Diary 2009. 4
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4月1日 (水)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第90弾! 2009.4.1(水)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第90弾! 2009.4.1(水)   たかやん

三日目
今日はNHKのラジオ講座の三日目。それがなかなか面白いのだ。「予習・練習・復習」の3つをちゃんとやっているからかも知れない。5分間の講座だけれど、スピードはなかなかのもの・・・耳も鍛えられる。継続は力なり・・・兎に角続けてみよう。

ピアノ
あれからピアノの練習は続いている。まだまだなんだけれど、楽譜を見なくても、耳と指が音を覚えている感じなのである。50を過ぎても進化するのだから、子どもたちがやったら凄いことになるだろう。

土地開発公社
昨日に引き続き、今日も土地開発公社の理事会があった。新しい部長達が勢ぞろいした。昨日の今日なので、かなりの違和感があった。

クリーニング
今日は久しぶりに車で市役所へ行った。控え室からスーツを持って帰ってきたかったのだ。3月議会で頑張ったスーツ達は全部で5着。クリーニングに出して、6月議会に備えようと言うわけである。

テニス
久しぶりにテニスをした。運動不足の体が軋むのが分かる。それでも1時間もすると、いい感じになってきた。テニスをしていると、余計なことを考えないからいい。ストレス解消と運動。一石二鳥である。

民主党
最近考えることがある。民主党と自民党との違いはなんだろう・・・。自民党は自由民主党だ。民主党は自由の無い民主党?まさかね。国会では明らかに与党と野党の自民と民主。それが市議会では両方とも市長与党。市民にはわかり辛い構図になっている。小沢さんの引き際が悪く、イメージダウンの民主党。失政、失言を繰り返し、愛想をつかされた自民党。この二つの政党の「二大政党制」だけは御免こうむりたい。似たような体質の党が交代ごうたいで政権を握ったら・・・・困るのは国民である。政権交代は実現して欲しい。だけれどもそれで終わりではないのだ。政権が交代して、国民の生活が向上する。それが大事なのだ。「政権交代」が目的では困るのである。お笑い芸人がやっても、弁護士がやっても、熱血俳優がやっても、民の暮らしが楽にならなければ意味などない。本当に民主の党であって欲しい。

コピー
僕がソファーに座っていると、その隣に座って、僕と全く同じことをする。僕が腕を組めば、空も腕を組み。僕が足を組みかえれば、空も足を組みかえる・・。頭を掻けば、空も頭を掻く・・・そして楽しそうに笑うのである。それを見て、今度は僕が笑う・・。そんな僕らを見て、ママと母さんが笑うのである。

イラストレーター
最後の最後にきて、イラストレーターと格闘している。議会報告の内容には気を遣うのである。今日は徹夜かも・・・・。
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4月2日 (木)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第91弾! 2009.4.2(木)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第91弾! 2009.4.2(木)   たかやん

田中幸弘日記から
珍しく、幸弘が日記にいいことを書いていた。それは公園のことだ。沢山の公園を知っている「公園のプロ」みたいな男だから、言っていることは正しい。内容はこうだ。

今日、ちょっと用事があって、所沢の航空公園に行ってきた。ここは、明治44年に国内で初めて飛行場が開設された所だという。今では、市民憩いの場となっている。フリーマーケットも有名だ。ここにも野球場やテニスコートなど運動施設もたくさんあるが、市民が憩える空間も豊富だ。

ところで、新座の総合運動公園はどうだ。公園とは名ばかりで、あんなもの公園じゃない。総合運動場だ。そう思っているから、小生は人と話をするときも、総合運動公園と表現することは、まずない。ほぼ、総合運動場と表現している。実態を知らない市外の人はごまかせても、実態を知っている人には、逆立ちしたって公園とは言えない。あれは、運動場だ。

運動場を運動公園に変えたいね。航空公園のように、航空記念館や図書館、そして日本庭園まで望みはしない。しかし、もっとたくさんの人が訪れ、自然を愛で、憩う公園にはできるはずだ。                      2009.3.31 田中

* 所沢の航空公園には色々な思い出がある。僕の叔父が戦死する前に、訓練を受けていた場所があの場所なのだ。父さんと最後の別れをした場所でもある。そして僕は一時期、そこの直ぐ傍に住んでいたことがあるのだ。五中の1期生から8期生までは所沢のパークタウンの僕の家に遊びに来たことがあるはずである。だから航空公園のことは出来上がる過程から知っている。確かに幸弘の言うとおり、公園の差は大きい。何とかしなければ・・・である。

ミサイル
北朝鮮のミサイルに対して、「日本に落ちそうな場合は打ち落とす!」と威勢がいい。だけど、当たるのだろうか・・・そんな技術というか、機能が迎撃ミサイルシステムにはあるのだろうか。アメリカの実験では何度も失敗しているのだ。どこからいつどんな角度とスピードで発射されるのかを事前に知っていても、失敗してきたシステムで北朝鮮のミサイルを打ち落とす確率・・・WBCのイチロウの打率を遥かに下回るだろう。そして迎撃ミサイルが落ちる場所も心配である。当たって、破片がどこに落ちるのかという心配よりも、迎撃ミサイルそのものがどこに落ちるのか・・・そんな心配をしたくなる。金正日に付き合うことはないのに・・・。

ドラえもん
空とママと三人で映画を見に行った。お弁当を作って、水筒を持って・・・それでも三人の入場料で3800円。しかも「縫いぐるみが欲しい」というリクエストにこたえて・・1300円の縫いぐるみを買って5100円の出費。三人で映画を見て、少し泣けて(ドラえもんで泣くとは・・・)いい思い出ができたなあと思っている。庶民の娯楽という割には高い映画。でも、一年に一度くらいは贅沢をしないとね。

完成
何とか3月31日号が完成した。これで議会報告は42号。「にいざ民報」の週刊にははるかに及ばないが、個人の議会報告としては一番多いと思う。何せ、独り会派なもんで・・・発言回数や発行回数で他の人の何倍も頑張らないと、話にならないのである。

駅立ち
8日の入学式を忘れていた・・・・。8日ができないとなると・・・6日からの駅立ちの変更もありそうである。
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4月3日 (金)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第92弾! 2009.4.3(金)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第92弾! 2009.4.3(金)   たかやん

教師を目指す人へのメッセージ
リクエストがあったので、HPのトップページに復活させた。4月という月は子供たちも緊張するが、先生達も緊張するものなのだ。子供たちとどう接したらいいのか・・・それこそ「これが正解だ!」なんていうマニアルはない。熱意と経験がある先生でも初日、あるいは最初の1週間は緊張するもの。そんな先生達へのヒントになればいい。そう思って書き溜めたのがこの。「教師を目指す人へのメッセージ」である。

