の自己紹介。僕はこんな風にやっていた。「俺の名前は高邑朋矢。あだなはタカヤン。昔からそうだから、みんなもそうやって呼んでくれ。タカヤン!っていわれたら、あいよっ!ってこたえるから。」「本当?」「じゃあいってみな?」「タカヤン!」「あいよーっ!」「タカヤン!」「あいよーっ!」「タカヤン!」「もういいよーっ!」
ここまでくればもう子供達は半分魔法にかかっている。おまけに「みんなこのクラスの奴の名前だけは1週間で覚えろよ!」「できないよー!」「俺はもう全員覚えたぞ!」「嘘だあ…」「嘘じゃない!秀昭、拓郎、光、圭亮、登、新太郎…・愛、文、楓、美生。どうだ!」と全員の名前を言ってみせると、子供達はもう完全に魔法にかかっているのだ。
単純なことだが、入学式や始業式で初めて会った先生に自分の名前を覚えてもらう というのは子どもにとっては物凄く嬉しい事なのだ。怒られるのではなくて自分の顔と名前を覚えてもらったのだから、誰だってその先生を好きになりそうだと思うのだ。その錯覚が大事なのだ。こういうクラスは初日から笑顔が溢れる。クラスというのは笑顔でスタートして涙で終わらなくてはいけない。1年間その子供達にどれだけ笑顔がプレゼントできるのか、そしてどれだけ自分が笑顔でいられるのかが勝負なのである。クラスの第一歩は担任のちょっとした努力で素敵な一歩になるのだ。その努力を惜しんではいけない。大学を卒業したばかりでも、貴方はもうプロの教師なのだから…・。

藤井寺
今日の視察は藤井寺市。そうあの近鉄バッファローズの藤井寺球場があったところだ。過去形なのは・・・今はそこに四天王寺中学・高校が建っているのである。四天王寺は六中の女子が全国大会の準決勝で戦った相手だ。実に悔しい負け方をしたのだが、今ではいい思い出である。

藤井寺改革・創造チーム
今日のテーマがこれ。特に教育問題でなかなかいい提案があり、前から注目していたのだ。ところが、改革や創造という言葉と市教委は合わないらしく・・・なかなか上手くいかないのだそうだ。去年やったことを今年も無事やる。どこの市教委もそれが無難なのだろう・・・。まあ、気持がわからないでもないが・・・改革や創造なくして進歩はないのである。

18時半
僕は空の練習を見ていた。そう新幹線で東京に着いて・・・そのまま空のスイミングクラブに直行したのだ。それは実に豪快に泳いでいた。この間の大会で自信がついたらしく・・・かなり積極的に泳いでいたのだ。水泳をやめなくても、ピアノを習えることが嬉しいのかも知れない。

空のピアノ
「お父さん来て!」と僕の部屋のピアノの前に座る空。毎日、毎日よくもまあ上手になっていくものだ・・・そう感心するくらいピアノが上手になっていく空。今日は何だか感情を込めて弾いていたなあ・・・。本気でピアニストになりたいらしい。

続左胸
どうも、まずい状況になってきた。階段を降りる振動で左胸が痛むのである。これは去年救急車に乗った時と同じな訳で・・・振動に弱いのである。気胸が再発している可能性が大になってきた。シングルスは棄権してもいいが、ダブルスはパートナーに申し訳ないからなあ・・・。さあ、どうする。土曜日からどうする・・・?

今日の写真1
藤井寺市議会の議場での小池さんです。僕より10歳も上の小池さんですが、僕は「秀ちゃん!」と呼んでいます。秀ちゃんも「たかやん」と呼んでくれます。小池さんは中学時代オール5だった秀才で、都立大泉高校に進学していました。でも、お父さんが戦死されていて・・・・家計を助ける為に中退して働いたのだそうです。当時は学校群がなかった時代ですから、大泉高校のレベルはかなりだったはずです。我が家の亮も高校中退なので、一度会わせたいと思っている亮父です。帰りの新幹線の中でもずっと話していた僕達二人でした。

今日の写真2
藤井寺球場の跡に建った四天王寺中高です。卓球の石川選手もこの学校の出身なんですねえ。古墳が何十個もある藤井寺市がかなり身近な市に感じました。

今日の写真3
ひばりヶ丘の駅の階段を降りていくと、(あ、カサジの声だ!)聞きなれた声が聞えてきました。やはり声の主はカサジ(笠原議員)で、隣に石島議員も立っていて、署名運動をしていました。暑い中、地道な活動をしているカサジと陽子・・・頑張っているなあ・・・。僕も明日から頑張らないと!!入院なんかしてられないぞ・・・。

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7月14日 (木)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第194弾!  2011.7.14(木)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第194弾!  2011.7.14(木)   たかやん