第一歩
教師になって一番最初にすること、それは子どもの名前を覚えることだ。入学式、 あるいは始業式の日までに、自分のクラスの子供達の名前は全員覚えなくてはいけ ない。これはもうプロとしては最低の条件である。
名前と顔が一致しない子供達を一日目で全員覚える。難しいようで簡単である。ま ずクラスの名簿を5人ずつ区切って覚える。(机の列が横に6列だったら、6人ずつ区切る。)何日かかってもいいから、とにかく暗誦してしまう。勿論正確に覚 える。それも絶対にファーストネームで覚えるのだ。そこが味噌である。子供達を 苗字で呼んではいけない。これはアマチュアのすることだ。
人間誰だって、苗字で呼び捨てにされるより、名前で呼ばれたいものだ。(自分の名前を呼ばれて嫌な気 持ちになる人はいないという話があるくらいだ。)そして初日、自分のクラスに名 簿順に座らせる。自己紹介をさせながら名前を反復練習する。色々質問しながらこどもの表情をつかんでいく。この時メモは取らない。意地でも頭の中に子供達の言葉を叩き込む。どうしても自信の無い人は記念にといってビデオ撮影するのも楽しいし、テープレコーダーで録音してもいい。といにかく、子供達に先に自己紹介させるのがコツだ。自分が観察される前に観察する余裕がないといけないのである。
そしていよいよ自分の自己紹介。僕はこんな風にやっていた。「俺の名前は高邑朋矢。あだなはタカヤン。昔からそうだから、みんなもそうやって呼んでくれ。タカヤン!っていわれたら、あいよっ!ってこたえるから。」「本当?」「じゃあいってみな?」「タカヤン!」「あいよーっ!」「タカヤン!」「あいよーっ!」「タカヤン!」「もういいよーっ!」
ここまでくればもう子供達は半分魔法にかかっている。おまけに「みんなこのクラスの奴の名前だけは1週間で覚えろよ!」「できないよー!」「俺はもう全員覚えたぞ!」「嘘だあ…」「嘘じゃない!秀昭、拓郎、光、圭亮、登、新太郎…・愛、文、楓、美生。どうだ!」と全員の名前を言ってみせると、子供達はもう完全に魔法にかかっているのだ。
単純なことだが、入学式や始業式で初めて会った先生に自分の名前を覚えてもらう というのは子どもにとっては物凄く嬉しい事なのだ。怒られるのではなくて自分の顔と名前を覚えてもらったのだから、誰だってその先生を好きになりそうだと思う。その錯覚が大事なのだ。こういうクラスは初日から笑顔が溢れる。クラスというのは笑顔でスタートして涙で終わらなくてはいけない。1年間その子供達にどれだけ笑顔がプレゼントできるのか、そしてどれだけ自分が笑顔でいられるのかが勝負なのである。クラスの第一歩は担任のちょっとした努力で素敵な一歩になるのだ。その努力を惜しんではいけない。大学を卒業したばかりでも、貴方はもうプロの教師なのだから…・。
そう、ここで僕が言いたかったことは「予習」の大切さ。先生も授業の前に「事前準備」という努力をしないといけないのだ。この名前を覚えるという単純なトレーニングにはおまけが付く。それは卒業式で、呼名簿を見ないで名前を呼べるようになることと・・・。何十年経っても、自分のクラスの子供たちの名前は忘れないということだ。時々、数年前の卒業生の名前すら忘れてしまう先生?たちにもお目にかかることがあるが、そのときの子どもたちのガッカリした顔。本当に可哀そうなのである。卒業生は何千人いても、最低自分のクラスの教え子は死ぬまで忘れない。そういう先生であって欲しいと思う。

堀の内病院
空と二人で耳鼻科へ行った。空は耳掃除、僕は花粉症の薬をもらいに行ったのである。前に来たときは泣きべそをかいていた空だが、もう大丈夫。随分成長したなと思った。

変更
3月号は完成したが、駅立ちの日程は変更になった。13日からにしたのである。6日からでもいいのだが、それだと中学生や高校生達と会えないのだ。毎回僕の「一生懸命」を笑顔で持っていってくれる子どもたちと会いたいので、入学式、始業式が終わってからの駅立ちを決めたのだった。よしのり君、よろしくです。

黒目川の川掃除のお知らせ
4月の川掃除は5日。明後日の日曜日。9時〜栗原1丁目公園付近でスタートします。軍手とトングはこちらで用意します。みなさんの参加を心よりお待ちしています。
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4月4日 (土)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第93弾! 2009.4.4(土)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第93弾! 2009.4.4(土)   たかやん

4時
久しぶりに4時に起きてみた。静か、実に静かである。音がしないのだ。自分が出す音以外は何も聴こえない・・・・おっと、パソコンの音は聞こえるか・・・

やらなきゃいけないこと
沢山あるが、どれも楽しんでやれそうだから幸せである。「やらなきゃいけない」と思うから辛くなるだけで、「やれるんだ」と思えばいいのだ。

3キロ
六中時代、毎日練習のあと3キロ走っていた。苦しくて、苦しくて・・・その時、星野富弘の詩と出会った。苦しめることの幸せを感じたら、走ることが全然苦しくなくなった。物理的には苦しいのだが、精神的には苦しくない・・・そんな感じだった。そしてそれは本当だった。今はもうあんな風には走れない。アチャや丸、大佑やこころと大接戦なんてことはできないのだ。苦しいあの一瞬一瞬こそが実は画幸せな瞬間だったのだ。

東北
岩隈がダルビッシュに投げ勝った。流石である。これで今日田中が勝つと・・・楽天にも目が出てくる。高校生達が頑張ったのだから、プロ野球も東北には頑張ってもらいたい。

風呂
さて、風呂にでも入るとするか・・・。お風呂で本を読んで、英語をやって・・・

兄貴
風呂を出ると兄貴から電話。「ちょっと手伝って」と呼ばれる。午前中一杯、兄貴のガレージの掃除をやるはめに・・・。忙しいのだが、断れないわたし。

覚えてない?
兄貴がドライバーを持ち、僕が押さえる。はて、どこかでやった記憶が・・・するとドライバーが滑り、僕の手を直撃。「痛!」でも大丈夫。「思い出すなあ、昔こうやって粘土切っていて、お前の手を切ったんだよ。」「え?」「覚えてないの?」「うん、なんとなくしか・・・」どうやら半世紀ほど前、兄貴がナイフか彫刻刀で僕の手を切ったらしい。

教師を目指す人へのメッセージ2
第二歩 「学級通信」
名前を覚えるのと同時にするのは「学級通信」の準備だ。僕は『一生懸命』という学級通信を11年間、毎日発行した。毎日というのが味噌である。前半の10年間は毎日という訳にはいかなかった。年間100号も発行できればいいほうだったのだ。それが一度毎日書き続けたら止められなくなった。大事なのはこの止められないという感覚を子供達と一緒に体験することだ。11年間には色々なピンチがあった。
一番のピンチは毎日書き始めて1年目のクリスマスイブだった。25日は2学期の終業式。通知表を出さなくてはいけないという時に、41度の熱を出したのだ。僕は通知表を全く書いてなかった。(通知表を1週間かけてコツコツ書くという能力は僕には欠けていたのだ。)苦しかった。悪寒が走り、うわごとで「母さん、助けて!」といったくらいだ。
通知表を書く事は諦めていた。41度の熱なんだから、みんな許してくれるだろう。そんなふうに思っていた。ところがその苦しい状態で、学級通信を書いていないということに気づいたのだ。毎日書き続けてきたのに、これで終わりなのかと思ったら、なにくそという気持ちが湧いてきた。そう思っただけで熱が40度に下がった。それが夜中の12時頃。それから震える手で「一生懸命」を書き始めた。何度も中断しながら、3時頃やっと書き終わった。不思議なのは熱がまた下がったことだ。39度になっていた。普通39度は苦しいものだが、41度から下がった39度は楽なものだった。僕は通知表も書く気になり5時過ぎに通知表も完成した。熱は38度になっていた。今度は朝練にいきたくなってきた。6時、大力という子から電話があった。「熱が39度あるので朝練休みます。」という電話だった。僕はそこでこう言った。『俺は41度あったけど、今からいくぞ。』テニスコートへ行くと大力も来ていた。
「継続は力なり」と子供達にいくら言っても、その言葉には力がない。しかし、毎日学級通信を書き続ければ、その言葉には力があるのだ。学級通信を毎日書くには子どもを見ないと駄目だ。毎日書いていると、どうしても筆が進まない日がある。そういう日は忙しくて子供達を見ていない、(会ってはいるが・・)日の事が多い。逆に子どもとたくさん話をして、子どもの目をよく見ている日は、書く事がたくさんありすぎて書ききれない状態になる。「学級通信」はそういう意味でのバロメーターになるのだ。
勿論毎日書くにはこつがある。それは自分の言葉で書くということだ。よそいきの言葉でも何枚かは書けるだろうが、子供達の心には響かないし、長続きはしないものだ。毎日書いていればひどい文章のことだってある。でも心に響く通信を書く率も上がるのだ。帰りの学活で子ども達は食い入るように「一生懸命」を読む。それまで大騒ぎだった子供達がシーンと静まり返ってプリントを読むのだ。自分の名前があると大変だ。「ほら今日は載ってるよ。」と嬉しそうに自慢する。でもそれが無くても友達の発言に笑いころげ、時に涙をするようになる。学級通信はクラスの全員を主役にする力を持っているのだ。
* 学級通信は大事である。学級というのは色々な事件があるものだ。山もあれば谷もある。いいときも、悪いときも自分の思いを学級通信にぶつける。そして、子どもたちの思いもぶつける。余裕があったら親の思いもぶつける。そういうぶつかり合いがやがて実を結ぶのである。僕の「一生懸命」にもライバルのような学級通信があった。「心」「闘魂」「blossom」「金太郎」そして「日々これ精進」・・・・どれも担任の思いが込められていて、時には笑い、時には泣いたものだ。学級通信は一生の宝になる。その日に起きたことは、その日にしか書けないのである。忙しいとは思うが、子どもたちとの絆が生まれることは間違いない。1年に244号。授業日は必ず発行。それが大事。毎日書くのがコツである。自分だけの学級通信を作ってくださいな。
孫と祖母ちゃん
亮は祖母ちゃんに弱かったが、空はやけに強気である。毎日遊んでもらっているくせに、祖母ちゃんに生意気な口をきくのである。聞いているとどっちもどっちなので、あまり口を出さないのだが・・・夕食の苺のことで、おばあちゃんに怒られた空の一言には笑った。「空、本当のお家に帰りたい・・・このうち嫌だ。」本当の家というのはどうやら、畑中の家のことらしいのだが・・・。苺をもう一つ食べられなかった悔しさをぶつけたのだろう。80歳も年が違うのに、食べ物のことでもめるんだから面白い。明日は空も川掃除に参加するらしい。楽しみだな。
takayanchan@jcom.home.ne.jp              たかやん


4月5日 (日)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第94弾! 2009.4.5(日)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第94弾! 2009.4.5(日)   たかやん


朝の黒目川へ母さんと散歩へ行った。桜が余りにも綺麗なので、土手から写真を撮った。今日は川掃除の日なので、ゴミの目星だけつけておいて・・・9時から拾うことにした。

ちびっ子
9時に集合したのは五中の卒業生の4人と僕。暫くして石神のMさんが合流。全部で6人になった。僕が神宝大橋方面から戻ってくるときだった。「たかやんだ!」という声がした。八石小学校の子達が3人、片山幼稚園の子たちが2人。そのお母さんたちが3人。全部で8人の助っ人が登場した瞬間だった。


そしてもう二人。笑顔で登場したのが、娘の雪とその長男のあっくん。「手伝いにきたよ」と嬉しいことを言う。

17人
最後に五中の卒業生のM君も来てくれ、結局全部で17人での川掃除になった。今日も川の中に直弘と祐晴が入り、自転車やら消火器やら色々なものを引き上げた。そして直弘が作った灰皿を今日も2箇所に設置したのだった。

落合川
我が家で飲んで、食べて、語っていると「たかやん、落合川に散歩へ行こうよ」と直弘。酔っ払い4人と自転車の空の5人で落合川へ向かった。そして落合川の綺麗さに僕はびっくりしたのだ。どうやら本当に湧水だけの川らしい。水草の色が全然違うのである。黒目川の水草は茶色いのだが、落合川の水草は綺麗な緑色なのだ。そして川の匂いが違うのだ。