教師を目指す人へのメッセージ2
第二歩「学級通信」
名前を覚えるのと同時にするのは「学級通信」の準備だ。僕は『一生懸命』という学級通信を11年間、毎日発行した。毎日というのが味噌である。前半の10年間は毎日という訳にはいかなかった。年間100号も発行できればいいほうだったのだ。それが一度毎日書き続けたら止められなくなった。大事なのはこの止められないという感覚を子供達と一緒に体験することだ。11年間には色々なピンチがあった。
一番のピンチは毎日書き始めて1年目のクリスマスイブだった。25日は2学期の終業式。通知表を出さなくてはいけないという時に、41度の熱を出したのだ。僕は通知表を全く書いてなかった。(通知表を1週間かけてコツコツ書くという能力は僕には欠けていたのだ。)苦しかった。悪寒が走り、うわごとで「母さん、助けて!」といったくらいだ。
通知表を書く事は諦めていた。41度の熱なんだから、みんな許してくれるだろう。そんなふうに思っていた。ところがその苦しい状態で、学級通信を書いていないということに気づいたのだ。毎日書き続けてきたのに、これで終わりなのかと思ったら、なにくそという気持ちが湧いてきた。そう思っただけで熱が40度に下がった。それが夜中の12時頃。それから震える手で「一生懸命」を書き始めた。何度も中断しながら、3時頃やっと書き終わった。不思議なのは熱がまた下がったことだ。39度になっていた。普通39度は苦しいものだが、41度から下がった39度は楽なものだった。僕は通知表も書く気になり5時過ぎに通知表も完成した。熱は38度になっていた。今度は朝練にいきたくなってきた。6時、大力という子から電話があった。「熱が39度あるので朝練休みます。」という電話だった。僕はそこでこう言った。『俺は41度あったけど、今からいくぞ。』テニスコートへ行くと大力も来ていた。
「継続は力なり」と子供達にいくら言っても、その言葉には力がない。しかし、毎日学級通信を書き続ければ、その言葉には力があるのだ。学級通信を毎日書くには子どもを見ないと駄目だ。毎日書いていると、どうしても筆が進まない日がある。そういう日は忙しくて子供達を見ていない、(会ってはいるが・・)日の事が多い。逆に子どもとたくさん話をして、子どもの目をよく見ている日は、書く事がたくさんありすぎて書ききれない状態になる。「学級通信」はそういう意味でのバロメーターになるのだ。
勿論毎日書くにはこつがある。それは自分の言葉で書くということだ。よそいきの言葉でも何枚かは書けるだろうが、子供達の心には響かないし、長続きはしないものだ。毎日書いていればひどい文章のことだってある。でも心に響く通信を書く率も上がるのだ。帰りの学活で子ども達は食い入るように「一生懸命」を読む。それまで大騒ぎだった子供達がシーンと静まり返ってプリントを読むのだ。自分の名前があると大変だ。「ほら今日は載ってるよ。」と嬉しそうに自慢する。でもそれが無くても友達の発言に笑いころげ、時に涙をするようになる。学級通信はクラスの全員を主役にする力を持っているのだ。
*自分が書いた文章で感動するのはおかしな話なのだが、ちょっぴり感動?した。当時の自分にパワーを感じたということなのかも知れない。今日の僕は塾日記を3枚書いた。子ども達に伝えたいことが沢山あったから・・・。「一生懸命」は今でも続いているのである。

困った!
いよいよ左胸の痛みが強くなってきた。朝、子ども達と一緒に学校へは行ったのだが・・・東門の見守りだけして、家に帰ってきた。どうにもこうにも痛いのである。呼吸器専門の病院に電話したのだが、予約ができるのは明日の9時ということで・・・今日一日、安静にしていることになった。「明日の朝、呼吸器内科で診察して、手術となったら呼吸器外科で手術になります・・・」とあっさりと言われた。覚悟を決めたほうがよさそうである。家のことは亮もいるし、みんな来てくれるから心配はしていない。議員としての仕事ができないのが辛い訳で・・・。

川遊び
去年も大分迷惑をかけたのだが、今年は全く参加できなくなるかも知れない。気胸の再発はよくあることで、去年救急車で運ばれた時も「再発の可能性は50%です!」と言われていたのだ。あの時ははじめての痛みで、訳がわからなかったが・・・その痛みを経験した今は、この痛みが筋肉痛ではないことがわかるのだ。背中から胸に・・・そして振動を感じると痛むこと。それも左胸だけが痛むこと・・・間違いないと思う。川掃除の仲間達には迷惑をかけるが、子ども達の為に、何とか頑張って欲しい。よろしくお願いします。

毎日選手権
去年は試合中に救急車で運ばれた。今年は戦う前に入院・・・と、毎日選手権にはついてない。これで今年の全日本も可能性がなくなった。何よりパートナーの田辺さんに申し訳ない。今思うと、1ヶ月前の茨城選手権あたりから・・・どうも左胸の状態がおかしかった気がする。空気が少しずつ漏れていたのかも知れないなあ・・・。ダブルス・・間に合わないかなあ・・・。

一早の誕生日
今日は一早の誕生日。可愛いかった中学生も今年で45歳くらいにはなるのじゃないかな。僕が彼らとテニスをしていた時は27歳くらいか・・・随分いい加減な先生だった気がする。そんな僕を応援団長として、応援し続けてくれている一早に感謝、感謝である。

友達
テニス仲間のドクターから電話があった。「今夜当直だから、何かあったら電話して!」という嬉しい電話だった。テニスっていい。この年になっても友達がどんどんできるから・・。

今日の写真1
高2の卒業生が来てくれました。小学生達は大騒ぎ。「又来てね!」「毎日来てね!」2年生の女の子達にも妙にもてていました。考えてみたら9歳くらいしか違わないのです。女の子達は本能でわかっているのかも知れませんねえ。

今日の写真2
塾の卒業生には「計算」の洗礼が待っています。高校生対小学生の対決の結果は・・・・想像にお任せします。そう、毎日の法則なのです・・・。

今日の写真2
こうしてみると、親子にも見えますねえ。僕も中高大とかなりモテましたけれど、りゅうもモテるようです。運動神経の塊のような男ですから、モテるのもわかります。中学時代の僕は体育が5でしたが、りゅうは何故か4。運動神経の塊に4。体育の先生達の目が節穴だったのでしょう。僕が体育の教師だったら、間違いなく「俺の後を継げ!」と言っていましたから・・・。

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7月15日 (金)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第195弾!  2011.7.15(金)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第195弾!  2011.7.15(金)   たかやん

日記
朝、八石小のあるお母さんから「大丈夫ですか?」と聞かれた。「日記に書いてあったので・・痛みますか?」「ああ、うん、痛いので多分今日検査して入院すると思います」と僕は答えた。嬉しかったのは僕の日記を読んでくれている人が少しずつだけれど増えているということ。Kさんのように毎日チェックをしている人がいることも嬉しい?が、時々でも、僕の日記を読んで、何かを感じてくれる人が増えていってくれたら本当に嬉しいのだ。

あれ?
そして、清瀬の複十字病院での検査の結果は「気胸ではありません!」「ちゃんと肺は大きなままです!」という意外なものだった。どうみても、この痛みはあの痛みなのである。先生はこう続けた。「多分、痛みの記憶があって・・・それを感じているのでしょう。」それって、去年の夏の熱い空気を僕の体が記憶していて、あの痛みを思い出させているということ?そんな馬鹿な・・・。「まあ、安静にして、様子をみといてください・・」と言われた。明日は毎日選手権のシングルス。どうする、空父!