芝生
水辺で小さい子供たちが安心して遊べる空間があった。空も「入っていい?」と川の中へ・・・芝生には笑顔が溢れていた。芝生にはやっぱり力がある。そう思った。

南沢
僕らは南沢まで探検に行った。そして、そこの湧水は飲めるくらい綺麗だったのだ。落合川には下水が全く流れていないのだろう。生活用水が流れ込む場所が一つもなかったのには驚いた。そしてカワセミが僕らと一緒に移動しながら何度も落合川の中へ飛び込んでいったのだった。
第三歩 「初めての授業」
初めての授業の時のことは今でもはっきりと覚えている。自分が子供達にどういうふうに見られるのか、馬鹿にされはしないか、間違ったことを言いはしないか…・そんなことばかり考えていたから、顔が赤くなり、緊張の固まりという状態だった。
僕は元々人前で話す事が苦手だったから、授業のプレッシャーというのは相当のものだった。僕の赴任した学校は新設校で二つの中学校が合併してできた中学だった。そして僕は3年生の担任。埼玉県でたった一人の新卒の3年の担任だった。子供達は二つの学校が合わさっている訳だから、なんだかおかしなムードだし、僕は新米で何が何だか分からなくて、本当に漫画みたいなクラスだったような気がする。要するにクラスを仕切るのは僕ではなくて、子どもだったのである。
最初にクラスに入った時も「席に着いて!」と言っても、子供達は席に着かない。「こら!席に着けっていってんだろ!」と怒ってみても「嫌だね。」と一番のチビのIに言われる始末。先生の権威なんか全く無かった。それでも番長格のTが「座ろうぜ!」と一言いうと、みんな席に着いてくれた。そんな訳だからネクタイにスーツ姿の僕は子供達のいい標的だった。休み時間になるとネクタイを引っ張られ、首を絞められ、まったくいい遊び道具だった。口でも体力でも子供達に勝てず、本当に情けない担任だった。
二日目から僕はネクタイを外し、ジーパンにセーターで登校した。スリッパを止めて、運動靴にした。子供達と格闘して勝つにはまず格好が大切だったのだ。そんな状態で最初の授業が始まったのである。3年生を4クラスに2年生を1クラス持たされた僕は本当にアップアップの状態だった。45分の授業にわざと5分遅れて行き、5分早目に終わらせて、35分の授業にしてみたり、とにかく早く教室から逃げ出したいと思っていた。そして質問が恐かった。「なんで?」「どうしてそうなるんですか?」「この植物の名前は?」恥ずかしいことにその質問のほとんどに僕は答えられなかった。ただごまかす事だけはしなかった。『今、分からないから調べておくよ。』そうやって先輩の先生に聞いたり、本で調べてきたりしていた。要するに子供達に勉強させられていたのだ。
僕は東京の新宿で育ったせいか、植物には特に弱かった。信州の山の中で育った、大学時代の友達に随分馬鹿にされたものだ。「おめえ、それでよく理科の教師になろうとするだな。」だから野外実習の時はもう必死で子供達と一緒に図鑑とにらめっこして、野草の名前を探した。そうして実習場所の野草の名前だけには滅法強くなったのである。そしてそのことがちょっとした自信になっていった。まるで子供達が自信を持つのと同じように。
そう、「先生」とは名ばかりで実は「生徒」だったのだ。教えている積もりが、実は子供達に教わっていたのだ。このことは実は21年間ずっと僕の心の中で続いていた。教師という仕事は実は子供達から教わる事の方が多いのではないか、ということである。そしてそのことは今でも正しいと思っている。僕らは子供達からたくさんのことを学ぶのだ。そして成長するのだ。どんなに授業が上手に出来ても、そのことが分からないとプロの教師にはなれないと僕は思う。
(写真はカット)
僕の2回目の卒業生の二人。五中の3年1組の子達が我が家に大学合格の報告に来た時の写真。左は大。右は秀行。この子達は優秀だった。僕はこの子達と2年間同じクラスで生活した。いわゆる持ち上がりのクラスだったのだ。特に3年生になってからは1年間、毎朝「朝勉」をやった。他のクラスよりも1時間早く教室に来て、みんなで勉強するのだ。ところが大は1年間一度も僕に質問しなかった。理科のテストをやらせれば113点も取った。100点満点で113点というのは、僕の模範解答よりも大の解答の方がよかったからだ。秀行は3年生の最初の中間は405点くらいだったのだが、僕が数学の問題集をあげると、それを3回繰り返しあっという間に450点を越えるようになった。僕は毎回子供たちと一緒にテストを受けていたが、定期テストでは遂に大に勝つことはできなかった。大は東大へ進学し、秀行は京大へ進学した。僕はこの子達に一緒に学ぶことの大切さを学んだのだった。

* 最初の一年は今から考えると、メチャクチャだった。浦和高校しか知らない担任が進路指導をしたのだから・・・。僕には子供たちと一緒に勉強することしか能はなく・・・逆にそのお陰で、僕のスタイルが確定していった。そう何も一緒にやるというスタイルである。それにしても酷い先輩達だった。新任に3年の担任をやらせ、3年と2年の授業をやらせたのだから・・・・その先輩達のお陰で、怖いものが無くなったのだが・・・。
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4月6日 (月)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第95弾! 2009.4.6(月)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第95弾! 2009.4.6(月)   たかやん

6時15分
基礎英語2を聴く。予習してあってので、スラスラ頭に入る。朝の15分でも練習して、イメージを掴む。

9時05分
「英語5分間トレーニング」を聴く。9時03分にセットしておいたタイマーが鳴り、パッと集中して、パッと終わる。そして頭の中の英語の語彙が増えていく感覚が楽しい。

隙間時間
ピアノを弾くようにしている。段々ピアノそのものが楽しくなってきた。楽しいものは触りたくなる・・・。他の曲にも挑戦したくなってきた。

始業式
東京の中学校は今日が始業式。どうやら授業数が埼玉よりも多いらしい。運動部の大会は土日にやっているし、埼玉が遅れているのは確かである。

5年で?
新任は同じ学校に5年しかいられない。埼玉はそんなシステムになっているらしい。僕は当たり前のように最初の学校、新座五中に十年いた。次の六中にも十年いた。長くいるといいことも沢山ある。卒業生との関係が実にいいのだ。知らない卒業生がいないのだから、中学生も安心だし、卒業生も安心。地域の人たちとの交流もあり、みんなが仲間になっていく・・・。学校を愛して、愛して・・・「自分の学校」だと思うようになり、「自分の子ども」を入れたくなる。僕の娘は五中に、息子は六中に3年間通った。5年間ではそうはいかない。杓子定規に異動では、育つ先生も育たないし、その学校の「伝統」だとか「特色」も育ちにくい。「机上だけでものを考える曲学阿世」のやりそうなことだ。昔の石神井高校には何十年もいる先生が沢山いた。その先生達がいなくなって・・・石神井のレベルは落ちるところまで落ちた。学校はやはり先生なのである。そういうことを知らない人間が宇トップにいるんだろうなあ・・・。

半袖・短パン
昼過ぎからテニスをした。1時間ちょっとやっただけなのだが、余りの暑さに半袖・短パン
になった。空を迎えに行って、そのままイナゲヤへ。店の中で半袖・短パンでいるのは僕一人。コートを着ている人もいたので、ちょっぴり恥ずかしかった。

第四歩 「目」
授業は子供達の目を見ながらしなくてはいけない。先輩の先生の中には教室の天井を見ながらする人がいたが、そういう授業はいただけない。子どもが聞いていても寝ていても同じでは、プロが泣く。話をしていて、子供達が下を向きはじめたら自分の話しがつまらないと思わなくてはいけない。それを「ちゃんと前を向け!顔を上げろ!」というのは素人のいうことだ。生徒は当たり前だが生き物だ。調子のいい時もあれば悪い時もある。子供達の目、表情を見ないで授業をする教師は生徒の体の不調や「いじめ」を見逃してしまう。よく学校が「いじめは無かったと認識しています。」などと訳の分からないことをいうが、いじめがなかったのではなく見落としていたのだ。まず授業で生徒が理解しているのかどうかを、表情で判断する習慣をつけよう。首をかしげたり、つまらなそうな表情をしたら、それは授業の仕方に問題があるのだ。授業には「年間指導計画」があり、その通りに進めないとテストができないとかの問題が生じるが、生徒が理解できない授業を1年間も続けたらこれはもう「犯罪」に近い。生徒を理解させるには何でもしなくてはいけない。歌を作る。語呂合わせを考える。踊る。繰り返し、繰り返し質問する。クイズ形式で質問する…・やれることは何でもやる。子どもが体育の授業で疲れていると感じた時は「昼寝」を10分させたっていい。要はその時間に理解できるようにしてしまえばいいのだ。集中しない50分より、集中した40分の方が効果があるのは当たり前だ。
ものを覚えるにはリラックスした方が効率がいいのは知られているが、僕は授業の最初によく歌を歌った。教室にギターを置いておくのだ。「理科係」の生徒がそのギターを毎時間運んでくれる。子供達はそういうことが好きなのだ。歌を歌って、脳波をアルファー派にしてから授業に入るという作戦だ。理科の教師が歌を歌ってなんなんだ?などという批判には耳を貸さないことだ。理科嫌いを無くし、授業に集中させて、効果があがるのならそれでいいのだ。そして休み時間はなるべくどこかの教室にいることだ。子供達の話を聞けるから職員室に帰るよりもはるかに楽しい。僕の場合は「理科準備室」という部屋があったので、そこに子供達が毎時間遊びにきた。そこでももっぱら話を聞くのだ。聞き役に徹していると、子供達はなんでも話すようになる。「いじめ」や「喧嘩」、「事件」「授業」の情報など訳なく入ってくる。そして何より子供達の本音が聞けるのだ。「U先生の授業は本当につまらない。勝手にどんどん進んでいって、質問すると怒る。」「分からないっていうと、授業を聞いてないからだ!って怒るからもう質問したくなくなる。分からないから聞いているのに。」子供達の本音はそのまま自分の授業の反省になる。
そういう意味では毎回の授業の後に「感想」を書いてもらうのもいい。発言は出来なくても、「感想」を書く事なら出来る子がいるのだ。わかっていると思った子が理解できていなくて、寝ているのかと思った子がしっかり聞いていたりする。自分の目の不確かさを確認するのには丁度いい。50分の授業も5分前に感想を書いてもらえば45分。最初の5分で子どもリラックスさせて、授業は40分。子供達集中力の限界はそんなものだ。50分間、ダラダラと授業をするのだけはやめよう。
(写真はカット)
この写真は21年目の最後のクラス。二中の3年2組。子ども達の姿勢や表情から緊張感が伝わってきた人は教師の素質ありだ。子ども達の目を輝かせるには、まず緊張感を和らげてあげることが必要になる。担任といると「安心」する。そういう先生になって欲しい。
* 学校の先生が羨ましい。子どもたちと朝から晩まで一緒にいられるのだ。塾でも子どもに会えるけど、余分な話はすこーししかできない。歌だって、すこーししか歌えない。僕が大好きな道徳の授業も、ほんのすこーししかできない。みんなで燃えるトイレ掃除もないし、喧嘩さえない。家庭訪問もない。(時々勝手にいくけど・・・)給食もない。体育の授業に飛び入り参加したり、音楽の授業で一緒に歌ったりもできない。勿論、それでも楽しいのだけれど・・・学校の先生って、本当に幸せな職業だと思うのだ。子どもたちのキラキラした瞳にはエネルギーがある。僕は21年間、そのエネルギーで生きてきた。今でもそのエネルギーは僕の心に蓄積されている。永久になくならない、しかも温暖化ガスもでない、実にクリーンなエネルギーである。
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4月7日 (火)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第96弾! 2009.4.7(火)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第96弾! 2009.4.7(火)   たかやん

タイマー
携帯のタイマーが鳴る。お、基礎英語2の3分前だ・・・何をやっていても、タイマーのお陰でラジオを聞き逃すことが無くなった。いいことである。録音しておくと、いつでも聞けるからと習慣にならない。その点、生のラジオでの勉強は決まった時間にするしかないので、習慣になりやすい。学校のチャイムもそう考えるとまんざら悪いものでもないね。

コート
議会のない火曜日の午前中はテニスのコーチになる。西堀コートで待っている“おばさん”達にボランティアでテニスを教えるのだ。今日は桜が満開で、春休みということもあり、子どもたちが公園に溢れ、元気に走り回っていた。ところがコートが酷いのだ。もうあれはテニスコートじゃあない。まるで畑である。「何とかしてくださいよ」とよく言われるのだが、「金がないんですよ」と言うしかない。「変な道路造ってるからでしょ。」「朝霞も和光にもいいオムニがあるのに、何で新座だけないの?」「まあ、あの道路がなければねえ・・54億だからねえ・・・オムニなんて朝飯前だったよねえ。」と僕。コートの土を入れ替えない限り、あのコートはどうコート整備をしても無理なのだ。高校で3年、大学で3年、中学校で20年コート整備をしてきた人間が言うのだから間違いない。あれはお金を取れるコートではない。中学校のコートの方がイレギュラーが少ない。そんなコートで税金を払っている市民から使用料を取るのだからおかしい。詐欺と言われてもしょうがないのである・・・須田市長もゴルフばかりやっていないで、あのコートでテニスをしてみたら分かる。立教大学のコートを知っているが、実にいいクレーコートである。立教のキャプテンだった須田市長には本物と偽者の違いが分かるはずである。

東久留米・志木線
54億の道路を横切って西堀コートへ向かう。明らかに前よりも不便である。東久留米側が完成したとしても、駅まで行くのにかかる時間は・・・多分1分も違わないだろう。そして水道道路へ行くのにかかる時間も、多分2〜3分の差にしかならないのだと思う。石神の人で54億の道路を喜んでいる人に僕は会ったことがない。あの道路のどこに50億を超える価値があるというのだ。仮に1億でできたとしても、迷惑なだけの道路である。

教師を目指す人へのメッセージ 第五歩 「指導案」
僕が大嫌いなものの一つに指導案がある。教育実習の為の指導案。研究授業の為の指導案。
この指導案にうるさい人がいる。「この指導案はなんだ!」「この指導案の書き方はなんだ!」と授業の前にケチをつける人達である。「授業というのは指導案がよければ誰でもできるものだ。いやそうでなければならない。」とまで言う人もいる。糞食らえである。
指導案の形式にうるさい人ほど子供達の表情には関心がないものだ。どんなに立派な指導案を作っても、子供達はそのとおりには反応しない。当たり前だ、生き物なんだから…・。事前に「打ち合わせ」をしていれば話は別だが。そういう作られた授業ほどつまらないものはない。子供達がどれだけ分かったかではなくて、教育委員会の「先生」達にどう思われるかが大事な授業。そんな授業は糞食らえだ。それは誉められる指導案が書けて、いい授業ができるに超した事はない。僕が言いたいのは、そういうものに時間をかけて欲しくないということだ。授業のポイントは一つでいい。それをクリアーできたかどうかを「生徒の感想」で判断して、次の授業でその反省を生かす。そのことの方が大切なのだ。僕の先輩には「私は毎回指導案を書いています。」という凄い人がいたが、彼女の授業は実につまらなかった。授業の達人になるのはいいことだが、指導案の達人になってはいけない。
導入…展開…まとめ。そういうパターンもあるだろうが、50分の時間を自分とそこにいる子供達で自由に使っていいのだ。子ども達が「分かった!」「できた!」と笑顔でいうことが大事なのだ。それさえ押さえていれば、あとは授業は生き物。脱線するのもいいではないか。これから「先生」になろうという人達にこんなことをいっては何だが、どんなに一生懸命授業をやっても、子供達はその内容などあまり覚えていないものなのだ。覚えているのは、楽しかった!とかやる気になった!とか授業中によく話が脱線したとか…何やったか覚えてないけど、理科の授業は好きだった!とかその程度なのだ。子供達が忘れないのは「先生」がどういう目で自分達を見てくれていたかということだ。どういう風に自分に声をかけてくれたかだ。どういう表情で自分達と接してくれていたかなのだ。それは自分自身で振り返ってみれば分かるだろう。どんなに好きな先生でも授業そのものを記憶している人はまずいないだろう。まあいくつかの授業は残っているにしてもだ。僕が忘れられない先生に兵藤鎮馬先生がいる。中学時代の数学の先生で教頭だった。そう昔は教頭も、時には校長も授業をしてくれたのだ。僕らは中3で初めてこの先生に数学を習った。先生は最初の授業でこういわれた。「僕の名前はひょうどうしずま。みんなヒョウチンと呼びます。だからみんなもそう呼んでください。」(ほんまかいな…)僕らは廊下で先生に会うと「ヒョウチン!」と呼んだ。すると先生は「はい、何ですか?」とこたえる。授業中でも「ヒョウチン!」すると「はい、何ですか?」そして、授業はべらぼうに分かりやすかった。僕らはあっという間にヒョウチン中毒になっていった。ヒョウチンは放課後も僕らの教室で数学を教えてくれた。時には高校の数学まで教えてくれたりした。僕のタカヤンというあだ名は実はこのヒョウチンがもとなのだ。「たかやん!」「あいよ!」僕はそう呼ばれる度に懐かしいヒョウチンが頭をよぎるんだ。ほんのちょっとだけどね。
* 研究授業をたくさんやっている学校がいい学校ではない。子どもたちが楽しく通っている学校がいい学校なのだ。「新座の学校で放課後、学校に来るな!と言っている学校があるのを知ってますか?」と言われた。「子供たちはいったいどこで遊んだらいいんですか?」「学校が一番安全な場所でしょう?」「先生たちが学校にいるのに、校庭に入ってはいけない」と子どもたちはいわれているのだそうだ。確かに職員会議や研修には邪魔になるかも知れないけれど・・・・学校は子どもたちのもの。地域のものという意識の低さが、そういう学校を生み出していくのだ。学校長が学校を私物化してはいけない。誰の税金で建てた学校だかを考えてみれば直ぐ分かる。学校はみんなのもの。明治時代からそうだったのだ。
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4月8日 (水)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第97弾! 2009.4.8(水)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第97弾! 2009.4.8(水)   たかやん