安静
一日ずっと安静にしていた。殆ど何もしないで横になっていた。それでも入院するよりは幸せなんだろうなあ・・・。入院したらお金もかかるし・・・そのお金で今度こそ洗濯機を買おう!そんなことを考えながらソファーで眠ってしまった・・・空父であった。

ソファー
どうも気持ちよく眠れるのである。ソファーで韓流ドラマを聴きながら・・・いつの間にか眠ってしまう。病院ではできない、幸せな一こまである。

試練
高校時代から、随分先輩達には無理なことをやらされたけれど・・・五中の1年目程酷い試練はなかったかも知れない。どこの世界に大学を卒業したばかりの新米に3年生の担任をやらせ、尚且つ2年生の1クラスを教えさせる・・・そんな中学校があるのだ。新米ということは授業の準備が倍かかるということで、2学年教えるということは更に倍辛い訳で・・・初めての3年の担任は倍大変で・・・それだけで8倍ではないか・・。しかも、問題児をほかのクラスの倍以上送り込んだのだから・・・・16倍じゃあきかない大変さだった訳で・・・我ながらよく堪えたと思う。でも、いつも子ども達が僕の味方だったから・・乗り越えられたのだ・・。そして、厳しいけれど、暖かい先輩達がいたから・・・。

教師を目指す人へのメッセージ3 

初めての授業
初めての授業の時のことは今でもはっきりと覚えている。自分が子供達にどういうふうに見られるのか、馬鹿にされはしないか、間違ったことを言いはしないか…・そんなことばかり考えていたから、顔が赤くなり、緊張の固まりという状態だった。
僕は元々人前で話す事が苦手だったから、授業のプレッシャーというのは相当のものだった。僕の赴任した学校は新設校で二つの中学校が合併してできた中学だった。そして僕は3年生の担任。埼玉県でたった一人の新卒の3年の担任だった。子供達は二つの学校が合わさっている訳だから、なんだかおかしなムードだし、僕は新米で何が何だか分からなくて、本当に漫画みたいなクラスだったような気がする。要するにクラスを仕切るのは僕ではなくて、子どもだったのである。
最初にクラスに入った時も「席に着いて!」と言っても、子供達は席に着かない。「こら!席に着けっていってんだろ!」と怒ってみても「嫌だね。」と一番のチビのIに言われる始末。先生の権威なんか全く無かった。それでも番長格のTが「座ろうぜ!」と一言いうと、みんな席に着いてくれた。そんな訳だからネクタイにスーツ姿の僕は子供達のいい標的だった。休み時間になるとネクタイを引っ張られ、首を絞められ、まったくいい遊び道具だった。口でも体力でも子供達に勝てず、本
当に情けない担任だった。
二日目から僕はネクタイを外し、ジーパンにセーターで登校した。スリッパを止めて、運動靴にした。子供達と格闘して勝つにはまず格好が大切だったのだ。そんな状態で最初の授業が始まったのである。3年生を4クラスに2年生を1クラス持たされた僕は本当にアップアップの状態だった。45分の授業にわざと5分遅れて行き、5分早目に終わらせて、35分の授業にしてみたり、とにかく早く教室から逃げ出したいと思っていた。そして質問が恐かった。「なんで?」「どうしてそうなるんですか?」「この植物の名前は?」恥ずかしいことにその質問のほとんどに僕は答えられなかった。ただごまかす事だけはしなかった。『今、分からないから調べておくよ。』そうやって先輩の先生に聞いたり、本で調べてきたりしていた。要するに子供達に勉強させられていたのだ。
僕は東京の新宿で育ったせいか、植物には特に弱かった。信州の山の中で育った、大学時代の友達に随分馬鹿にされたものだ。「おめえ、それでよく理科の教師になろうとするだな。」だから野外実習の時はもう必死で子供達と一緒に図鑑とにらめっこして、野草の名前を探した。そうして実習場所の野草の名前だけには滅法強くなったのである。そしてそのことがちょっとした自信になっていった。まるで子供達が自信を持つのと同じように。
そう、「先生」とは名ばかりで実は「生徒」だったのだ。教えている積もりが、実は子供達に教わっていたのだ。このことは実は21年間ずっと僕の心の中で続いていた。教師という仕事は実は子供達から教わる事の方が多いのではないか、ということである。そしてそのことは今でも正しいと思っている。僕らは子供達からたくさんのことを学ぶのだ。そして成長するのだ。どんなに授業が上手に出来ても、そのことが分からないとプロの教師にはなれないと僕は思う。

今日の写真1
僕の2回目の卒業生の二人五中の3年1組の子達が我が家に大学合格の報告に来た時の写真です。左は大。右は秀行。この子達は優秀でした。僕はこの子達と2年間同じクラスで生活しました。いわゆる持ち上がりのクラスだったのです。特に3年生になってからは1年間、毎朝「朝勉」をやりました。他のクラスよりも1時間早く教室に来て、みんなで勉強したのです。ところが大は1年間一度も僕に質問しませんでした。理科のテストをやらせれば113点。100点満点で113点というのは、僕の模範解答よりも大の解答の方がよかったからです。秀行は3年生の最初の中間は405点くらいだったのですが、僕が数学の問題集(1,2年の総復習400円程度)をあげると、それを3回繰り返しあっという間に450点を越えるようになりました。僕は毎回子供たちと一緒にテストを受けていたのですが、定期テストでは遂に大に勝つことはできませんでした。大は東大へ進学し、秀行は京大へ進学しました。僕はこの子達に一緒に学ぶことの大切さを学んだのです。


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7月16日 (土)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第196弾!  2011.7.16(土)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第196弾!  2011.7.16(土)   たかやん