風呂掃除
今朝の仕事は風呂掃除。お風呂で英語のトレーニングをした後に、やってみた。なかなか気持ちがよかった。

入学式
ピンクのネクタイを締めて八石小学校へ。体育館に入ると「あ、たかやんだ!」と2年生の女の子。親友の娘だった。僕の左隣は市教委の塚田先生。右隣は片山幼稚園の園長先生でちょっぴり緊張した。

校歌
2年生の子達と一緒に「八石小学校」の校歌を歌った。ひとみ(ママ)から教わっていたのだ。


祝辞を述べられる先生達が何回礼をするか数えていたら・・・平均8回。いくらなんでも多すぎやしないかい・・・などと余計なことを考えていた。

呼名
中学校の入学式では一人一人名前を呼ぶのだが、小学校ではそれがない。30分で終わるのだから、呼名をしたらいいのにと思う。子どもたちも一生に一度、親にとっても一生に一度の愛する子どもたちの入学式。そういうシーンがあってもいい。いや、あるべきだと思った。

第六中学校
午後からは六中へ。「たかやん!」笑顔で僕を呼ぶ声が・・・・六中の卒業生がお母さんになって登場。「おめでとう!こっち向け!ハイ、チーズ!」と写真を撮った。

世界一
六中の校歌は日本一だと思っていたが、今日の在校生の歌を聴いていたら、「世界一」なんじゃないだろうか・・・と思った。はじめは一緒に歌う積もりで、独り起立して歌おうと思っていたのだが・・・アカペラで楽譜通りにハモられちゃあ・・・出番なし。勿論、座ったまま歌ったけれど、いやあ綺麗な声だった。親は多分安心したと思う。あれだけの歌を歌える中学生達はそうそういないだろう。指導している片山陽子先生も凄いが、やっぱり六中生の底力は凄いと思った。いやあ本当に感動した。


テレビで懐かしい歌を聞いた。「大学2年生の時の歌だ」「あたしは4歳だった」「あ、そう」「この歌は中学校2年生くらいだ」「生まれてない・・・」「五中でオタンコ達の担任だった頃の歌だね」「うーん、知ってるこの歌。お父さんが好きだった。よく歌っていた。小学校5年生くらいかな」どうやら、生きてきた時代が少しずれていたらしい・・・。

きつねうどん
今夜の夕飯はきつねうどん。ママが油揚げを煮て、僕が汁を作り、空が包丁で菜っ葉を切った。そのうどんの美味しかったこと。「ママ、空が切ったんだよ!美味しいよ」と菜っ葉をやたら勧める空。「油揚げも食べてよね」「汁は美味しいかい?」どうやら空は料理に興味を持ったらしい。一緒に作ることで会話が広がり、そして食べ物を大事にするようになる。今日のきつねうどんはそんなことを教えてくれたのだった。

教師を目指す人へのメッセージ 

第六歩 「言葉の力」
「言葉」の持つ力を知らないで教師をしてはいけない。子供達には「いい言葉といい栄養で育つ権利」があると僕は思っている。心からでた言葉にはそれだけの力があるのだ。
朝から「おはよう!」ではなく、「何だお前そのスカートは!」「何でジャージなんだ!制服はどうした!」と叫ぶ奴がいる。彼らにはその言葉が子供達にどういう影響を与えるか考える力がない。それでいて、「挨拶」は大切だ。などというからちゃんちゃらおかしくなってくるのだ。「先生」は先を生きているのだから、何でも真っ先にやらなくては「先生」じゃあないのだ。こどもに気持ちのいい挨拶をさせるのは簡単だ。教師が自分から「おっはよーっ!」と笑顔で挨拶しつづければいい。勿論一日では駄目だ。最低2週間、子供達から挨拶が返ってこなくても笑顔つきでやり続ける。「継続は力なり」子供達は間違いなく笑顔つきの挨拶をするようになる。職員室の中には大声で挨拶しても何も返ってこない凄い奴もいる。さすがに大人だとむっとくるが、それでもし続けるとやっぱり返ってくるようになる。人間ってそういうものだのだ。学校は全ての時間が授業なのだ。廊下で会っても、校門で会っても、勿論授業中でも「言葉」には最大の敬意を払わなくてはいけないのだ。僕は教育実習を函館中部高校の定時制でやらせてもらった。僕はそこの1年生で生
物の授業をしたのだが、ひどい内容だった。何しろ自分でも何をしているのかよく分からなかったのだから。それでも生徒達はみんな真剣に聞いてくれた。眠い目をこすりながら、真剣に聞いてくれた。8割以上が看護学校の生徒だったと思う。本当にありがたかった。最後の日にそこの教頭先生から僕らはこういう言葉をもらった。
「君たちの授業は確かに下手です。ひどいものです。しかし、君たちには僕らにはないものがある。それは言葉です。彼らと共通の言葉です。その言葉をいくつになっても失わないでください。お願いします。」
その言葉のお陰で僕は教師をやってこれたのである。「彼らと共通の言葉」それは上からものをいう「言葉」ではない。もちろん子供達と対等の言葉だ。別にこどもたちのいうところの「タメ語」で話せという意味ではない。ではどういう言葉なのか。それは子供達と何でも一緒にやっているうちに分かってくる言葉である。苦しい事も楽しいことも一緒になってやる。やらせるのではなくて、一緒にやる。それが味噌である。大きな声で校歌を歌って欲しかったら、自分も一緒に大声で歌う。一生懸命勉強して欲しかったら自分も一緒に一生懸命勉強する。そうすると彼らの言葉が聞こえてくるのだ。言葉はまず耳から覚えなくてはいけない。彼らの言葉が聞こえるようになったら、自分がしゃべるのは時間の問題なのだ。大学卒業してすぐの新米教師は特にその能力が高いはずだ。何しろちょっと前までは文字どおり「学生」だったのだから…・ところが「先生」になった瞬間にその言葉を忘れてしまい、二度と話せなくなる教師がたくさんいるのも事実である。彼らは残念ながらプロの教師にはなれないのである。言葉が話せないということはコミニュケーションができないということだ。それこそ最初が肝心である。言葉の力は恐ろしいのだ。笑顔つきのいい言葉より強いものはない。大丈夫。貴方ならきっとできる。
お母さんが笑顔で、いい言葉といい栄養を赤ちゃんに与えていくことが大事。
学校だって、同じはず
* 笑顔つきの言葉。教師にとっても子どもたちから貰うとたまらないものだ。半世紀以上生きてきたって、笑顔つきの言葉ほど嬉しいものはない。6歳の子どもたちが13歳の子どもたちが、その笑顔とその言葉でどれだけ元気になるだろう・・・・この一週間で、できる限りの笑顔とできる限りの優しい言葉を子ども達へあげて欲しい。優しい顔をしているとなめられるんじゃないか・・・そう思っている貴方はもう子ども達の言葉を失っている。そういう時は思い出せばいい。6歳の頃の自分を、15歳の頃の自分を・・・・
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4月9日 (木)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第98弾! 2009.4.9(木)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第98弾! 2009.4.9(木)   たかやん

富士見環境センター
マットレス、テレビ台、ベットの枠、アンプ、鍋・・・粗大ゴミを車に積んで、富士見環境センターへ行ってきた。カルディナに一杯のゴミだったが、かかったお金は1000円未満。市にお願いするよりも遥かに安い。これでスッキリ!朝から気持ちがよかった。

テニス
市営のコートが空いていたので、家族三人でテニスをした。天気はいいし、風はなくて暖かいし・・・最高のテニス日和だったのだが、4面のコートでテニスをしていたのは僕達だけ。確かにコートの状態は悪いんだけど・・・気持ちのいい1時間だった。

車掃除
天気がよかったので、車の掃除をした。車の外も中も綺麗になって気もちがいい。部屋の片付けもしなくっちゃ・・・。

基礎英語1
空が基礎英語1を始めた。「パパの塾でお勉強したい」と空。「ふーん。じゃあ基礎英語でもやってみるか。」「うん」という訳で、パソコンで基礎英語1の最初から勉強を始めた。小さい頃は英語の環境にどっぷりと浸かっていた空だが、最近は専ら母国語の習得に気合が入っていた訳で・・・それでも英語の耳はちゃんとしていて、少し驚いたのだった。

先生になりたい人へのメッセージ

第七歩 「共通行動?」
自分の事を「先生はね」と一人称で呼んではいけない。中には「校長先生はこう思います!」とか恥ずかし気もなくいう校長がいるが、あれはかなり恥ずかしい。「先生は…」と自分で言う人はそう呼んで欲しいのだ。「先生!」と呼んで欲しいからそういうのだ。僕は職員室でも「タカヤン!」と呼ばれていた。すると怒る人がいるのだ。職員室でそういう呼び方をするな!と怒る訳である。大きなお世話である。教師はあだ名で呼ばれて一人前なのだ。「職員室では、生徒は後ろのドアから入る事。」と決めた学校があった。前には校長教頭、教務主任がいるというのが理由である。
生徒と共通の言葉を持ち続けた校長は「いつでも校長室に遊びにきてね!」と子供達に伝える。この差は大きい。自分が偉いと思うような管理職は学校には必要無いのだ。学校に必要なのは子供達の言葉を話せる先生である。
今の学校には「取り締まり系」の先生が多すぎる。校則を取り締まることなど素人でも出来るということが分かっていないのだ。「共通理解」「共通行動」それが大事だという学校があった。みんなで同じことをする事が大切なのだ、という訳である。一見もっともだが、実はそのことほど危険な事はない。自分が生徒であるとしよう。朝から友達の事で悩んでいる。そういう時に会う先生みんなから「お前、名札がついてないな!」と言われたらどう思うのだ。嫌いな先生ならまだいい。好きな先生からも「お前、名札がついてないな!」と言われたら、子どもは学校に来たくなくなるだろう。でも、自分の好きな先生が「おはよう!どうした?元気がないぞ!何かあったか?」と笑顔で聞いてくれたら、子供達はどんなに嬉しいだろう。プロは子供達の目を見て言葉を選ばなくてはいけないのだ。
今、小学校でも中学校でも「朝の挨拶運動」なるものをしている学校がある。校長やPTAのお母さん達が朝、校門に立って「おはようございます!」というあの運動である。選挙運動じゃああるまいし、いかにも不自然なことなのに、それが子ども達を変えると信じている人達がいる。自分が生徒の気持ちになれない人達である。要するにプロではない訳だ。挙げ句の果てに服装のチェックをする人までいるからどうしようもない。「朝の挨拶運動」は自己満足以外のなにものでもないのだ。「校則」では人間は教育できない。中学校の校則などは世の中にでれば全く通用しないものなのだから…・。子供達に教えなくてはいけないのは「きまり」ではなくて「マナー」である。これは日本中どこへ行っても通用する。(世界は広いから通用するとは限らないが…・。)「校則」に目くじら立てる先生が、「いじめ」を見逃すのだ。子供達の「目」を見ていないからそういうことになるのだ。プロはいつでも子供達の目をみていなくてはいけない。「共通行動」というなら、そういうことに「共通行動」を取って欲しい。
プロの教師は自分のことを「先生」と呼んではいけない。「私」や「僕」や「俺」という日本語があるではないか。「俺」が悪い言葉などと言ってはいけない。地方へ行ば「おら」は男女共通の立派な一人称である。子供たちから「あだ名」で呼ばれるようになろう。そしてそのあだ名を好きになろう。好きになるようなあだ名を付けてもらおう。
* 「共通理解」「共通行動」・・・ああ馬鹿らしい。まるで北朝鮮じごっこである。教師がこんなことを言っているようじゃあ、子どもたちは自立からどんどん遠ざかるだけだ。素人でもできることをみんなでやる・・・学校のレベルはどんどん落ちていく。それが分からないといけない。
* 子どもたちには本気でぶつかっていこう。怒るときは本気で怒ろう!そういう「共通理解」なら分かるが・・・それが校則の取り締まり用語では話にならないのだ。授業を大事にしろ!みんなの学ぶ権利は誰も侵すことができないんだ!土足で室内に入ってはいけない。物は大事に、友達はもっと大事に。そういう話は子どもたちにも通じるものだ。髪型とかスカートの丈とか、靴下の色でとやかく言われても、反発するだけである。本物の生徒指導は生徒の力を引き出すこと。生徒の人格を潰すことなどではない。何事も最初が肝心なのである。
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4月10日 (金)  『一生懸命』幻のたかやん日記 第99弾! 2009.4.10(金)   たかやん