教師を目指す人へのメッセージ4
授業は子供達の目を見ながらしなくてはいけない。先輩の先生の中には教室の天井を見ながらする人がいたが、そういう授業はいただけない。子どもが聞いていても寝ていても同じでは、プロが泣く。話をしていて、子供達が下を向きはじめたら自分の話しがつまらないと思わなくてはいけない。それを「ちゃんと前を向け!顔を上げろ!」というのは素人のいうことだ。生徒は当たり前だが生き物だ。調子のいい時もあれば悪い時もある。子供達の目、表情を見ないで授業をする教師は生徒の体の不調や「いじめ」を見逃してしまう。よく学校が「いじめは無かったと認識しています。」などと訳の分からないことをいうが、いじめがなかったのではなく見落としていたのだ。まず授業で生徒が理解しているのかどうかを、表情で判断する習慣をつけよう。首をかしげたり、つまらなそうな表情をしたら、それは授業の仕方に問題があるのだ。授業には「年間指導計画」があり、その通りに進めないとテストができないとかの問題が生じるが、生徒が理解できない授業を1年間も続けたらこれはもう「犯罪」に近い。生徒を理解させるには何でもしなくてはいけない。歌を作る。語呂合わせを考える。踊る。繰り返し、繰り返し質問する。クイズ形式で質問する…・やれることは何でもやる。子どもが体育の授業で疲れていると感じた時は「昼寝」を10分させたっていい。要はその時間に理解できるようにしてしまえばいいのだ。集中しない50分より、集中した40分の方が効果があるのは当たり前だ。
ものを覚えるにはリラックスした方が効率がいいのは知られているが、僕は授業の最初によく歌を歌った。教室にギターを置いておくのだ。「理科係」の生徒がそのギターを毎時間運んでくれる。子供達はそういうことが好きなのだ。歌を歌って、脳波をアルファー派にしてから授業に入るという作戦だ。理科の教師が歌を歌ってなんなんだ?などという批判には耳を貸さないことだ。理科嫌いを無くし、授業に集中させて、効果があがるのならそれでいいのだ。そして休み時間はなるべくどこかの教室にいることだ。子供達の話を聞けるから職員室に帰るよりもはるかに楽しい。僕の場合は「理科準備室」という部屋があったので、そこに子供達が毎時間遊びにきた。そこでももっぱら話を聞くのだ。聞き役に徹していると、子供達はなんでも話すようになる。「いじめ」や「喧嘩」、「事件」「授業」の情報など訳なく入ってくる。そして何より子供達の本音が聞けるのだ。「U先生の授業は本当につまらない。勝手にどんどん進んでいって、質問すると怒る。」「分からないっていうと、授業を聞いてないからだ!って怒るからもう質問したくなくなる。分からないから聞いているのに。」子供達の本音はそのまま自分の授業の反省になる。
そういう意味では毎回の授業の後に「感想」を書いてもらうのもいい。発言は出来なくても、「感想」を書く事なら出来る子がいるのだ。わかっていると思った子が理解できていなくて、寝ているのかと思った子がしっかり聞いていたりする。自分の目の不確かさを確認するのには丁度いい。50分の授業も5分前に感想を書いてもらえば45分。最初の5分で子どもリラックスさせて、授業は40分。子供達集中力の限界はそんなものだ。50分間、ダラダラと授業をするのだけはやめよう。

4時半
安静というのは結構辛い・・・。4時半には起きて、色々始めてしまった。それにしても背中も胸も痛い・・・こんな状態で試合ができる訳もなく・・毎日選手権のシングルスは棄権したのだった。10000円が無駄に・・・ああ、もったいなーい!!でも、また救急車に乗るよりはいいか。

学童野球
午後、空を連れて八石小へ行った・・・。そこには数十人の子ども達が野球をやっていて・・・僕は一輪車の練習をする空と野球をしている子ども達を交互に見ていたのだが・・・コーチの一人が近づいてきて・・・「たかむら先生ですよね!」「おお・・・久しぶり」彼は六中の軟式テニス部だったO君で、軟式テニスの世界では相当有名な選手だったのだ。僕自身、中学校時代は軟式テニスに燃えていた訳で(一応、新宿区では負けなし)・・彼の技術がどれくらいかは見ていればわかったのだ。僕はどんな競技でも一生懸命やっている子が好きで・・・0君のことは、しっかりと記憶に残っているのである。それにしても、子ども達が一生懸命ボールを追いかける姿はいい。僕も小学校時代は野球ばかりしていた。「3番、サード、長島」になりたくて・・・・。

メロン、トウモロコシ、かぼちゃ
夜、純一が我が家に果物と野菜を持ってきてくれた。「おすそ分けです」と純一。まるで長屋のような関係が嬉しい。八丈から卵がくれば、みんなにおすそ分け・・・誰かが、何かを貰ったら・・・それをおすそ分け・・・一人で食べるより、みんなで食べるほうが美味しいという感性・・・子ども達にもきっと伝わっていくだろうなあ・・・。

ぐい生
昨日の日記の写真を見て、快治からメールが来た。「懐かしい・・・ハイリキやぐい生をよく買いに行かされたよなあ・・」というメールだった。僕は当時、サッポロぐい生が好きで・・・よく飲んでいた記憶がある。ハイリキも言われてみればそうなのだが・・・子ども達はよくもまあ、そんなことを覚えているものである。我が家の居候時代の話なのだろうか・・・所沢時代かねえ・・・。それにしても、よく気がつくねえ・・ハイリキの瓶に・・

今日の写真1
八石小の校庭で一輪車の練習をする空です。何にでも挑戦するんですねえ・・・そして、何とかしてしまう・・・できることがどんどん増えていく・・・見ていて、楽しい限りです。

今日の写真2
いつの間にか両手を離していました。体育は5でしたが、一輪車には乗れる気がしません。ちょっとした努力が足りなかったのだとは思いますが・・・肖像権は?実の息子ですから、多分大丈夫でしょう。

今日の写真3
「日記に載せたら駄目よ」と念を押されていたのですが・・・僕の北大の先輩でダブルスのパートナーだった多喜志と奥様と息子のえいすけ君です。えいすけ君は僕達の大学の後輩でもあるんです。先輩なのに多喜志と呼んでいるのは一緒にいる時間が長かったからでしょうか。先輩というより親友に近いような気がします。奥様は手話でテレビに出るくらいの方で・・・来年の七大OB戦では久しぶりにダブルスを組むことになりそうです。

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7月17日 (日)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第197弾!  2011.7.17(日)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第197弾!  2011.7.17(日)   たかやん

教師を目指す人へのメッセージ5
僕が大嫌いなものの一つに指導案がある。教育実習の為の指導案。研究授業の為の指導案。
この指導案にうるさい人がいる。「この指導案はなんだ!」「この指導案の書き方はなんだ!」と授業の前にケチをつける人達である。「授業というのは指導案がよければ誰でもできるものだ。いやそうでなければならない。」とまで言う人もいる。糞食らえである。
指導案の形式にうるさい人ほど子供達の表情には関心がないものだ。どんなに立派な指導案を作っても、子供達はそのとおりには反応しない。当たり前だ、生き物なんだから…・。事前に「打ち合わせ」をしていれば話は別だが。そういう作られた授業ほどつまらないものはない。子供達がどれだけ分かったかではなくて、教育委員会の「先生」達にどう思われるかが大事な授業。そんな授業は糞食らえだ。それは誉められる指導案が書けて、いい授業ができるに超した事はない。僕が言いたいのは、そういうものに時間をかけて欲しくないということだ。授業のポイントは一つでいい。それをクリアーできたかどうかを「生徒の感想」で判断して、次の授業でその反省を生かす。そのことの方が大切なのだ。僕の先輩には「私は毎回指導案を書いています。」という凄い人がいたが、彼女の授業は実につまらなかった。授業の達人になるのはいいことだが、指導案の達人になってはいけない。
導入…展開…まとめ。そういうパターンもあるだろうが、50分の時間を自分とそこにいる子供達で自由に使っていいのだ。子ども達が「分かった!」「できた!」と笑顔でいうことが大事なのだ。それさえ押さえていれば、あとは授業は生き物。脱線するのもいいではないか。これから「先生」になろうという人達にこんなことをいっては何だが、どんなに一生懸命授業をやっても、子供達はその内容などあまり覚えていないものなのだ。覚えているのは、楽しかった!とかやる気になった!とか授業中によく話が脱線したとか…何やったか覚えてないけど、理科の授業は好きだった!とかその程度なのだ。子供達が忘れないのは「先生」がどういう目で自分達を見てくれていたかということだ。どういう風に自分に声をかけてくれたかだ。どういう表情で自分達と接してくれていたかなのだ。それは自分自身で振り返ってみれば分かるだろう。どんなに好きな先生でも授業そのものを記憶している人はまずいないだろう。まあいくつかの授業は残っているにしてもだ。僕が忘れられない先生に兵藤鎮馬先生がいる。中学時代の数学の先生で教頭だった。そう昔は教頭も、時には校長も授業をしてくれたのだ。僕らは中3で初めてこの先生に数学を習った。先生は最初の授業でこういわれた。「僕の名前はひょうどうしずま。みんなヒョウチンと呼びます。だからみんなもそう呼んでください。」(ほんまかいな…)僕らは廊下で先生に会うと「ヒョウチン!」と呼んだ。すると先生は「はい、何ですか?」とこたえる。授業中でも「ヒョウチン!」すると「はい、何ですか?」そして、授業はべらぼうに分かりやすかった。僕らはあっという間にヒョウチン中毒になっていった。ヒョウチンは放課後も僕らの教室で数学を教えてくれた。時には高校の数学まで教えてくれたりした。僕のタカヤンというあだ名は実はこのヒョウチンがもとなのだ。「たかやん!」「あいよ!」僕はそう呼ばれる度に懐かしいヒョウチンが頭をよぎるだ。ほんのちょっとだけどね。あなた方もどうか子ども達の記憶に残る先生になって欲しい。

続指導案
研究事業で思い出すのは、指導案を前もって教育委員会に提出していたことだ。指導案の段階で指導を頂く訳である。「何なんだ!この指導案は!」と怒られたこともある。授業の上手な先輩に言われるのならわかるが、たいした授業もできない人にそう言われると、ムカっときた。(若かったのよねえ・・)どうも研究授業の為の授業。研究授業の為の指導案作りはやる気が起きなくて・・・時間も手間もかけたことがない。普段の授業が大事だからである。その名残は議員になってからもあって・・・通告書は書くが、質問の原稿つくりをしたことは一度もない。勿論、それを前もって執行部に見せることもしない。学芸会じゃあないからね。授業も議場も一発勝負。そういうスリルが楽しいのである。

痛み止め
背中の痛みは痛み止めで少し楽になった。楽になると・・動きたくなる訳で・・・今日はひとみと空と三人でお買い物。久しぶりに「買い物楽しかったねえ!」と空と二人ではしゃいだのだった。

今日の写真1
僕とひとみと空のラケットです。空のラケットはこれで2本目になります。黄色のヨネックスで大人のよりも少し短いですが、なかなか格好いいラケットです。ラケットですから、肖像権は大丈夫でしょう。

今日の写真2
調子に乗って靴も3足買ってしまいました。ボーナスが出たのと、入院しなくて済んだので、思い切って買いました。空のテニスシューズは初めてで・・・想像しただけで、ニヤニヤしてしまいます。亮は五中のコートで育ち、六中のコートで強くなりましたが、空が新座の中学校のコートでテニスをすることは多分ないでしょう。石神井高校や北大のコートでは大歓迎されると思いますが・・・・それもまた楽しみです。

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7月18日 (月)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第198弾!  2011.7.18(月)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第198弾!  2011.7.18(月)   たかやん