『一生懸命』幻のたかやん日記 第99弾! 2009.4.10(金)   たかやん

トングの力
今朝もトングとビニール袋を持って、母さんと黒目川へ・・・。「おはようございまーす」「いつもご苦労さまでーす」「ありがとうございまーす」色んな人から声をかけてもらって、本当に幸せな気持ちになった。トングを持っているだけで、みんなが声をかけてくれる。トングの力である。

62回
生きた一票を託す会に呼ばれ、野火止公民館へ行ってきた。いつも傍聴に来られている方たちからの、辛口の批評を頂ける会である。驚いたのは、その中に星川さんがいたこと。はじめから「まな板の上の鯉」状態だったのだが、星川さんの参加で・・・猛獣に食われる寸前の「草食動物」状態になってしまった。それにしてもビックリするのは62回という会の継続性である。新人の議員よりははるかに多くの議会を知っている方達な訳で・・・その見識の高さや我々への要求レベルの高さに毎回感心してばかりである。2時間の予定が2時間半。あっという間の時間だった。そして、それは自分の勉強不足を痛感した時間でもあった。

継続
託す会の中に、黒目川で何十年も「魚類調査」をし続けている中村さんという方がおられる。彼女のやっていることは本物で、僕は密かに尊敬している女性なのだ。何が凄いって・・・何十年も毎月、川の中に入り、動植物の調査をしているのだ。そして、それを市民に公開しているのである。僕はその調査結果をいくつか見せてもらったが、本当にもの凄いレベルなのだ。そして僕は密かに、弟子にして欲しい・・・そう思っているのである。

六中
突然、塾の卒業生の勝が訪ねてきた。今年の1月にお母さんを亡くし、かなり落ち込んでいた。塾の先輩の太陽に電話をした。勝の同級生の太智や愛にも電話をした。それに佑や悠も加わって・・・結局11時過ぎまで六中テニス部とたかやん塾の合同ミニ同窓会になったのだった。みんなが自分の悩みをぶつけ、そして六中への熱い思いをぶつけた数時間であった。

教師になりたい人に贈るメッセージ
第八歩 「部活」
部活動は面白い。子供達と体も心も近づくチャンスが溢れている。僕は最初の5年間は軟式テニスをやった。校長に「硬式テニスをやらせてください。」と直訴したが「軟式をやっている子達の気持ちはどうする?」と切り返さされて何も言えなかった。軟式も中学の時にやっていたから、教えるのが下手ではなかったが、本当をいうと軟式には魅力を感じていなかったのだ。そういう訳でサッカー部の副顧問もやった。サッカーが大好きだったからだ。毎日昼休みにクラスの子供達と校庭でサッカーをやっていた。放課後テニスコートに行く前にちょっとサッカー部の練習に参加し、そのまま帰ってしまう日が続いたりした。子供達は焦ったらしい。このままでは顧問をサッカー部に取られてしまう…・彼らはある作戦を立てた。それは軟式テニス部を硬式テニス部にかえてしまおうという作戦だった。そうすれば顧問はきっと毎日来てくれるだろう、という訳だ。そしてその作戦は当たった。僕はその日から二度とサッカーのスパイクを履かなかったのだ。その当時の子供達にはそういう考える力があった。というか、そういう無謀なことを許すだけのゆとりが学校にあったのである。
僕はテニスにはまった。大学時代に遣り残した何かを子供達にぶつけた。インカレに行けなかった鬱憤を子供達で晴らそうとしたのかも知れない。僕が顧問をしたのは「男子テニス部」だった。別に軟式とか硬式とかはなかった。そこが彼らのねらいだったようだ。そして僕はその「男子テニス部」に女の子のマネージャーを8人ばっかり入部させた。自分のクラスから運動神経のいい子を選んで「テニスやらないか?」と誘ったのである。彼女たちは「硬式テニス」という響きに誘われてテニスコートに登場した。(そのコートは1面である時は80人に膨れ上がったのである。)男子の中の1年生の女の子達は恐いもの知らずだった。男子の関東大会の応援に池袋の立教中学に行った時も、西武線の中で半袖、ブルマーで騒いでいた。それで随分笑われたが、彼女たちが1年後に全国大会に出場するなど、僕以外は誰も思っていなかっただろう。僕の「テニス部」はこうしてスタートしたのだった。
テニス部の練習はきつかった。石神井高校時代のトレーニングを中学生にやらせたのだからめちゃくちゃだった。勿論僕も全て一緒にやった。不思議なもので、顧問が一緒にやると子供達は物凄いスピードでついてくるようになるのだ。彼女たちは走って走って走り回った。陸上部よりも走ったから、陸上部よりも速かった。そしてあっという間に全国大会に出てしまった。彼女たちは勝てなかったが、彼女たちの頑張りが後輩達に自信を与えた。男子が全国大会で2位になったのだ。硬式テニス部になった時に「日本一になろう!」と言った言葉が夢で無くなる日が来るような気がした。その学校ではその夢は実現しなかったが、次の学校で子供達はその夢をかなえてくれた。そう「日本一」になったのだ。それも二度も…勿論僕はテニスにますますのめり込んだ。そしてたくさんのタイトルを取るのだが、失ったものも大きかった。「家庭崩壊」である。僕は部活をやりすぎて、家族を失った。部活動は楽しい、だがほどほどにしなくてはいけない。
(写真カット)
この写真は五中の二年目のテニス部。当時は勿論軟式だった。この小さな子達に凄い知恵とエネルギーがあることを、当時はまだ知らなかった。

(写真カット)

六中で関東優勝、全国3位の時のメンバー。前から3番目が当時2年生の長男、亮。心臓の病気で運動を禁じられていたが、1年生の時はメンバーに恵まれ全国優勝、2年の時は3位になれた。3年生の時はキャプテンになったが、僕が他の学校に異動になり、県大会で敗退した。心臓に病気があるので、あと1年一緒にいさせて欲しい・・・そう希望したが、まったく相手にされなかった。この時に、新座の教育委員会の冷たさを初めて感じたのだった。

*子供たちが部活に燃えるようになると、学校が落ち着いてくる。荒れている学校は間違いなく部活動がいい加減である。部活の力はそれくらい強いのだ。子どもたちは教師のいい言葉だけで育つのではない。一緒に泣いて笑って汗をかくことで、教師の言葉を信頼するのである。特に運動部がしっかりとしている学校は授業も落ち着いている。エネルギーの出しどころを間違えると、学校そのものが崩壊することもあるのだ。部活動の力は凄い。事実だからしょうがない。

駅立ち
月曜日はひばりが丘、火曜日は東久留米、水曜日は志木、木曜日は新座の予定である。
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