教師を目指す人へのメッセージ6
「言葉」の持つ力を知らないで教師をしてはいけない。子供達には「いい言葉といい栄養で育つ権利」があると僕は思っている。心からでた言葉にはそれだけの力があるのだ。
朝から「おはよう!」ではなく、「何だお前そのスカートは!」「何でジャージなんだ!制服はどうした!」と叫ぶ奴がいる。彼らにはその言葉が子供達にどういう影響を与えるか考える力がない。それでいて、「挨拶」は大切だ。などというからちゃんちゃらおかしくなってくるのだ。「先生」は先を生きているのだから、何でも真っ先にやらなくては「先生」じゃあないのだ。こどもに気持ちのいい挨拶をさせるのは簡単だ。教師が自分から「おっはよーっ!」と笑顔で挨拶しつづければいい。勿論一日では駄目だ。最低2週間、子供達から挨拶が返ってこなくても笑顔つきでやり続ける。「継続は力なり」子供達は間違いなく笑顔つきの挨拶をするようになる。職員室の中には大声で挨拶しても何も返ってこない凄い奴もいる。さすがに大人だとむっとくるが、それでもし続けるとやっぱり返ってくるようになる。人間ってそういうものだのだ。学校は全ての時間が授業なのだ。廊下で会っても、校門で会っても、勿論授業中でも「言葉」には最大の敬意を払わなくてはいけないのだ。僕は教育実習を函館中部高校の定時制でやらせてもらった。僕はそこの1年生で生物の授業をしたのだが、ひどい内容だった。何しろ自分でも何をしているのかよく分からなかったのだから。それでも生徒達はみんな真剣に聞いてくれた。眠い目をこすりながら、真剣に聞いてくれた。8割以上が看護学校の生徒だったと思う。本当にありがたかった。最後の日にそこの教頭先生から僕らはこういう言葉をもらった。
「君たちの授業は確かに下手です。ひどいものです。しかし、君たちには僕らにはないものがある。それは言葉です。彼らと共通の言葉です。その言葉をいくつになっても失わないでください。お願いします。」
その言葉のお陰で僕は教師をやってこれたのである。「彼らと共通の言葉」それは上からものをいう「言葉」ではない。もちろん子供達と対等の言葉だ。別にこどもたちのいうところの「タメ語」で話せという意味ではない。ではどういう言葉なのか。それは子供達と何でも一緒にやっているうちに分かってくる言葉である。苦しい事も楽しいことも一緒になってやる。やらせるのではなくて、一緒にやる。それが味噌である。大きな声で校歌を歌って欲しかったら、自分も一緒に大声で歌う。一生懸命勉強して欲しかったら自分も一緒に一生懸命勉強する。そうすると彼らの言葉が聞こえてくるのだ。言葉はまず耳から覚えなくてはいけない。彼らの言葉が聞こえるようになったら、自分がしゃべるのは時間の問題なのだ。大学卒業してすぐの新米教師は特にその能力が高いはずだ。何しろちょっと前までは文字どおり「学生」だったのだから…・ところが「先生」になった瞬間にその言葉を忘れてしまい、二度と話せなくなる教師がたくさんいるのも事実である。彼らは残念ながらプロの教師にはなれないのである。言葉が話せないということはコミニュケーションができないということだ。それこそ最初が肝心である。言葉の力は恐ろしいのだ。笑顔つきのいい言葉より強いものはない。大丈夫。貴方ならきっとできる。
なでしこ
今朝はなでしこを見るために3時おき。流石に外も暗く・・・夜中という感じだった。3時半、決勝がスタート。前半の0−0はどうみても奇跡としかいいようのないくらい、アメリカに押し込まれ、好き放題にシュートを打たれていた。アメリカの選手はみな背が高く、足が速く、テクニックがあり、しかも綺麗な選手が多かった・・・。特にゴールキーパーのソロ選手はもの凄く綺麗で・・・(いやいや、ここはなでしこを応援しなければ・・・)一瞬、アメリカを応援しそうになった程だった。

諦めない
試合は奇跡としかいいようのない結果に終わった。前半を0点に抑えた軌跡。1点リードされて、追いついた奇跡。また1点リードされて追いついた奇跡。そしてPK戦での奇跡・・・でも、その奇跡を起こしたのも彼らの実力なのかも知れない。PK戦の前の監督の笑顔が忘れられない。一番、緊張する・・・どうしても勝ちたい時に、あの笑顔が出せる人は本物である。あの笑顔で選手達はかなりリラックスできたはずだから・・・・。先生と生徒もなでしこのような関係にあると、伸びるだろうなあ・・。

ワンバック
僕が感動したのはなでしこだけではない。アメリカのエース、ワンバックが負けた後、日本チームにやってきて、みんなに声をかけた姿が印象的だった。アメリカで誰よりも勝ちたかった選手のはずだ。その彼女が勝った日本を称えたのだから・・・・。朝からいいものを見させてもらった空父であった。

痛み止め
飲んでいる間は効くのだが・・・時間が経つと、痛みはぶり返す。「気胸」でなかったら、いったい何の痛みなのだろう・・・。筋肉痛にしては長すぎるのである。

今日の写真1
この3連休で久しぶりにゆっくりできた亮が「将棋やろう!」と言ってきました。亮は道路に寝転ぶような子で、兎に角やんちゃでした。試しに将棋を教えると・・・ちゃんと正座して何時間でも集中できるようになったのです。お風呂の中でもいつも将棋でした。頭の中の将棋盤でやるので、僕の方が先にわからなくなって負けていました。今日も大接戦になりましたが、最後の最後で負けました。空は亮の隣でグランドピアノの絵を描いていました。今日の肖像権も多分、大丈夫だと思います。実の息子達なので・・・。

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7月19日 (火)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第199弾!  2011.7.19(火)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第199弾!  2011.7.19(火)   たかやん

教師を目指す人へのメッセージ7
自分の事を「先生はね」と一人称で呼んではいけない。中には「校長先生はこう思います!」とか恥ずかし気もなくいう校長がいるが、あれはかなり恥ずかしい。「先生は…」と自分で言う人はそう呼んで欲しいのだ。「先生!」と呼んで欲しいからそういうのだ。僕は職員室でも「タカヤン!」と呼ばれていた。すると怒る人がいるのだ。職員室でそういう呼び方をするな!と怒る訳である。大きなお世話である。教師はあだ名で呼ばれて一人前なのだ。「職員室では、生徒は後ろのドアから入る事。」と決めた学校があった。前には校長教頭、教務主任がいるというのが理由である。
生徒と共通の言葉を持ち続けた校長は「いつでも校長室に遊びにきてね!」と子供達に伝える。この差は大きい。自分が偉いと思うような管理職は学校には必要無いのだ。学校に必要なのは子供達の言葉を話せる先生である。
今の学校には「取り締まり系」の先生が多すぎる。校則を取り締まることなど素人でも出来るということが分かっていないのだ。「共通理解」「共通行動」それが大事だという学校があった。みんなで同じことをする事が大切なのだ、という訳である。一見もっともだが、実はそのことほど危険な事はない。自分が生徒であるとしよう。朝から友達の事で悩んでいる。そういう時に会う先生みんなから「お前、名札がついてないな!」と言われたらどう思うのだ。嫌いな先生ならまだいい。好きな先生からも「お前、名札がついてないな!」と言われたら、子どもは学校に来たくなくなるだろう。でも、自分の好きな先生が「おはよう!どうした?元気がないぞ!何かあったか?」と笑顔で聞いてくれたら、子供達はどんなに嬉しいだろう。プロは子供達の目を見て言葉を選ばなくてはいけないのだ。
今、小学校でも中学校でも「朝の挨拶運動」なるものをしている学校がある。校長やPTAのお母さん達が朝、校門に立って「おはようございます!」というあの運動である。選挙運動じゃああるまいし、いかにも不自然なことなのに、それが子ども達を変えると信じている人達がいる。自分が生徒の気持ちになれない人達である。要するにプロではない訳だ。挙げ句の果てに服装のチェックをする人までいるからどうしようもない。「朝の挨拶運動」は自己満足以外のなにものでもないのだ。「校則」では人間は教育できない。中学校の校則などは世の中にでれば全く通用しないものなのだから…・。子供達に教えなくてはいけないのは「きまり」ではなくて「マナー」である。これは日本中どこへ行っても通用する。(世界は広いから通用するとは限らないが…・。)「校則」に目くじら立てる先生が、「いじめ」を見逃すのだ。子供達の「目」を見ていないからそういうことになるのだ。プロはいつでも子供達の目をみていなくてはいけない。「共通行動」というなら、そういうことに「共通行動」を取って欲しい。
プロの教師は自分のことを「先生」と呼んではいけない。「私」や「僕」や「俺」という日本語があるではないか。「俺」が悪い言葉などと言ってはいけない。地方へ行ば「おら」は男女共通の立派な一人称である。子供たちから「あだ名」で呼ばれるようになろう。そしてそのあだ名を好きになろう。好きになるようなあだ名を付けてもらおう。

なでしこ
正式な記者会見で佐々木監督のことを選手は「のりさん」と呼んでいた。監督と選手との距離がその呼び方でわかる。勉強でもスポーツでも結果を出すことが大事だとしたら・・・彼らから学ぶことは多いだろう。教師の仕事は「この子はだめな子だ」と決めつけて、伸びる芽を潰すことではない。「この子が伸びることはなんなのか」「どうしたら伸びるのか」「どうしたらやる気になるのか」を寄り添いながら見つけ、そして本当に伸ばすことだと思う。そういう指導者を僕らは求めているのだ。


土砂降り
今朝の雨は凄かった。子ども達と一緒に合羽を着てでかけたのだが・・・襟から入った雨がお腹まで濡らすほど凄い雨だった。東門の子ども達もみんな苦笑いするほどの雨で・・・「馬鹿野郎!梅雨に台風文部省」という川柳を思い出した空父であった。それでも、空の担任の先生から「お父様へ。台風の中の見守りありがとうございました。一学期もあと一日になります。一学期間、大変お世話になりました」という手紙を読んだら、土砂降りのことなどすっかり忘れ、快晴のような気持になった空父であった。明日の朝も、土砂降りだろうがなんだろうが子ども達と一緒に学校に行こう。そして、しっかりと見守りをしよう。(でも、台風直撃の場合・・子ども達を普通に登校させるのかなあ)


海に行きたい!
空が「海に行きたい!」という。「なんで?」と聞くと、「クラゲに会いたい」という。「刺されるぞ!」と空父。それを聞いた空、「間違えた・・・クラゲじゃないや、クラゲに似たやつ・・・ほら・・」「イルカか?」「そうイルカ」小学校2年生の空にはクラゲとイルカは似ているらしい。そう言えばついこの間まで「蚊に刺された」を「蟹に刺された!」と言っていたっけ・・・。

癌じゃない?
入院しなくなったことを中学3年生の雅人に言った。「でも、まだ痛いんだよねえ・・」と僕。すると雅人はこう言った。「癌じゃない?」「そんなこと言う なよ!」まあ、確かにそうかも知れないけどさ・・・そんなにあっさりと癌にしないでよ。57歳は父さんがすい臓癌で逝った年。まだまだ死ぬわけにはいかないのだよ。

今日の写真
夏休み前最後の塾の様子です。一言も喋らず集中しています。「夏休みが始まる前に宿題なんか終わらせてしまえ!」と言ったら、「やってもいいの?」と子ども達。「何でいけないの?」「勉強は毎日しなきゃいけないって先生が・・・」「それは正しいけれど、その勉強が夏休みの宿題である理由はないよ。」と僕。「そっかあ・・」「そうだよ。夏休みには夏休みにしかできない勉強をやるのも悪くないんだぜ。」夏休みが終わる頃に、怒られながら宿題をやるよりも、夏休みが始まる前に終わらせてしまった方が100倍マシ・・・そう思う空父なのです。僕は五中、六中、二中時代に「夏休みの宿題」を出した記憶はありません。出したとしたら、「自然の中で遊べ」という課題だったと思います。勿論、それを採点したこともありません。

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7月20日 (水)  『一生懸命』幻のたかやん日記  第200弾!  2011.7.20(水)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記  第200弾!  2011.7.20(水)   たかやん

教師を目指す人へのメッセージ8   部活
部活動は面白い。子供達と体も心も近づくチャンスが溢れている。僕は最初の5年間は軟式テニスをやった。中村校長に「硬式テニスをやらせてください。」と直訴したが「軟式をやっている子達の気持ちはどうする?」と切り返さされて何も言えなかった。軟式も中学の時にやっていたから、教えるのが下手ではなかったが、本当をいうと軟式には魅力を感じていなかったのだ。そういう訳でサッカー部の副顧問もやった。サッカーが大好きだったからだ。毎日昼休みにクラスの子供達と校庭でサッカーをやっていた。放課後テニスコートに行く前にちょっとサッカー部の練習に参加し、そのまま帰ってしまう日が続いたりした。子供達は焦ったらしい。このままでは顧問をサッカー部に取られてしまう…・彼らはある作戦を立てた。それは軟式テニス部を硬式テニス部にかえてしまおうという作戦だった。そうすれば顧問はきっと毎日来てくれるだろう、という訳だ。そしてその作戦は当たった。僕はその日から二度とサッカーのスパイクを履かなかったのだ。その当時の子供達にはそういう考える力があった。というか、そういう無謀なことを許すだけのゆとりが学校にもあったのである。
僕はテニスにはまった。大学時代に遣り残した何かを子供達にぶつけた。インカレに行けなかった鬱憤を子供達で晴らそうとしたのかも知れない。僕が顧問をしたのは「男子テニス部」だった。別に軟式とか硬式とかはなかった。そこが彼らのねらいだったようだ。そして僕はその「男子テニス部」に女の子のマネージャーを8人ばっかり入部させた。自分のクラスから運動神経のいい子を選んで「テニスやらないか?」と誘ったのである。彼女たちは「硬式テニス」という響きに誘われてテニスコートに登場した。(そのコートは1面である時は80人に膨れ上がったのである。)男子の中の1年生の女の子達は恐いもの知らずだった。男子の関東大会の応援に池袋の立教中学に行った時も、西武線の中で半袖、ブルマーで騒いでいた。それで随分笑われたが、彼女たちが1年後に全国大会に出場するようになることなど、僕以外は誰も思っていなかっただろう。僕の「テニス部」はこうしてスタートしたのだった。
テニス部の練習はきつかった。石神井高校時代のトレーニングを中学生にやらせたのだからめちゃくちゃだった。勿論僕も全て一緒にやった。不思議なもので、顧問が一緒にやると子供達は物凄いスピードでついてくるようになるのだ。彼女たちは走って走って走り回った。陸上部よりも走ったから、陸上部よりも速かった。そしてあっという間に全国大会に出てしまった。彼女たちは全国で勝てなかったが、彼女たちの頑張りが後輩達に自信を与えた。男子が全国大会で2位になったのだ。硬式テニス部になった時に「日本一になろう!」と言った言葉が夢で無くなる日が来るような気がした。その学校ではその夢は実現しなかったが、次の学校(六中)で子供達はその夢をかなえてくれた。そう「日本一」になったのだ。それも二度も…勿論僕はテニスにますますのめり込んだ。そしてたくさんのタイトルを取るのだが、失ったものも大きかった。「家庭崩壊」である。僕は部活をやりすぎて、家族を失った。部活動は楽しい、だがほどほどにしなくてはいけない。

終業式
雨が降らなくてよかった。合羽を着ていって失敗だったくらい、雨は殆ど降らなかった。朝から雨に打たれる子ども達を見たくない。雨には何が含まれているかわからないのである。兎に角、一学期が終わり、僕らの見守りも夏休みに入る。

通知表
空の通知表を見て驚いた。何と「音楽」の一番上が「もう少し」になっていたのだ。まさか自分が空の成績のことで学校に電話をするとは思ってもみなかったが、家族みんなが納得できなかったので・・電話をしてみた。何故そんなの拘ったかというと、それが「音楽に関心を持ち、進んで歌ったり演奏したりしようとする」だったからだ。通知表のどの教科のどの項目で「もう少し」がついたとしても、こんなに驚きはしなかった。でも、音楽のこの項目だけは誰よりも“できる”と思っていたので、どうしても納得できなかったのである。それくらい空は毎日ピアノを弾いているのだ。音楽そのものにもの凄く関心を持っているのだ。だから(先生が空のことを全く見ていないか、他の子と間違えたのじゃあないかね・・)そう思うくらい不思議な評価に思えたのだ。最初は担任のO先生と話をして、次に教科担任のY先生と電話で話をした。どうやら空の音楽の評価については先生達も話合ったらしかった。そして、僕は音楽のY先生の説明で納得した。先生は空が休み時間ピアノを弾いていることも良く知っていて、授業中に誰よりもいい表情で歌うことも知っていたのだ。だけれど・・・先生のお話やお友達の演奏の時に、隣の子と話をしてしまい、ちゃんと聴けていないのだそうだ。「音楽は聴くことが一番大事なんです」とY先生。「空君にはどうしてもそれがわかって欲しくて、期待の意味を込めて“もう少し”をつけました。」先生は空のことを実によく見てくれていたのだ。空の何がよくて、何がだめなのかをちゃんと見ていてくれた訳で・・・僕は心から納得して電話を切った。空がこれから音楽の道に行くかどうかはわからない。(本気でピアニストになりたいらしいが・・・・)でも、音楽の先生が空の人生に大切なことを教えてくれたことだけは確かだ。先生に感謝である。

シュトゥットガルド管弦楽団
僕は小学生の時にシュトゥットガルド管弦楽団の演奏を厚生年金会館に聴きに行って、音楽というのは静かに聴くものだということを肌で感じた。それからは誰の演奏でも静かに聴くことが当たり前になって・・今に至っている。その影響で、議会でも誰かを野次ることができないのかも知れない。小さい頃の教育は恐ろしく人生に関わってくるものだと思うのだ。そういう教育を受けていなければ、平気で野次る男になっていたかも知れない。人の話を聴く、人の演奏を大事にする・・・そういうことを小さい頃に教えて貰った僕は幸せだと思うのである。

なでしこ
ピアノの特訓を始めた。勿論、僕がである。左胸が痛いので、きつい運動はできない。痛み止めを飲みながら家の中でやることと言えば、資料の整理と議会報告の準備と・・・読書とパソコンに向うことくらい。そこで朝からヘッドフォンを付けてピアノに向ってみたのだ。ところが、空のように右手と左手が連動しないのである。ずっと音楽は5だったのだが・・・もうビックリするくらい指が動かなくて・・・それでも、なでしこ“諦めない”精神で夜まで頑張った空父であった。

語学
こういう日は語学のトレーニングにも最適である。僕は韓国ドラマからアメリカの大学に留学するストーリーを選んでDVDを見てみた。すると、韓国語と英語の両方の勉強になるのだ。一石二鳥とはこのことで・・・楽しいひと時だった。

今日の写真
東門の見守り部隊の二人です。順子と純一は忙しいのに、睡眠不足になるくらい仕事が大変なのに・・・僕と一緒に(僕が駅立ちでいない日も)毎朝、見守りをしていてくれます。本当にありがたい話で・・・感謝、感謝です。お疲れ!明日から朝の1時間を何に使おうかね・・・。

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